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コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
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花一匁 17

「……」

 和音は無言で、視線を教室の真ん中に向ける。

 そこに集う生徒達は、切れた携帯を指さしながら、激しい議論を続けていた。

 主に騒いでいるのは、柊吾と七瀬の二人だ。和泉との通話が切れて数分後、この二人は地団太を踏んで悔しがったり罵詈雑言を喚いたりと、やかましい事この上ない。そんな二人を避けるように、日比谷陽一郎という気弱そうな少年が教室の隅へ逃げている。坂上拓海と改めて名乗ってきた少年は二人の仲裁に入っていたが、まるで効果を為しておらず、途方に暮れているようだった。

 雨宮撫子という少女も、拓海に続いて二人を止めに入ったが……撫子に気付いた七瀬は、怒り狂うのをやめて駆け出し、華奢な他校生をぬいぐるみのように抱き締め始めた。

「撫子ちゃん、お兄さんが何かわけわかんない事言ってたけど私が守ったげる。絶対守ったげるからね! っていうか何なのあれ! お兄さん私達を助ける気ないでしょ! 自分イケメンだからって調子乗ってるでしょ! もうっ信じらんない! 信じらんない……!」

 柊吾が「やめろ篠田、潰れる!」と悲愴な声を上げたが、あれでは本当に潰れかねない。顔が七瀬の制服に埋まっている。手は弱々しく背中を叩き、命の危険を訴えていた。潰れるよりも、窒息の方が先かもしれない。和音は息を吐いた。

「……帰りたいんだけど」

 その本音は、隣の毬にだけ聞こえたらしい。

 毬はしゅんと項垂れて、申し訳なさそうに囁いた。

「和音ちゃん……もうちょっとだけ、付き合って」

 哀願の言葉に、和音はぐっと文句を呑む。

 だがそんな毬の我儘に、付き合い続けて三十分。

 その間にここで為された問答は、和音に不安と嫌悪感しか齎さなかった。

「毬。じゃあ、もっとちゃんと説明してよ」

 和音の言葉に、毬の肩がびくんと弾む。威圧しているようで辛かったが、和音はこれでも待ったのだ。

 ここにいろと求めるなら、毬も和音に応えて欲しい。

 望みをかけて和音は待ったが、毬の答えは相変わらず、ピントのずれたものだった。

「えっと、だから……ミヤちゃんに触られて、身体が動かなくなっちゃって……それで……」

 弱々しい声を聞きながら、和音は自分の眉が吊り上るのを、必死になって堪えていた。

 心は、この瞬間に決まっていた。

 やはり、ここに来たのは間違いだった。そんな事は最初から、分かり切った事だった。

「毬。やっぱり、もう帰ろう」

 和音はきっぱりと言った。

「和音ちゃん」

 毬は声を抑えて息を呑み、さっと背後に目をやった。他校生を気にしたのだ。そんな仕草も気に入らず、和音は奥歯を噛みしめた。

「毬、受験で疲れてるんだと思う。早く家に帰って休もう。師範に会いたいなら付き合うから。……だから、もう帰ろう。こんなとこで変な話ばっかりしてても、疲れるだけでしょ」

 撥ねつけるように、和音は言う。

 このままでは埒が明かない。それに納得もいかないのだ。

 そもそも和音は、ただ毬を迎えに東袴塚に来ただけなのだ。

 にも関わらず、何故か異様な美也子に遭遇し、その場に居合わせた同級生に、ここまで連行されている。その理由がこの言葉では、あまりに酷いと思ってしまう。

 和音が言われるままにここへ来たのは、グラウンドで出会った拓海と七瀬の求めに応じたわけでもなければ、命令に屈したわけでもなかった。

 毬の為だ。

 毬が倒れたと聞いたからだ。

 美也子が去ったグラウンドで、七瀬からそう聞かされた。そんな報告を受けた以上、七瀬の言葉は脅迫だった。毬を理由に来ざるを得ない。それが理由の一つだった。

 だがそんな己の選択を、和音は後悔しかけていた。

 和音は毬の返事を待ちながら、横目でそちらを盗み見る。

 一際大柄な体躯。袴塚西中の制服を着ていなければ、高校生だと思っただろう。三浦柊吾の屈強な立ち姿を、和音は無感動に眇め見た。

 まさか、また出会うとは。昨日最悪な別れ方をしただけに気まずかったが、それは柊吾も同じようで、再会した瞬間などは、渋い顔を向けられた。思い出すだけで不快なので、和音は顔をすっと背け、柊吾を視界から追い出した。

 これが、後悔の理由の一つだった。

 グラウンドから階段を上がった先には、毬と一緒に柊吾もいた。何故いるのだと苛立ったが、理由は単純に受験だろう。何にせよ呪わしい奇縁は、和音を一層苛立たせた。

 しかも、その後は尚酷かった。

 毬の安否確認ができた直後、拓海に中等部の校舎へ来いと命令されたのだ。

 勿論、従う理由は一つもない。和音は拒否したが、毬はついて行こうとした。

 その行動の意図が分からず、和音は毬に問い質した。

 身体はもういいのか、一体何があったのか。そして何故、拓海に従わなくてはならないのか。それらを毬に問い質した。倒れたと聞いていたが、一見元気そうだった。だから和音は安堵して、単刀直入に訊いたのだ。

 だが、中等部の廊下を進みながら、毬は和音に、こんな台詞を言ってのけた。


『和音ちゃん、私……さっきまで、身体が動かなくなってたの』


 唖然として、言葉を失った。だが嘘をつくような子ではない。泣いたと分かる赤い目が、言葉の誠を語っていた。

 真っ先に金縛りを疑う和音だったが、毬は『そうじゃないと思う』と言って主張を頑なに曲げなかった。聞けばその奇怪な症状は、柊吾に触られた途端に嘘のような和らぎを見せ、元通り動けるようになったという。

 だがそこまで聞かされて尚、否、聞かされたからこそ――和音にはその話を、真に受ける事はできなかった。

 一体、どう信じろというのだろう。童話の悪趣味なパロディを聞かされた気分になり、和音は毬が尚更心配になってしまった。

 毬はきっと疲れているのだ。思い返せば昨夜、和音と毬は道場前で氷花から謎の脅しを受けている。氷花の暴言の数々を思い出すだけで、和音の腕は怒りに震えた。一日で癒えるわけがない。昨夜の記憶は依然として、和音の胸の内にある。

 毬は、プレッシャーに弱い子だ。和音があの邂逅を引き摺ったのと同様に、毬もまた引き摺っているかもしれない。

 だから和音のすべき事は、毬に優しくする事だ。

 そう思ったからこそ、和音はこの教室までやって来たのだ。

 嫌な空間に同席し、意味不明な論舌にも耐えた。毬の為だ。毬がいなければしなかった。そのようにして和音は待った。ずっと、孤独に待ち続けた。

 毬が説得に応えるのを、和音と一緒に帰るのを、ひたすら寡黙に待ち続けた。

 そして、今も待っている。

 そうやって、待っていたというのに――毬は和音の説得に、首を縦には振らなかった。

 横に、振って見せたのだ。

「……和音ちゃん、だめ。まだ帰れない」

 聞いた瞬間、頬が、かっと熱を持った。

 控えめながらも、意思の芯が通った声。毬は辛そうに俯いて、やがて教室の中央に目を向けた。

 遠い瞳は琥珀色で、普段の毬の瞳の色より、ずっと明るく透けて見える。太陽光が眩しいのだ。瞳の奥を照らしている。空の彼方を眺めるような、どこまでも遠い瞳だった。

 その目が映す景色のどこにも、和音の姿はいないのだ。それに対して怒ればいいのか、寂しがればいいのかさえも、心が上手く分からなかった。

「……和音ちゃん。私達、まだ帰っちゃだめだと思うの。ちゃんと私達がいなきゃ、皆が困っちゃう」

「……どうして毬は、そんな風に思うの」

「だって、七瀬ちゃんとか、坂上君とか、それにさっき電話で話してた男の人のお話も……、全部、嘘とか冗談じゃ、ないって思うから」

「どうして毬は、そんな風に信じられるの」

 和音は言った。

 詰問調になってしまい、言ってしまってからばつの悪い思いをする。

 だが毬は、和音が思うほど傷ついた顔を見せなかった。

 それどころか、「ごめんね、分かんないよね」と微笑んできたので、和音は胸が痛み、返答に窮してしまった。

 笑顔を見せられたはずなのに、そちらの方が痛ましいのは、一体どういうわけだろう。優しい笑い方は、神社の神主のものに似ている気がした。

「和音ちゃん。……皆に協力、しよう? 私の身体が動かなくなったのとか、ミヤちゃんの事とか、あと氷鬼って言ってたのも、全部ほんとの事だって気がするの。皆の言ってること信じられないかもしれないけど……私、信じてみる。信じてみたいの」

 毬はそう言って、和音を見上げて笑っていた。

 光のように明るい声に、和音は仏頂面で返事をした。

「……私は、信じないから」

 毬が、寂しげに俯く。和音の心に、罪悪感が満ちた。だが肯定は出来なかった。そんな嘘はつけないし、口にするのも嫌だった。

 無言の時が流れる中で、毬は再び前方を見た。つられて和音もそちらを見ると、他校生達は相変わらず、飽きもせずに騒いでいた。

 一際うるさいその声は――和音のよく知る、少女のものだ。

「坂上くん、お兄さんにもっかい電話かけるからね!」

 怒声が教室の空気を震撼させた。教室どころか、廊下まで響きそうな大声に陽一郎が震え上がり、さらに遠くへ逃げようとして窓に背中をぶつけている。どこまで逃げる気なのだろう。和音がげんなりする間にも、拓海が七瀬を宥めていた。

「篠田さん待って。イズミさん、一時間は時間置いてって言ってたじゃん。多分、かけても出ないと思う……」

「やってみなきゃ分かんないでしょ!」

 七瀬が携帯を掴み、きっ、と一同を睨め付けた。

「電話切れた時はびっくりしてて、ぼーっとしちゃってたけど! 撫子ちゃん、すごく脅されてるでしょ! 事情ちゃんと訊こうよ。っていうか電話。喋ってもらうまで掛けるからね? ああ、もうっ、お兄さんってば何考えてんのっ? こんな小っちゃくて可愛い子脅して笑ってるとか気持ち悪い! ねえ、お兄さんって実はそういう趣味の人なんじゃないの? ロリコンなんじゃないの? 変態なんじゃないの!?」

「篠田さん、落ち着いて……!」

「落ち着けるわけないでしょ!」

 目を吊り上げた七瀬が、携帯のボタンを指でばちばち連打する。柊吾もその権幕に気圧されたのか、幾らか我に返った顔で「おい篠田……束縛の強い女みたいになってんぞ」と小声で諌めにかかっていた。

 だが和泉は通話に応じなかったようで、七瀬の頬が栗鼠のように膨れる。応答のない携帯を、拓海が思案気な目で見つめていた。

「……イズミさんは、しばらく頼れないかもしれない」

 全員の視線が、拓海に集中する。

 拓海は「えっと」とまごついたが、やがて思索のスイッチが入ったのか、冷静な目で喋り始めた。

「篠田さん。皆も。イズミさん、なんか様子変だったけど……多分、本当に多分だけど。悪気があるわけじゃ、ない気がする」

 擁護の言葉に、七瀬と柊吾が文句言いたげに目を細める。拓海は弱ったように頬を掻いたが、七瀬から身体を離した撫子も「私も、そう思う」と同調したので、空気が少し和らいだ。

 和音も不意を打たれ、少女をまじまじと見下ろした。

 この少女の事は、実は最初から気になっていた。体格はまるで小学生だが、猿のように騒ぐ集団の中では、一番マトモに見えたからだ。

 それにもう一つ、和音はこの少女に対し、感嘆していた事があった。

 声が、綺麗だったのだ。

 歌の一つでも歌わせれば、さぞ麗らかに響くだろう。青磁の陶器を爪先で弾いたような、涼しく澄んだ声だった。

 一同の注目を浴びた撫子は、特に物怖じした様子を見せずに七瀬や柊吾を振り仰ぐ。見た目の危うげな印象よりは、しっかりした子なのかもしれない。拓海や陽一郎のように、おどおどしたりはしなかった。撫子は綺麗な声で、しかし感情の読めない不思議な声で、自分の考えを口にした。

「七瀬ちゃん、三浦くん。坂上くんの言う通りだと思う。あの人、何か隠してる。でも、信じていいと思う」

「雨宮はなんで、信じられるんだ」

 すぐさま、柊吾が眉を顰めた。絞り出すような声だった。

「……今日のイズミさん、すげえむかつく。俺は坂上や雨宮みたいには、悪りいけど思えねえ。雨宮が一番危ないって言われたようなもんだろ。イズミさん、絶対他にも何か知ってるに決まってんのに……気をつけろって脅されただけで、どうしたらいいか、全然、教えてもらえなかった」

 柊吾はやるせなさそうに頭髪を掴み、その場にしゃがみ込んだ。苛立った目で、床を睨んでいる。

 和音はその様を、蔑みの目で見下ろした。格好悪いと思ったからだ。そんな脆さを平然と、晒せる精神が分からない。この少年とは本当に、どこまでも馬が合わないのだろう。

 それに、撫子の事だってそうだ。声には確かに感心したが、他の面においてなら、少々思う所がある。この少女は先程からやたらと皆に庇われているが、和音の目にはその様子がかなり異質に見えたのだ。

 恐らく皆は現在起こっている〝何か〟に撫子が関与しているからこそ、過保護になっているのだろう。だがそれにしても大げさで、いささか神経質過ぎだ。柊吾が撫子の手を取った時などは、和音は軽い怒りを覚えてしまった。

 拓海を始め、皆が今起こっている〝何か〟について危機感と連帯感を持っている。その当人たちがいちゃついているのだから、危機感の欠如具合が窺えるし、状況に酔いしれているとしか思えなかった。

 いちゃつくなら、どこか余所でやればいい。

 そして勝手に落ち込むなら、先に和音を帰して欲しい。

 柊吾に寄りかかる撫子も、撫子のことで落ち込む柊吾も、どちらも和音には他人なのだ。巻き込まれるのは、迷惑だった。

 そうやって和音が鬱々と、不満を育てていた時だった。

「弱気になんないの!」

 すかん、と。意外な声が、鮮明に響き渡った。

 風が吹いて、和音の頬を優しく撫でる。人が一人動いたのだ。セーラー服の襟が揺れ、紺のスカートが翻る。緩く巻かれた頭髪に、風見美也子を連想した。だが美也子ではない。違う子だ。そんな当前の事実を前に、和音は何だかはっとした。

 軽薄さは同じなのに、二人の何が違うのだろう。答えは薄靄のように曖昧で、和音の手では掴めなかった。

 ぽこんと柊吾の頭が軽く叩かれ、顔を上げた柊吾が「ってぇな」と呟きながら、攻撃の主を軽く睨む。だが喧嘩っ早い女子生徒は、その程度では怯みもしない。歯を覗かせて笑っていた。

「三浦くんがそんなだと、撫子ちゃんも心配になっちゃうでしょ。しっかりしてよね。さっきは怒ってたのに、どうして萎むかなあ」

「べっ、べつに萎んでなんかねーし。……っていうか、お前もキレまくってたくせに、急にどうしたんだ?」

「それはそれ。早く別の手考えようよ」

 はきはきとそう言って――篠田七瀬は、手中の携帯を軽やかに振った。

「お兄さんがあてになんないっていうのは分かったんだから、もう今はそれでいいや。今度は師範に電話かけてみるから、それで駄目だったら、お兄さんの言う調べものってやつ、皆でやってみたらいいんじゃない? 乗せられてるみたいでちょっとむかつくけど、何もしないままだったら、この〝アソビ〟って終わらないんでしょ?」

 溌剌としたその声に……和音は、息苦しくなった。

 呼吸が、荒くなりそうだった。走り続けた後のような、息切れが喉に迫ってくる。深く息を吸い込むと、呼気がまるで笛のように、細い音を立てていった。

 久しぶりの苦しさだった。だが、忘れた事など一度もなかった。会えば、いつでも思い出せる。それは、そういう苦しさだった。

「終わらせようよ。こんな〝アソビ〟、一方的過ぎてつまんないでしょ。さっさと終わらせて、皆で一緒に帰ろうよ」

 笑う七瀬に、柊吾が「さっきまでのキレまくってたとこ、俺、忘れねえからな」と、溜息を吐きつつ立ち上がる。二人の馴れ合いを横目に見ながら、和音は唾を呑み込んだ。

 ――篠田七瀬。

 和音と毬、共通の友人。

 会うのは随分久しぶりだった。一体いつぶりになるのだろう。最後に出会ったのがいつだったか、はっきりとは思い出せない。多分去年の春あたりに、毬を交えて会ったきりだ。

 およそ、一年ぶりに会った友人は……前より、綺麗になっていた。

 元々可愛い子で、お洒落にも気を遣っていたと思う。そんな容貌が以前よりさらに洗練された気がして、和音は胸の辺りに重い圧迫感を覚えた。

 何故そんな風に思うのか。要因は上手く言葉に出来ない。

 ただ、思わず見てしまうのだ。七瀬の隣を見てしまう。重圧の苦しさに流されるように、そちらに視線が向いてしまう。見なければいいと分かっているのに、その行為を止められない。この感覚が不快感だと、確かめずにはいられないのだ。

 そのようにして、和音は七瀬の隣を見た。

 そして内蔵の辺りに、嫌な感触が虫のように這うのを感じ――どれほど自分が腹を立てていたかを、生々しく、同時に他人事のように知った。

「……」

 昨日からこの瞬間まで、散々嫌な目に遭わされた。

 かつて友人だった少女は変貌し、神社の神主は和音の知らない顔を見せ、二度と会う気などなかった少年と不本意な再会をさせられ、その少年は華奢な少女を姫扱い。それを皆が容認していて、しかも和音の親友は、こんな場所に拘っている。

 何もかもが不愉快だった。ふざけていると感じていた。

 だが、そのどれもが些事だった。

 最大の不愉快。最も無視できない嫌悪感。

 様々な鬱屈を運んできた集団の中で――この男女こそが和音にとって、一等不快な存在だった。

 七瀬の隣には、学ランを着た男子生徒。東袴塚の制服だ。何らかの思索に忙しいのか、神妙な顔で黙っている。

 ――坂上拓海。

 さっきまで謎の熱弁をしていた少年。

 七瀬とどういう間柄なのかは、聞いていないが見たら分かる。和音がこの少年と初めて出会った時、グラウンドに現れた拓海は七瀬を羽交い絞めにしていた。暴れ狂う七瀬に必死にしがみつく様は同情を誘ったが、その後愛おしそうに抱きしめるのを見た時に、同情は、冷たい殺意にすり替わった。

 その瞬間に、把握した。

 七瀬は、男連れになっていた。

 軟派な子なので、早いだろうとは思っていた。ただ七瀬が拓海のような少年を選んだのだけは、少しばかり意外だった。もっと頭の中身のなさそうな、顔がいいだけの馬鹿を引っかけるかと思っていた。拓海は和音が見る限り変人だったが、口を閉じていれば爽やかな好青年風に見えなくもない。清潔感もあると思う。

 だがそれは、あくまで口を閉じていればの話だ。

 容貌の印象がいくらプラスであっても、一度マイナスに振り切れた針を、元に戻すなど出来なかった。

 そんな棘のある目で、拓海を見ていたからだろうか。

 ばっ、と。七瀬が突然、何の前触れもなく和音を振り返って睨んできた。

「何。和音ちゃん」

 和音は驚き、不覚にも少しひやりとした。

 七瀬の顔は、明らかに怒っていると一目で分かるものだった。

 気取られたのだ。和音の不躾な感想が。

 反射で身構えてしまったが、やがてそんな緊張は、弛んだゴムのように伸びていった。

 別にバレたところで、困るわけでもないのだ。

 怒気を湛えた七瀬の目を、和音は無感動に見返した。七瀬は挑発と受け取ったのか、すぐさま視線を合わせてくる。男子達が慌てていたが、和音はそちらを見なかった。七瀬も周りを気にしない。二人はたったの二人だけで、互いだけを視界に許し、赤い教室で睨み合った。

 だが和音は、その時唐突に気づいてしまった。

 七瀬と、こんな風に衝突するのは初めてだった。こんなにも真っ直ぐに、目を見て話した事はなかった。出会ってから今までの間、本当に一度もなかったのだ。

 和音は、目を瞠ってしまう。

 この発見は、驚くべきものだった。

 今まで、和音は、それほどまでに――他者の瞳を、見てこなかった。

 そんな自覚のもとで改めて見た七瀬の顔に、和音は俄かに、狼狽えた。

「……和音ちゃん?」

 七瀬が、訝しそうにする。和音は返事を出来ず、無言だった。

 ――目を、奪われていたからだ。

 先程も思った事だったが……七瀬がやはり、綺麗に見えてしまったのだ。

 空き教室には夕日の光が、霧のように溢れている。空気をしっとり濡らす赤が、七瀬の身体の輪郭に、光の縁取りを纏わせていた。

 その姿は、まるで別人のようだった。意志の強い双眸は和音を真っ直ぐ捉えていて、引き結ばれた唇には、赤い光がグロスのように、瑞々しく引かれていた。その唇を、柔らかだと思った。触れてもいないのに質感が分かり、その生々しさに眩暈がする。そんな自分の感性に、激しい嫌悪が押し寄せた。

 同じ歳の少女の中に、淫靡な色艶を嗅ぎ取った。嫌気と吐き気が酷過ぎて、和音はついに、七瀬に返事が出来なかった。

「……ねえ。和音ちゃん。私達に話してよ」

 黙りこくった和音に痺れを切らしたのか、それとも覚悟を決めたのか。七瀬が厳かな口調で言った。

 その声に和音は我に返り、そして周囲の他校生達が自分に注目しているのに気づく。

 その意図が何なのかは、考えるまでもない事だ。

 皆は、和音に求めているのだ。

 和音が口を開くのを、今か今かと待っている。

「坂上くん、皆も。図書室での調べもの、この次にしようよ。トップバッター、和音ちゃんでいいんじゃない? 私達は、坂上くんに情報提供するんでしょ? 三浦くん達の小五の事件も気になるけど……私は、こっちの方が気になってた」

 七瀬は、毬を振り返った。

 あっ、と叫びそうになってしまう。切迫感が、息苦しさを加速させた。

 見なくていい。見ないで欲しい。祈るようにそう思った。七瀬は、毬を、見なくていい。そんな望みを置き去りにして、毬も七瀬を見つめていた。

 視線を交わす二人の間に、和音の入る隙間は無い。

 七瀬は優しく微笑んで、毬にゆっくり語りかけた。

「ねえ、毬。最近、何かあったんでしょ。それって、風見さんがらみなの?」

「うん。……でも、それだけじゃ、ないよ」

 多くを語らない毬に、七瀬は意外にも「そっか」と明るく笑った。

「じゃあ、言える範囲で教えてよ。風見さんがらみのとこだけでいいから。あと毬。せっかく受験終わったんだし、明日か明後日の土日、どっちか二人で会わない? ちょっとだけ、相談事あるんだよね」

 その言葉に、毬は呆けたように七瀬を見ていたが……やがてくしゃりと表情を歪ませ、瞼に手の甲を押し当てた。

「うん……。七瀬ちゃん、ありがと」

「なんで毬がお礼言うの? 私の話、聞いてもらいたいだけだよ」

 七瀬が毬に近寄り、ショートボブの髪を撫でた。毬がくすぐったそうに微笑んで、照れたのか俯き、やっぱり嬉しそうに笑っている。

 仲睦まじい、そのやり取りを聞きながら――和音は自分の心が、急速に乾いていくのを感じていた。

 何だか、裏切られた気分だった。

 自分だけが、知っているのだと思っていた。

 それを毬は、簡単に人に話せてしまうのだ。こんなにも無防備な安堵の顔で、七瀬に簡単に許してしまう。それとも七瀬だから許すのだろうか。こうなってしまっては、最早思考さえも億劫だった。ひどく疲れてしまっていた。馬鹿みたいだと、自分の事を思ってしまった。

 和音はあの日、執着を手放した。

 安穏と生きていく為の武装を放棄し、気ままな道を選び取った。

 そうやって和音が捨てた物達の中に、毬も入っていたのだろうか。

 だがそもそも最初から、和音の手の中に、毬はいたのだろうか。

 黒い自嘲に心がどろりと浸った時、和音の脳裏を、ある一つの言葉が過っていった。

 ――〝人攫い〟

 先程、拓海と和泉の舌戦で挙がった言葉だ。

 何故そんなものを思い出したのだと自分でも不思議だったが、その理由はすぐ分かった。

 口の端が、卑屈に引き攣る。

 この状況が、まさにそうだと感じたからだ。

 集団がよってたかって個人を拉致し、特定の場に繋ぎ止めて、役目を果たすまで帰さないと、脅しをかけるその様は――――。

「……あんた達全員、人攫いでしょ」

 自分でも意外なほどに、声が大きく響いてしまった。

 七瀬を始め、皆が不審そうな目つきになる。そんな全員に取り合わず、和音は素っ気なく言い捨てた。

「話せばいいんでしょ。美也子の近況だっけ」

 つっけんどんな言い様に、七瀬がきつく眉根を寄せる。それでも文句を言わないあたり、よほど撫子が大事と見える。和音からの情報欲しさに、あの七瀬が文句を呑んだ。そんな慎重さがやっぱり意外に思えたが、今や七瀬の事などどうでもいい。このまま帰りたいのが本音だが、いざ和音が帰ろうとすればこの場の全員が止めるだろう。危険視された少女の為に、皆が和音を止めにくる。そんなものを相手にして、和音が勝てるわけがない。これはやっぱり脅迫で、この場の全員が人攫いだった。

 全てが面倒臭かった。説明程度で全てが終わるというのなら、適当に済ませて帰ってしまおう。荒んだ心で、そう思った。

 美也子の近況と言えば、最近の喧嘩の事だろうか。

 毬を見下ろすと首を縦に振られたので、頭が痛い思いだった。和音が話さなければ毬が言い出しかねない。あんなにも忌々しい記憶を毬の口から語らせるのは、やっぱり嫌だと思ってしまう。

 そんな風に考えていると、不意に視線を感じた。

 振り返ってみると、撫子と目が合ったので驚いた。

 表情は希薄だが、その分威圧感がある。心を見られているようで気まずさを覚えたが、そんな透徹の目に晒されるうち、和音はふと、美也子のことを思い出した。

 素朴な疑問が、湧いたのだ。

 ――美也子はあの時、一体何を思っていたのだろう?

 和音たちに刃を向けた美也子は、一体何を考えて、あんな事をしたのだろう?

 和音に怒ったからだろうが、それだけであんな奇行に及ぶだろうか?

 人が、正気を擲つほどの感情。

 その感情は一体、どのようにして生まれたのだろう?

 雨宮撫子の、感情の読めない瞳。それを意識した事で初めて、美也子の心が、感情が気になった。

 外側からは決して見えないその部分に、初めて関心が向いたのだ。

 ――『和音ちゃん』

 和音を呼ぶ、美也子の声。まだ、普通だった頃の声。

 屈託なく弾む声を、和音は反芻してみたが……結局、それ以上拘らなかった。

 拘る理由が、ないからだ。

 もう友達でも何でもない、女の子の心なんて。和音は心底どうでもいい。

 どうでもいい、はずなのだ。

 和音は撫子の目を振り切ると、数秒の思案の後に、喧嘩の記憶を淡々と、望まれるままに語り始めた。

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