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番外編65話 過去

 

「騎士のお姉ちゃんなんか嫌いだ……! どっか行って! 僕の前から消えて!」


「な、何なの!? きゃあああああ!」


「セレアさん!」


 サディルの小さな肩が震えたかと思うと、その瞳の奥に紫の光がちらりと揺らめいた。胸の奥がざわりと騒ぐ――嫌な予感。

 その直後、サディルの叫びに呼応するように、空間が歪んだ。

 その歪みに引き寄せられるように、セレアさんの体が吸い込まれていく。

 一瞬――黒い手のような影がセレアさんの腕を掴んだ気がした。

 けれど次の瞬間には、歪みは静かに閉じ、残されたのは異様な魔力に包まれたサディルだけが、空間を支配するようにその場に立っていた。


「サディル……!」


「……お姉ちゃんとお兄ちゃんも、僕の願いを奪うの?」


 冷たい声に視線。

 さっきまでの可愛らしい雰囲気は、跡形もない。瞳の奥で紫が妖しく瞬き、笑みさえも冷たく歪んでいる。

 ――その姿は、人間だとは思えなかった。


「……おかしいとは思っていましたが、貴方が、異能の願いの主なんですね」


「サディルが……!?」


 アレンの低い呟きに、私は思わず声を上げた。


「絶対に僕の願いを奪わせない……! 邪魔するお姉ちゃん達は――敵だ」


 サディルの瞳が一層紫に煌めくと、家全体がわずかに揺らいだ。

 壁の向こうから低い唸りが響き、床板がぎしりと軋む。家そのものが意思を持ち、サディルの怒りや孤独に呼応しているかのようだった。


「危ない!」


 アレンの声と同時に、腕を強く引かれた。

 その瞬間、壁がぐにゃりと曲がり、槍のように突き出してくる。さっきまで私が立っていた床がえぐられ、破片が宙を舞った。


「な、なにこれ……!」


「――《妖嵐【ようらん】の爪痕【つめあと】》」


 アレン殿下が風の魔法を発動し、迫り来る壁を鋭い風の爪で引き裂く。だが、砕けた木材はすぐに再び絡み合い、みるみる元の壁に戻っていく。


「生きてますか?」


「い、生きてますけど……アレン殿下、いつの間にこんなに攻撃魔法を……!」


「これくらいは、入学する前から使えます」


 ああ、やっぱり天才だ。感心している余裕はないけれど。


「サディル……! お願い、もう止めて!」


「やだよ。だってお姉ちゃん達、僕の異能を手に入れに来たんでしょ? 絶対に誰にも渡さないよ」


 そう言いながらサディルの攻撃は止まらず、壁も床も、そこにあった机や椅子すら、全てが私達に襲いかかってきた。

 アレン殿下が魔法で塞いでくれているけど……。


「わ、私も……!」


 手に魔力を集め、意識を集中して魔法式を頭に描く。


「《焔火【えんび】》」


 炎の初級魔法で、迫り来る攻撃を弾く。

 私も攻撃魔法を勉強していて良かった――と思ったけど、すぐに、体を突き抜けるような虚脱感が襲う。

 助けにならなきゃ。頭では分かってるのに、魔力を集めようとすればするほど、胸が焼けるように熱くなり、視界がちらついて手足の感覚が遠くなる。

 このままじゃ魔力切れで動けなくなる……! そう思ったら、次の魔法を使えなかった。

 魔力が少ないのが、こんなにも歯がゆいなんて……!


「……埓があきませんね」


 アレン殿下は唇を結び、ふぅと短く息を吐いた。

 次の瞬間、空気が震えるほどの魔力が彼の周囲に集まっていく。


「アレン殿下、何を……?」


「仕留めます。これ以上は危険ですから――」


 アレン殿下の決意の籠った冷たい声に、ひゅっと、息が喉に詰まる。

 頭では分かっている。サディルは今、私たちを襲う敵。止めなければ命が危ない。でも――小さな体に向けて魔法をぶつけることを想像すると、自然と体が動いた。


「ま、待って下さい!」


 思わず声を張り上げ、彼の袖をぎゅっと掴む。


「私がサディルを止めます!」


「……止める? どうするつもりですか? 彼はもう普通の子供ではありません。それでも止めるというのですか?」


「止めます!」


 助けたい……!

 だってサディルが私に言った願いは、きっと嘘じゃないと思うから。


「無茶です、危険すぎます」


「分かっています! でも助けたいんです!」


「気持ちだけではどうにもなりません。力も覚悟も、貴女には足りないものが多すぎます!」


「だからこそお願いです! 力を貸して下さい……アレン!」


 口にした瞬間、はっとした。

 いつものように「殿下」をつけなかったことに気付いたからだ。だけど、それだけ必死だった。敬称よりも、心から伝えたい想いの方が勝っていた。


「……呼び捨てですか?」


 アレン殿下は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。


「す、すみません……つい、必死で……」


 でもアレン殿下の視線はすぐに真剣な色に戻り、力強く頷いた。


「……いいでしょう。ただし力を貸すのは一度だけですよ」


「あ、ありがとうございます!」


 許可をもらい、ホッと息をつく。


「援護しますが、本当に危険を感じればそこでお終いです。くれぐれも無茶しないで下さい」


「……はい。アレン殿下を信じます」」


「――《鳴雷【めいらい】》」


 雷鳴のような音が空気を裂き、風が鋭く唸る。

 アレン殿下の援護を得て、床の突起に足を取られて転びそうになりながらも、切り開かれた道を頼りに、必死にサディルのもとへ進む。


「サディル!」


「お姉ちゃん……! 来ないでよ! 僕の願いを奪わないで!」


「痛っ!」


 壁の破片が腕をかすめ、鋭い痛みが走る。血が滲む感覚に、痛みで顔が歪む。

 アレン殿下が魔法で道を守ってくれているおかげで、前に進むことを諦めずに済んだ。


「奪ったりしないよ。帰ろう、約束したじゃない」


 差し出した手。

 血で汚れた手を見て、サディルの瞳が一瞬、悲しそうに揺れたのを私は見逃さなかった。


「サディル……ずっと家族のもとに帰りたかったんだよね? ずっと……ずっと……」


 私にはサディルがどれくらい、ここに居続けたのか分からない。

 でも……家族の元に帰りたいって、ずっと願い続けていたのは分かる。


「お姉ちゃん……血が……!」


「大丈夫だよ。怖かったよね……でも、もう大丈夫」


「本当に……信じていいの……?」


「うん。絶対に信じていいよ」


 その瞬間、家に流れていた異様な空気が、少しだけ柔らかくなるのを感じた。


「……ひっくひっく。おうちに帰りたいよ……! ママ……パパ……!」


「サディル……!」


 幼い子供へと戻ったサディルは、ぽろぽろと涙をこぼしながら、声を詰まらせて泣きじゃくった。


「僕……家を飛び出して……砂漠から帰れなくなって……ずっと『おうちに帰りたい』って……ママに謝りたいって、ごめんなさいって言いたくて……!」


 切実なサディルの願いは、土地に満ちる魔力と反応して、異能へと姿を変えた。この閉ざされた家は、サディルの心――家の記憶そのもののように思えた。

 もしこの仮説が正しいなら、きっと雨を呼ぶ異能【空の祝福】もまた、この地に住まう人々が強く雨を望む気持ちから生まれたのかもしれない。


「ママとパパがいるおうちに帰りたいよ……ママに、ごめんなさいって言いたいだけなんだ」


 小さな子供が砂漠に一人っきり。

 どれだけ心細かったんだろう。歩いても歩いても帰れない砂漠の中――――サディルは息を引き取った。


「絶対に家に帰ろう……サディル。私と一緒に!」


 小さな体を抱きしめると、胸の中でサディルはさらに声を上げ、泣き叫んだ。

 その涙の響きに呼応するように――これまで扉ひとつなかった密室に、まばゆい光が差し込み、遂に扉が姿を現した。





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