69話 プロローグ
王都ヴァルドール。
この国は、鉄壁の守護を誇る防御魔法国として知られている。
いかなる侵略も受けつけず、また自ら他国に刃を向けることもない。攻めず、侵されず。完璧な静寂と秩序の中に築かれた王国。
その領土は小さくとも、「蜂」の巣のように緻密に編まれた六角形の魔法障壁が、あらゆる外敵を拒む。
そしてその中心に立つのは、国を統べる母なる「女王」であった。
黄金の光が満ちる女王の間。
その中心で女王 《ヴァルディア》は、幾重もの臣下を従え静かに玉座に座していた。
「……ラングシャル帝国が、娘との縁談を断ったと?」
女王の唇が、微笑の形を保ったままわずかに歪む。
その声音には、怒りとも失望ともつかぬ冷ややかさが滲んでいた。
「はい。帝国側――アレン殿下ご自身の強いご意向とのことです」
応じたのは、女王の右腕たる宰相 《コクシエル》。
深く頭を垂れたまま、彼は慎重に言葉を選びながら続けた。
「帝国は当初より辞退の意を示しておりました。それでも我々は外堀を埋め、婚約が既定路線であるかのように、周囲を固めてきたのですが……」
「これほど念入りに舞台を整えて差し上げたというのに。好意を踏みにじるとは……随分と無粋なお方じゃのう」
小さく息を吐き、女王は唇の端を上げた。
笑っているのか、それとも噛み殺しているのか――その境は曖昧だった。
「顔合わせまで進めば、強引にでも縁を結ぶ手筈を整えるつもりでございましたが……」
コクシエルが言葉を濁すように口を閉じた瞬間、奥からは鋭い声が飛んだ。
「 ここまでお膳立てしてやったにもかかわらず、ふざけた奴だ!」
声の主は女王の息子にあたる青年で、軍務を司る王族の一人。
彼のアメジストの瞳が怒りに揺れ、声を荒げるたびに場の空気が鋭く凍りついた。
「我らの誇りを踏みにじるような国など、力でねじ伏せればいい!」
「《ザイレク》王子……お言葉にはお気をつけくださいませ。帝国の者に聞かれていたら、国際問題にも発展しかねません」
コクシエルが低く諫めるように言うと、ザイレクはふんっと鼻を鳴らした。
「ここには我が国の者しかいないだろう! それに、そんな舐めた真似をする相手には、痛い目を見せてやらねば気が済まない!」
感情に任せて言葉を発する王子。
激情に震えるザイレクを、女王ヴァルディアは微動だにせず見据える。その静かな視線は、確かにザイレクを射抜いていた。
「ザイレク、いい加減になさい。我が国の威厳は軽率な力ではなく、守ることで示すものよ」
「……っ、はい」
その声は穏やかでありながら、反論の余地を許さぬ重みがある。
ザイレクは言葉を失い、唇を噛んで黙り込むしかなかった。
「まぁいいわ。どちらにせよ、我が国の面子を潰されたことに変わりはない。ならば――きちんと償ってもらわなければね」
その言葉とともに、女王は静かに立ち上がる。
濃いハチミツ色からアメジストへと移ろうドレスが光を受けてゆらめき、その背から流れる羽布は空気を裂くことなく淡く、しかし確かな存在感を放つ。
その笑みは花が開くように、静かに。
蜜よりも甘く――毒針よりも鋭かった。
「アレン殿下には利用価値がある。この手の中で、私の娘と結婚してもらうわ。いいわね、《アピア》」
「……は……い」
女王の鋭い視線が、玉座の下に控える娘へと突き刺さる。
まるで、今までそこに存在していなかったかのように小さく身を縮めていた彼女は、その視線を受け、かすかに頷いた。
濃紺の長髪が顔の半分を覆い、伏せられた瞳は蜜色の光を宿している。
しかし、その光は決して誰の目も見返すことはしなかった。
「全ては愛しき私の民のために――」
その一言が空気を変える。
女王の間に再び緊張が走り、臣下達は一糸乱れず頭を垂れる。
儀礼的な沈黙が満ちる中、女王はゆるやかにその場を後にし、人々もそれに倣って散っていく。
だが、ただ一人、アピアだけが取り残されたように、静かにその場に立ち尽くしていた。
「……」
誰もいなくなるのを待ち、アピアは静かに顔を上げる。そして誰にも告げずに、別の扉へと歩き出した。
真っ白な通路へと続く、赤い絨毯。足音は絨毯に吸い込まれ、響かない。
王女でありながらお付きの一人も連れない後ろ姿は、まるでこの世界から溶けてしまうかのように儚かった。
やがて歩みの先に現れたのは、一面に咲き誇る《女王の花園》。
アピアはその中心に据えられた祭壇へ歩み寄ると、そっと膝をついた。
「……今日も、どうか安らかに……」
囁くように言葉を落とし、両手を組む。
祈りの言葉は短く、しかしひどく切実だった。
――それは誰に向けた祈りなのか。亡き者達か、あるいはこれから名も知らぬ誰かを思ってか。
沈黙が降りる。
近くで、蜂の羽音にも似た振動がわずかに響いた。
「守りたいのに……壊れていく……」
その声は誰にも届かないほど小さく、悲しみを含んでいた。
まるで手のひらで包んだ蜜が、指の隙間から溶け出すように。
甘く、温かく、けれど触れた瞬間に形を失ってしまう――そんな儚さを抱いて、アピアは目を閉じた。
花々が風に揺れ、蜜の香りが漂う。
届かぬ願いは、香りとともに空へと消えていった。




