71話 呼び出しの夜
「アレン殿下、リネット様。陛下がお呼びです」
「……陛下が?」
グドリアン宮の侍従に声をかけられ、振り向く。
お祝いの言葉はすでにいただいたはずなのに――まだ何か、伝えるべきことがあるのだろうか。
「すぐに向かうと伝えてください」
アレンが了承を伝えると、侍従は頭を下げて後ろに下がった。
「……問題でもあったのでしょうか?」
これまでにも、婚約のご挨拶や祝宴の場で陛下と顔を合わせる機会はあった。けれど、それはいずれも儀礼的な挨拶に過ぎず、個人的な言葉を交わしたことは一度もない。
だからこそ、こうして突然呼び出されたことに、不安が過ぎる。
「陛下も、リネットを直接祝福したいのかもしれませんね」
「もう、またふざけて……」
「どうせ大したことじゃありませんよ。リネットは何も心配しないでください」
彼の言葉は穏やかだった。
けれどその横顔は、柔らかく笑っているのに、どこか遠くを見ているようで――胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
……どうして、そんな顔をしているの?
「行きましょうか」
「……はい」
気の所為……だよね?
アレンに手を取られて歩きだす。
でも、何故か嫌な予感が止まらなかった。
彼に導かれるまま、グドリアン宮の奥へと進む。
宴の華やぎが嘘のように、廊下は静まり返る。その静けさの中、自分の心臓の音がやけに大きく響いている気がした。
ふと、重厚な扉の前で彼の足が止まる。
この先に、陛下がいるのね……!
「……っ」
自然と息が詰まる。
アレンはそんな私に視線を向け、静かに問いかけた。
「緊張していますか?」
「……少し」
「深呼吸を。陛下は理知的な方です。普段通りにしていれば心配は要りません。ただ……決して食えない方です。油断だけはしないように」
「は、はい……」
自分の声がかすかに震えているのが分かった。
扉番の兵が無言で合図を送り、扉がゆっくりと開かれていく。
緊張をほぐすように、胸の奥まで深く息を吸い込む。そして覚悟を込めて足を一歩、前へ踏み出した。
中は広々としていながらも過剰な装飾はなく、洗練された静けさが支配していた。
壁際には帝国の歴史を刻む重厚な書架が並び、その隣には一枚のタペストリーが掛けられている。
描かれているのは、翼を大きく広げた竜――国章にして、帝国の象徴。右翼は白、左翼は黒。鱗には紫電が走り、尾は雷の稲妻のように鋭く分岐していた。
高窓から差し込む月光が、磨き上げられた床に淡く光を落とし、空気に凛とした緊張感を与えている。
そしてその中心に、ラングシャル帝国皇帝《クロヴィス=ファン=バレッド》が静かに座していた。
「よく来たな、アレン。そして……虹の魔法使い、リネット=コトアリカ」
「は、はい」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
反射的に姿勢を正し、膝をついて深く頭を垂れる。
「楽にしてよい」
短い言葉ひとつで、空気が少しだけ緩む。
お言葉に甘えて顔を上げ、礼を解いて静かに立ち上がる。
「帝国騎士団に加わって日が浅いにもかかわらず、目覚ましい成果を上げていると聞く。今後も国を支える力として、そなたの活躍を期待しているぞ」
「……光栄です」
称賛されたはずなのに、胸の奥がどこか重くなる。
陛下は言葉では褒めながらも、反応を細かく観察している――そんな視線だったから。
「まぁ挨拶はこの辺にして、そなた等を呼び出した本題に入らせてもらおう」
皇帝の瞳がゆっくりとアレンへと向けられる。
「アレン。準備が整い次第、ヴァルドール王国に出立せよ」
……え?
その言葉が何を意味するのか、理解するまでに数秒かかった。
ヴァルドール王国って……守護の国? 防御魔法の原点になっているっていう……。名前は知っているけど、深くは知らない。
そんな国に、どうしてアレンが?
「ずいぶん急ですね」
アレンが静かに言う。
その声にわずかな緊張が混じるのを、私は聞き逃さなかった。
「ヴァルドール王国からの要請だ。あちらは一刻も早い関係修復を望んでいる」
関係修復? ヴァルドールと帝国の間に何が?
アレンは陛下の言葉を受けた瞬間――ほんの一瞬、目を伏せた。息を吞む音も聞こえる。まるで、ずっと前からこの時を覚悟していたかのように。
耐えきれず、私は口を開いた。
「あ、あの……関係修復って、何のことですか? ヴァルドール王国と何があったんです?」
静かな室内に私の問いかけが響く。
陛下は眉を一つ動かし、こちらを見る。その瞳に宿っていたのは――意外にも、純粋な驚きに見えた。
「……まさか、本当に知らぬのか?」
「陛下。それ以上はお止めください。彼女には関係のない話です」
アレンが私と陛下の間に入り、低い声で制する。いつもの穏やかさよりも、どこか焦った響き。
それだけで彼が私に何かを隠しているのも、それを私にそれを知られたくないことも。
――でも。
私は、彼の言葉を振り払った。
「教えてください、陛下。お願いします」
胸のざわつきを押し殺し、視線を逸らさずに皇帝を見つめ返す。
アレンに聞いても、きっとはぐらかされて教えてくれない。知らないままでいることの方が、ずっと怖い。
短い沈黙の後、陛下は静かに頷いた。
「……いいだろう。そなたにも知る権利がある」
「陛下――」
「お前に余の口を封じる権利はない」
その声音は静かだが、鋭い刃のようだった。
場の空気がぴたりと凍りつき、アレンはそれ以上何も言えなくなると、拳を握りしめたまま沈黙する。
そして語られた言葉は――私には衝撃的なものだった。
「アレンはヴァルドール王国の王女との縁談を断り、そなたとの婚約を選んだのだ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
縁談。アレンが。王女の。
それを断って――私を?
頭の中で何度も繰り返して、ようやく一つの単語が口をついて出る。
「……縁談?」
「そうだ。それにより、ヴァルドール王家は面目を失った。代償として望んだのが、アレンの派遣だ。滞在期間に制限はない――王国が望む限り、留まってもらう」
「っ……!」
初めて聞く情報に、胸が鷲掴みにされたような衝撃が走る。
整理がつかない頭の中で、繰り返すのはただ一つ――どうして、どうしてずっと黙っていたの? 私に何も言ってくれなかったの?
足元がわずかに揺らぐ感覚がして、倒れないように踏みとどまった。
「アレン、向こうはお前の魔力を高く評価していると聞いている。赴く以上、帝国の益となるよう振る舞え。言っておくが、拒否権はない。自ら望んだことだ」
淡々と告げられる言葉。
アレンは陛下をわずかに睨みつけると、何かを言いかけたように唇がわずかに動く。だが、言葉にはならない。
代わりに、彼は笑顔で、静かに頭を垂れた。
「……かしこまりました、陛下。わざわざリネットまで呼び出してご報告いただいたこと――心より感謝します」
それだけ告げると、踵を返す。
私も慌てて立ち上がるが、彼はもう早足で扉へと向かっていた。
「失礼いたします」
陛下に一礼し、急いで後を追う。
慌ててアレンの姿を探すと、廊下の先に彼の背中が見えた。
彼は私の方を一度も振り返ることなく、その背中には、何かを拒むような硬さがあった。
「待って、アレン!」
呼びかけても、彼は止まらない。
「なんなの、いったい……!」
胸の奥がざわざわと波立つ。
アレンは、私と向き合う気がないの? ちゃんと話し合う気もないってこと?
廊下を抜け、グドリアン宮の前庭へと出る。
魔力を帯びた花々が淡く光を放ち、夜の庭を静かに照らしていた。けれど、その美しさは今の私には何の慰めにもならなかった。
「アレン!」
やっと追いついて、彼の腕の服を掴んだ。
ゆっくりと振り向く彼の表情はとても冷めていて、普段、私に見せる表情とは違う。
「どうして逃げるんですか?」
「話す必要がないからです」
完全な拒絶。
その一言に、胸の奥で何かが弾けた。
「そんなはずないでしょう! 私は貴方の婚約者なんですよ!? それなのに、どうしてあんな大事なことを、他の人から聞かなければならないんですか!」
自然と怒りが込み上げていた。
悲しみと不安が、私を遠ざけようとする彼の態度に鋭く尖って、言葉になって飛び出す。
自然と、声は強くなっていた。抑えようとしても、抑えきれない。
「……リネットには、折を見て伝えようと思っていました」
「嘘! 伝えるチャンスなんて、いくらでもありましたよね」
アレンの目を真っ直ぐに見据える。
それを避けるように彼の視線が逸れた。
「このまま黙って……一人で行くつもりだったんですか?」
「……」
その沈黙は、肯定以外の何物でもなかった。
もし陛下が私も一緒に呼び出さなければ――アレンは一人で全てを抱え込んだまま、黙って消えるつもりだったのだ。
胸がぐしゃりと掴まれたように痛む。
「私は――貴方の『足枷』なんですか? 一緒に悩むことすら、許されないんですか?」
震える拳を隠すように胸元に引き寄せる。
怒りだけじゃない。置いていかれる恐怖が、息を苦しくした。
「そんなつもりはありません。ですが、これは俺の問題であって、貴女には関係ありません。だから、俺が解決します」
「そればっかり……! 結局は、最初から私を信用していなかっただけですよね」
「リネット、落ち着いてください」
「落ち着けません! どうして教えてくれなかったんですか!? 言ってくれれば……私だって……! どうにかできたかもしれないのに……!」
「どうにか――?」
アレンは低く息を吐いた。
まるで堪えていた苛立ちが滲むように。
「これは国同士の政治的な思惑が絡んでいます。貴女に伝えたところで、何ができるんですか?」
「っ!」
突き放すような冷たい言葉に、心が痛む。
でも――どうしても、引き下がる気にはなれなかった。
「……私を足手まといだと思っているから、何も言わなかったんですね」
アレンはハッとして少しだけ目を伏せると、静かに言った。
「違います」
「じゃあどうして私を遠ざけようとするんですか!?」
「遠ざけていない!」
「なら言ってよ! 縁談のことも、それを断ったことも、代償を払わなければならないことも! どうして私には何も言ってくれないの! 私はそんなに、貴方にとって頼れない相手なんですか!?」
叫ぶような声が夜の庭に響いた。
気づいた時には、涙が滲んでいた。
彼が私を気遣っていたことは、分かっている。分かっているのに――どうしても、言葉が棘を帯びてしまう。
胸の奥に溜まった痛みが、怒りに変わって溢れ出す。
アレンはしばらく沈黙したまま、視線を逸らしていた。そして、静かに言った。
「……すみません。まだやるべき仕事が残っているので、ここで失礼します」
その言葉は冷たく、遠かった。
まるで、私との距離を決定づけるように。
「待ってください! 話はまだ終わっていません!」
思わず手を伸ばす。
「……お互い冷静ではないようですし、今は止めておきましょう」
だけど彼は踵を返し、私を残して歩き出した。
一瞬だけ足を止めるような素振りを見せたけど、振り返ることはなく、その背中は私の声を振り払うように、遠ざかっていった。




