68話 始まりの前に――
時は遡り、彼女がクリフに婚約破棄を告げられた直後――
「――リネット、僕は君との婚約を破棄する」
その一言がクリフ様の口から落ちた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
メルランディア子爵家には意地悪な姉がいる――そんな物語が、いつの間にか真実として語られていた。
妹ウルを虐げ、ついには階段から突き落とした酷い姉リネット。
誰もがその虚構を疑わず、今日、私はその作り話を理由に婚約を失った。
「……家族はもう諦めていたけど……クリフ様にだけは、信じてほしかったのに」
否定しても、誰も耳を貸さない。
家族は私を勘当し、修道院へ送る手続きを進めている。
扉の向こうでは、元婚約者と妹の新しい婚約を祝う声が弾んでいた。――私は、妹を虐めたことなんて一度もないのに。
「……こんなの、あんまりよ」
急ぎ足で自室に戻った途端、張りつめていたものが音もなく崩れ落ちた。
信じてほしかった人にさえ背を向けられた現実が、胸の奥にじわりと広がっていく。
静まり返った部屋に、かすかな呟きだけが落ちていった。
◇Side アレン
「陛下。申し訳ありませんが――俺は、次の婚約の顔合わせには行けません」
ラングシャル帝国皇帝陛下が住まう皇宮《グドリアン宮》。
俺の言葉が落ちた途端、場の空気は一気に重苦しいものへと変化した。
「……どういうつもりだ」
王座に腰かけていた陛下は、次の瞬間には深く頭を抱えていた。
「言葉通りです。今回の婚約が我が国にとって重要なものだとは理解していますが、俺は婚約を受け入れるつもりはありません」
ハッキリそう告げると、陛下は更に頭を抱え、眉間に皺を寄せた。
「顔合わせを欠席することがどういうことか、分かっておるのか? 一度交わした約束を反故にするということは、儂の顔に泥を塗ることになるんだぞ?」
熱の籠った怒り。
陛下が本気で怒っているのは分かる。しかし、俺は決して引くつもりはなかった。
「最初からお断りしていたのに、相手が勝手に婚約の話を広めた所為で、引くに引けなくなっただけでしょう」
まるで既に婚約が決まったかのように話を膨らませ、外堀を埋め、既成事実として周囲に認識させた。このまま顔合わせに進めば、強引にでも婚約が押し進められるのは明らかだ。
「国の益のためだ。儂がお前の我儘を聞き、何度婚約を断ってきたと思う?」
「重々承知していますよ。だからこそ、今回もお断りしてください」
「……お前も、もういい年だろう。何故そこまで婚約を拒む?」
この質問が、父として俺を理解しようとするものではないことは分かっている。俺が思い通りにならないから、苛立っているだけだ。だが、それでも俺は、絶対に誰とも婚約する気はない。
「俺には迎えに行かなければならない人がいるんです」
「迎えに行く……だと? まさか、恋人でもいると申すのか」
「いいえ、ただの俺の片思いです。彼女には今まで婚約者がいたので諦めていたのですが、つい数日前に婚約破棄したと風の噂で聞きました。彼女を手に入れるために、このチャンスを逃すわけにはいかないんですよ」
「片思いだと……!?」
陛下は眉間に皺を寄せると、目を見開いたまま身を乗り出した。
俺が何かにここまで執着する姿を、陛下はこれまで一度も見たことがないのだろう。
――俺自身も、それを自覚している。
俺が興味を示すのは、唯一彼女だけだ。
「馬鹿なことを……その片思いの相手が誰だかは知らんが、さっさと諦めろ」
「無理ですね。陛下が納得されなくても、俺には彼女だけです」
「どうなってもいいんだな」
「ええ、別に構いません。ただ――俺ほど優秀な息子を、簡単に手放していいんですか?」
ラングシャル帝国は実力主義の国だ。それは皇族であっても変わらない。
帝国で「天才」と称される魔法使いである俺を失うことが、陛下にとって大きな痛手となることを、俺自身もよく理解している。
「お前は本当に……口が減らないな」
陛下の声は静かだったが、その静けさこそが本気の怒りを物語っていた。
「……本気なのか? 今まで何も執着しなかったお前が……」
鋭く俺を睨み付ける陛下の目を、臆することなく見据える。
婚約の件は別として、陛下の言うことを忠実に……と言えば語弊があるが、多少ごねたり憎まれ口を叩くことはあっても、逆らわずにレールの上を歩いてきた。
そんな俺のたった一つの願いくらい、叶えていただきたいものです。
「俺には彼女だけです」
強調するように、もう一度言葉を紡ぐ。
やがて陛下は、俺が一歩も引かないことに気付き、諦めの表情を浮かべて肩を深く落とした。
「お前の片思いの相手とやらは、余が認めるに値する人物なんだろうな?」
「ええ、彼女は俺にも引けを取らない『とても優れた魔法使い』です。きっと、陛下も認めざるを得ないと思いますよ」
「お前にも負けないだと? 笑わせるな。そんな魔法使いが、そこらの令嬢にいるものか」
「さぁ? どうでしょうね」
鼻で笑う陛下の声音には、あからさまな嘲りが滲んでいた。
だが、俺には揺るぎない自信があった。七年の歳月が流れていようとも、彼女なら『約束』通り、俺が驚くほどの魔法使いになっていると。
「……あちらの国は面子を潰されたと騒ぎ立てるだろう。その代償として何かしらの責任を求めてくるはずだ。それでも片思いの相手を選ぶのだな? 責任を取る覚悟はあるのだな?」
父の声には、帝国の皇帝としての厳格さと威圧が満ちていた。
だけど俺は少しも迷わなかった。彼女を手に入れるためなら、どんな代償も払う。
「はい、全て覚悟の上です」
「……いいだろう、その言葉を忘れるなよ。我が息子とはいえ儂の面子をつぶすのだ。その娘が価値を示すのは当然、お前にも相応の責を取らせるぞ」
「分かりました」
強引に陛下を納得させると、振り返ることもなく、俺はグドリアン宮を後にした。
「すぐに彼女の家に連絡を。俺が娘を婚約者に希望していると知らせてください」
「かしこまりました」
侍従に指示を出すと、そのまま馬車に乗り込む。
昂る気持ちを押さえるように足を組むと、窓の外を静かに見つめた。
「婚約破棄……自ら彼女を手放すとは、クリフも愚かですね」
ただ、俺にとっては望ましい。
ようやく会える。俺が長年片思いしている彼女に――――
あの日の決断から、時は再び現在へと戻る。
◇
グドリアン宮、王座の間――――
「何か御用でしょうか? 陛下」
帝国騎士団での仕事中に陛下に呼び出された俺は、急遽ここに来た。帝国騎士団関連とは別の呼び出し……どうせロクな要件じゃないだろうと、心の中でだけため息をつく。
「リネット嬢と正式に婚約発表して暫く経つが、仲良くしているのか?」
ゆったりと玉座に腰掛け、俺を鋭く見つめる陛下。その視線には、俺の心のうちを見極めようとしているのが感じ取れた。
「はい、問題なく」
「そうか……」
これが父親として、純粋に子の幸せを案じての質問ではないことは理解している。
これまで親子らしい会話を一度もしたことがない陛下が、そんなことを気に病むはずがない。
「彼女は、帝国騎士団でも上手くやっているのか?」
「陛下。わざわざ俺に聞かなくても、彼女を監視しているのだから知っていますよね?」
「……気付いていたのか」
「はい」
リネットを監視しているのは、主に皇族の護衛を担当している帝国騎士団第四部隊だろう。
流石に魔女の箱庭まではついてこなかったが、鬱陶しく彼女に付きまとっている存在には気付いていた。害もないし、どうせ陛下の差し金だろうと放っておいたが――
「俺の婚約者の品定めはいかがでしたか?」
答えを分かっていて、あえて笑顔で尋ねると、陛下は複雑そうな表情を浮かべた。
「……正直に言おう。予想外だった。まさか『極彩式魔法』なるものを生み出すとは……」
極彩式魔法とは、彼女が魔力の消費を極限まで抑え、効率よく扱えるように編み出した新たな魔法式だ。そのおかげで、魔力量の少ない彼女でも大規模魔法を発動できるようになった。
単なる工夫では済まされない。戦力バランスを覆しかねないほどの革新であり、帝国にとっても無視できない成果だった。
彼女に良い印象を持っていなかった陛下でさえ――その功績だけは認めざるを得なかった。
そして、その実力を示したからこそ、彼女は第0部隊への異動を正式に許可されたのだ。
「あの混沌の魔女が再生した魔女の箱庭もクリアし、魔女自身もリネット嬢を気に入っているとか……どうやら彼女は、本当に優れた魔法使いのようだな」
「彼女を褒めて頂き、ありがとうございます」
「だが、余はまだ彼女を完全には認めておらぬ」
「そうですか、残念です」
強情な父親だな、とは思いつつ、国のトップに立つ者としては、そう簡単に人を信じるわけにもいかないのかと、一定の理解を示す。
「第0部隊への入団を許可したのは、彼女を見極めるためでもある。もし少しでもお前の婚約者に相応しくないと思えば、婚約を破棄させると思え!」
「……かしこまりました」
陛下の言葉には、確かな圧力と冷徹さがあった。否応なく受け止めるしかなく、胸に手を当てて深く頭を下げる。
その様子を見ていた陛下は、少し間を置いて会話を続けた。
「……それと、後日、正式に彼女の功績を祝う催しを開くので、そのパーティーにはお前も参加しなさい」
「勿論。リネットのためなら喜んで参加致します」
「お前は本当に……彼女のためとなると態度が違うな」
陛下がわざわざ俺に念押ししたのは、俺が帝国騎士団の仕事を理由にパーティーに参加しないことが多いからだろう。
そんな俺が即答したのだから、陛下がため息を吐くのも無理はない。
「要件はそれだけですか?」
ここにいても何の実りもない。早く帰ってリネットの顔を見たい。
そう思って言葉を繋いだが、返ってきた返答は、胸に重くのしかかるものだった。
「いや……本題はここからだ。アレン、お前が見合いを断った《ヴァルドール王国》の姫から、代償を求める要求が届いた」
「……ああ」
陛下の言葉に、胸の奥が鈍く疼く。
忘れていたわけじゃない。ただ、リネットと過ごす日々があまりにも幸せで、忘れていたかっただけだ。
リネットを手に入れるためなら、どんな代償であろうと払う覚悟はできている。
――――それが、この幸せの続きを手にするために必要なことなら。




