花一匁 14
携帯の向こうは、黙っていた。
『ああ』と短い感嘆だけが、溜息のように聞こえてくる。
ああ、と拓海も脳裏で思った。
やっぱり当たりだったのだ。和泉も、同じ答えに至っていた。
〝アソビ〟が終わった事を拓海は知る。だがもう少しだけ、喋り続ける事にした。拓海と和泉の〝アソビ〟は、これで終わりだが、もう一つの〝アソビ〟はまだ始まったばかりなのだ。
それに周りを見渡すと、見事に全員ぽかんとしている。このまま説明をしないのでは、あまりに皆に不親切だ。〝アソビ〟の余韻に絆されるように、拓海はゆっくりとした語り口で、種明かしの〝言挙げ〟をし始めた。
「皆。この〝アソビ〟の参加者の定義は、多分だけど〝友達〟なんだ」
「友達?」
柊吾が、唖然と訊き返す。
拓海は「うん」と首肯した。
「風見さんとの面識、人間関係。それがこの〝アソビ〟に関係してると思う。それに袴塚市の花を切ってるのが風見さんで確定なら、これは小五の紺野さんの事件を、風見さんが模倣してる可能性もあるんだ」
柊吾が、ぎょっとした顔になった。
「模倣……模倣犯っ?」
「へ? う、うん」
過剰な反応に戸惑ったが、ともかく拓海は頷いた。
「えっと。風見さんが小五の事件を模倣して、今の事件を起こしてるって考えると……やっぱりこの事件、二つ目の仮設で言った、〝小五の仲良しメンバー〟が、この〝アソビ〟の中心になってるように思えるんだ。多分だけど、綱田さんと佐々木さんの参加は……ちょっと言い方は悪いけど。ついでなんだと思う」
拓海は、労りを込めて毬を見た。
毬は話に置いてけぼりになっているのか、困惑している様子だった。
当初、最も危険な目に遭うと目されていた少女。
だが実際は、違っていた。
「花を切る事件。小五の事件を風見さんが模倣してるって考えたら、三浦たち小五メンバーが一番、この〝アソビ〟との関わりが強い。そう推理する根拠は、三浦たちが小五の事件の当事者だからだ。それに、小五の事件の当事者の一人が……日比谷がもう、〝アソビ〟参加者として確定だから。この二つの共通点から、小五の事件と今回の件が絡んでるのは絶対だ」
「ま、待てよ坂上。本当にそうなのか?」
「……俺は、そう思ってる。確証は、やっぱりないけど」
拓海は曖昧に笑った。
妙な事ばかり言っていると思う。今更だったが恥ずかしかった。
「何回も言ったけど、証拠は全然ないんだ。でも、今言った事が全部違うんだとしても、今の事件と過去の事件、花が切られてる事と日比谷の関わりが一致してる。ここまで共通してたら、疑わないわけにはいかない。これは小五の事件をベースにして、その上で風見さんは友達を巻き込んで〝アソンデ〟る。中心になってるのは三浦で、雨宮さんで、日比谷で、呉野さんだ。俺達は最初、綱田さんが狙われてるかもしれないって聞いてたけど……多分、そうじゃないんだ」
開戦の狼煙を上げるように、毬が最初の被害に遭った。
これはただ、それだけの話なのだ。
――一人目、みぃつけた。
風見美也子の言った、その言葉通りなのだ。
……まだ、始まったばかりなのだ。
「綱田さんは確かに被害に遭ったけど、これは呉野さんが綱田さん一人を狙ったんじゃない。結果的に、綱田さんが被害者の一人になっただけだ。まだ被害は出ると思う。これから風見さんがまた来たら。逃げ遅れたら。触られたら。同じ事になると思う。……だから。皆。教えて欲しい」
拓海は、一同を見渡す。
全員の目には、強い戸惑い。
当然だ。いきなりこんな荒唐無稽な話をされて、信じられるわけがない。
それでもどうか、聞き入れて欲しかった。
「皆。……俺、さっきイズミさんにも言われたけど……俺にはまだ、分かってない事が多いんだ。……だから」
その詰めの甘さが、ここまで話を長引かせた。確かな証拠を持たないのに、年上の男に挑んでしまった。
だから、今度こそ正しい解を掴む為に。
氷花の〝アソビ〟を、終わらせる為に。
拓海の為ではなく、撫子の為に。
どうか、聞き入れて欲しかった。
「皆。……俺に、協力して欲しい」
ほぼ全員が、目を丸くして拓海を見た。その視線に怖気づいたが、どんな顔をすればいいか分からなくなってしまい、結局拓海は微笑んだ。
自分は本当に、こんな顔ばかりしている。
頼りないだろうが、それでも解決したかった。
「情報が欲しいんだ。もっと考えるから。この〝アソビ〟を終わらせる方法。もっとちゃんと考えるから。――だから。篠田さんは俺に、〝はないちもんめ〟を教えて欲しい」
七瀬が、突然の言葉に驚いている。拓海は七瀬に笑いかけ、次に柊吾たち袴塚西メンバーに視線を転じた。
「三浦、日比谷、雨宮さん。三人は俺に、小五の時の事件をもっと詳しく教えて欲しい。あと、紺野沙菜さんの事も」
拓海は撫子を見下ろし、頭を下げた。
「雨宮さん。……ごめんな。紺野さんと風見さんが、どうして転校したのか。多分、知らないと駄目なんだ。俺に話を聞かせて欲しい」
顔を上げると、撫子がこくんと頷いた。拓海はほっとして、最後に二人の女子生徒を見た。
少しだけ、緊張した。この相手が一番、きっと対話が難しい。
袴塚中メンバー。
毬と……和音。
「綱田さんと、佐々木さんは……風見美也子さんの事を、教えて欲しい。最近どんな様子だったか、あとは友達関係とか……なんでもいいから。俺に、教えて欲しいんだ」
「……」
和音は返事をしなかった。毬が上目使いで和音を見上げ、申し訳なさそうに肩を窄める。毬は和音の態度に責任を感じたのか、「私が」と拓海に言いかけていたが、和音がすぐに聞き咎めて、むっとした顔になる。
「毬。いい。私が話すから」
「……うん」
一応了承が貰え、拓海は胸を撫で下ろした。
だが、安堵するにはまだ早い。
最悪の〝言挙げ〟が、まだ一つ残っている。
「……皆。メンバーが分かっても、駄目なんだ。この〝アソビ〟をどうやって終わらせたらいいのか、俺にはまだ、分かってないから」
全員が、黙った。不穏な空気を察したのだ。
拓海はチョークを、ことんと置く。
もう書く事は何もない。声があれば十分だった。
「この〝アソビ〟、どうすれば終わるかが分かんないんだ。だって氷鬼は、普通の鬼ごっこと違うから」
柊吾の顔付きが、露骨に強張る。その表情を見るにつけ、拓海は言うのが辛くなる。こんな現実、拓海だって見たくない。見て見ぬフリをしたかったが、そういうわけにもいかないのだ。
「氷鬼のルール、最後まで説明出来てなかったよな。今から、続きを言うから。――鬼から逃げる側のメンバーは、タッチされると動けなくなる。でも仲間からタッチされたら、また動けるようになる。呉野さんの〝言霊〟で始まったかもしれない、この〝アソビ〟って……どうやったら、終わると思う?」
空気が、皮膚に痛いほど張り詰める。ほぼ全員が動きを止めた。
皆にも分かったのだ。この〝アソビ〟の、恐ろしさが。
「氷鬼は、全滅したらお終いだ。鬼が全員にタッチして、全員が凍れば終わりになる。つまり。メンバーが全滅するまで終われない。全員が凍らないと終わらない。……逃げ続けても、駄目なんだ。この〝アソビ〟には終わりがない。終わろうと思ったら、全員が『凍る』しかないんだ」
「おい……そんなのって!」
柊吾が叫び、拓海を見る。拓海は首を、横に振った。
氷鬼。
鬼が参加者を追い駆けて、一人ずつ凍らせて『動けなく』する遊び。
拓海は、考えた。この〝アソビ〟、どうすれば終わりに出来るだろう?
遊んだ記憶に思考を馳せて、苦渋を呑んで落胆した。
……思い出せなかったからだ。
「俺はこの遊び、学校の休み時間とか、放課後とかにやった事があるよ。けど……どうやって終わらせたか、よく分かんないんだ。ぐだぐだになって終わったり、全員が『凍って』終わったり、あとは、授業の時間になったから終わったり、帰る時間になったから終わったり……ちゃんとした終わり方って、よく分からなかった。この〝アソビ〟の場合は……どうやったら、終わりに出来ると思う?」
拓海は、皆に訊いた。
……答えは、返って来なかった。
七瀬が「坂上くん」と、縋るように拓海を呼んだ。
「もし、全滅したら……ここにいる皆が『動けなく』なっちゃったら……ねえ。皆、どうなるの」
震えた声に、胸が詰まる。普通なら、遊びが終わるだけだ。だが気休めは言えない。この〝アソビ〟は異常なのだ。
全員が〝鬼〟の手にかかった時、一体、何が起こるのか。
……分からない分、余計に怖い。
「ごめん。分からない」
拓海が七瀬に謝ると、歯噛みする柊吾の姿が目に入った。
「じゃあ、どうしろって言うんだ……おい、最悪じゃねえかよ、こっちは風見なんてヤツ覚えてもねえんだぞ……!」
苛立つ柊吾を、陽一郎と撫子が取り成すように見守っている。
拓海も労わりたかったが、こちらは何しろ不参加側だ。何を言っても薄っぺらな物言いになる。心苦しくて堪らないが、現状打破の意見は欲しい。心を鬼にして拓海は訊いた。
「なあ、三浦。『鏡』の事件の時は、俺達って、戻るのが遅れたら発狂してたかもしんないって聞いたけど……この〝アソビ〟、メンバーが全滅したら、どうなると思う?」
「知るか! ……くそっ」
柊吾が悪態を吐き、「イズミさん!」と叫んだ。
かなり苛立った声だった。その言い方に、拓海は驚く。
柊吾が和泉相手に、これほどの怒りをぶつけた。そんな所は初めて見たのだ。
「イズミさん。何度も言うけど、俺らを助けて下さい」
声を低くして柊吾が言う。
淡々とした物言いだが、声には明白な焦りがあった。
「今の話聞いてたら、これから俺達が碌でもない目に遭う未来しか見えないです。この〝アソビ〟、坂上の勝ちです。どう考えても黒幕は呉野の阿呆だ。イズミさん、いい加減に俺らを助けて下さい。こんな事してる間に、風見が戻ってきたりしたらどうするんですか。……イズミさん、責任取れるんですか」
『やれやれ、柊吾君は手厳しいですね。……ならば、君は。己が最も大切とするものから、決して、目を離さない事ですよ』
柊吾が、黙る。
見開かれた目が、隣の撫子を捕らえた。
ノイズ混じりの笑い声が、教室の空気を震わせた。
『風見さんと紺野さん。君達はきっと、これから二人の痛みを辿るでしょう。各々の証言から、君達は痛みの記憶を辿るでしょう。……柊吾君。君は気を付けるべきです。彼女に切られたのが植物で良かったですね? 花で良かったですね? 茎で良かったですね? 人体でなくて良かったですね? ……ですが、本当に良かったのでしょうか。……その痛みを、受けるべき対象。それは、別にいたのでは?』
声が、鬱々と響いていく。まるで子供の無知を嗤うように、悪趣味な童謡を唄うように、酷薄な響きで流れていく。
柊吾の顔が、強張った。
声は、嗤い続けていた。
『柊吾君。痛みは恐ろしいですよ。痛みは恐怖を加速させます。加速した恐怖は人から理性を奪います。乱れた感情が狂気を呼んで、呼び寄せた狂気はきっと破滅を齎します。……それをゆめゆめ、忘れぬよう。君達の末路は一体、どんなものでしょうね。柊吾君。君は気を付けるべきですよ。気を付けるべきですよ。気を付けるべきですよ……』
「……っ、イズミさん!」
柊吾が大股に歩き出した。
『君達は、調べものを進めて下さい』
柊吾の掴み上げた携帯から、声は飄々と言った。
『拓海君。僕達の〝アソビ〟、君の粘り勝ちとしておきましょう。君との〝アソビ〟、楽しかったですよ。ただ、君は風見さんを被害者として捉えているようですが……その考えの甘さ、一度見直した方がいいですよ』
「え?」
拓海は訊き返したが、和泉はもう口を挟ませてはくれなかった。
『それでは一旦、切らせて頂きます。またいつでも電話してくれて構いませんよ。助言致しましょう。……ですが、せめて一時間ほど時間を下さい。僕も別の方面から動きますので。……くれぐれも、単独行動は慎んで。では』
あっけないその台詞が、この〝アソビ〟の幕引きとなった。
ぶつっ、と音を立てて、通話が突然切れたのだ。
ツー、ツー、ツー……。静寂の中、虚しい電子音が響く。
舌打ちした柊吾が携帯を放り投げようとしたが、「ちょっと! 私の携帯!」と叫んだ七瀬からタックルを食らい、野太い悲鳴を上げながら机に突っ込んでいた。
「……」
拓海は緊張の糸が切れて、茫然と立ち尽くした。
束の間、教室に和やかさが戻ったが……状況は改善されないどころか、余計に不安が煽られていた。
ふらふらと、手近な机に手をついた。
……何だかすごく、疲れてしまった。
「イズミさん、手強かったなあ……」
溜息のように呟くと、起き上がった柊吾が拓海をじろりと睨んできた。
「手強いっていうか、めちゃくちゃ変だったぞ。イズミさん、何考えてんだ?」
柊吾は腕組みをしていたが、ふと不安に駆られたのか、腕組みをやめて隣りの撫子へ手を伸ばしている。撫子の腕を掴み直した柊吾が、「坂上」と拓海を呼んだ。
その目は、どこか思案気だった。
「なあ。イズミさんのあれ、一体何だったんだ?」
「え、と……さあ、俺にも分かんない」
「分かんないって……。イズミさん相手にあれだけ喋れてたくせに、なんでこっちが分かんないんだ」
呆れ顔の柊吾に、「ごめん」と拓海は謝る。面目ないが、本当に分からないのだ。
だが柊吾はそこで退かず、「なんでだ?」と、尚も言い募った。
腑に落ちない様子で、探るように拓海を見てくる。こんな追及を受けるとは思わず、拓海はたじろいでしまった。
「坂上。お前って何か、イズミさん怒らせるような事でもしたのか?」
「へ? ……えっ? えぇ?」
一瞬驚き、次の瞬間には大いに慌てた。
柊吾は不審そうに、狼狽える拓海を睨んでいた。
「すげえ突っ掛ってきてたじゃん。こういう言い方したらお前に悪りぃけど、あれ、坂上に恨みあるとしか思えねえ。イズミさんと何かあったのか?」
「いや……心当たりは、ないけど」
拓海は首を横に振る。嘘はついていない。本当に心当たりがないのだ。
唯一、思い当たる事といえば……氷花の〝言霊〟の件で、家庭にねちねちと出しゃばった事くらい。
だがその件に関してなら、拓海も精一杯の誠意を込めて、頭を下げた心算だった。
拓海の思慮が浅く、和泉の気分を害してしまったのだろうか。
だとしたら、心底申し訳ないと思う。だがそう思う反面、拓海にはやはり和泉がそれを理由に怒っているとは思えなかった。
拓海が氷花の件のお願いの為に神社を訪れた時、和泉の物腰は普段と変わらず丁寧で柔和だったからだ。おまけに土産として大量の餅も頂いてしまい、もてなされた拓海は恐縮することしきりだった。
あの笑みの裏で、実は拓海の行動に立腹していたのだろうか。
「うーん……」
やっぱりどうにも、考えにくい。
和泉に裏の顔があるのは知っているが、一年前ならともかく、今の和泉は拓海達にそういった黒さを隠さない気がする。拓海は首を捻った。
「俺、失礼な態度は取ったかもしんないけど……どうだろ。怒らせてはないと思う、けど……」
「それにしたって、今日のイズミさんはありえねえぞ」
柊吾は和泉とのやり取りを思い出したのか、眉間に深い皺を寄せた。
「呉野が犯人って事くらい当たり前の事だ。そんな当然のこと聞く為に、俺達はイズミさんに電話したんじゃない。調べものしろとか、気をつけろとか……くそっ、何なんだ」
柊吾が苛立たしげに、髪を掻き揚げた。
「イズミさんって一応、いつも俺らのこと助けてくれるじゃん。けど……なんか。今回だけは、やっぱり変だ」
気難しげに呟く柊吾を、撫子がそろりと見上げていた。
頬を、夕日が照らしている。茜の光は熟した果実のように赤かった。
時間がまた一刻、夜に近づいたのだ。
「三浦くん……」
不吉な赤色の中で、撫子はか細く柊吾を呼ぶ。
その呼び声に、拓海はどきりとした。
あまりにも、切ない声に聞こえたのだ。
拓海でも気づくほどだ。柊吾が気付かないわけがない。
柊吾は無言で、撫子の小さな手を握り直した。きちんと手の平全体で覆うように、しっかりと握っている。
毬がぱちくりと目を瞬き、和音の眉がぴくりと動いた。
だが反応を見せたのはその二人だけで、他の者は反応せず、冷やかそうともしなかった。
きっと、柊吾は備えているのだ。他の全員が分かっている。
撫子が、いつ『見えなく』なってもいいように。
たとえ『見えなく』なっても、そこにいるのが分かるように。
二人が積み重ねてきた時間と覚悟に、拓海は声を掛けれなかった。
「……撫子ちゃん、大丈夫かな」
声に振り返ると、拓海の隣にはいつの間にか、七瀬の姿があった。
心配そうに、撫子を見つめている。
「ねえ、坂上くん。撫子ちゃんの様子がおかしいの、気付いてたでしょ?」
「……。うん」
拓海は、声を潜めて返事した。
そんな気はしていたが、やはり七瀬も気付いていたのだ。
「雨宮さんの様子が変わったの、皆で保健室に行った時からじゃないか? 俺と篠田さんがグラウンドから戻ってきた時には、もういつもと違ってた気がする」
「うん。私もそれくらいかなって思ってた」
七瀬が、真剣な顔で拓海を見た。
「ねえ。それってもしかして。保健室で皆で話してた時に、風見さんの名前が出たからじゃない?」
「え?」
拓海は、驚いて七瀬を見下ろす。
「だって、それしか考えられないでしょ」
七瀬は腰に手を当てて、撫子の矮躯に目を戻した。
「坂上くん、言ったよね。毬が『動けなく』なった事を、皆に保健室で説明してくれた時に。『ミヤ』って子の所為で、毬がああなった……って。あの時は、風見さんのフルネームは分かってなかったけどね。でも坂上くん、言ったでしょ?」
「あ……」
拓海は、七瀬を見る。
言われてみれば、その通りだ。
あの時、保健室で……撫子は、どうしていただろう?
思い出そうとしたが、駄目だった。あの時の拓海は仇討に行こうとする七瀬を止めるのに忙しく、撫子の様子を見ていない。
だが、振り返ってみれば……ほとんど、喋っていなかった。
七瀬が、悔しそうに目を伏せる。撫子の異変にすぐ気付かなかった事で、自分を責めているようだった。
「撫子ちゃん、もしかしてあの時から、『ミヤ』って子が風見美也子の事かもって気付きかけてたんじゃないかな。坂上くん。撫子ちゃんと風見さん、絶対に小五の時に何かあったと思う」
「篠田さん、分かるんだ?」
「分かるよ。事情は何にも知らないけどね」
拓海は、その台詞にはっとする。
何だか、怜悧な響きだった。
「私には何にも分かんないよ。聞いてないんだもん。だから、何も知らないよ。……でもね。何かあったんだなって事くらい、女の子なら誰でも分かる」
七瀬が数歩、前を歩く。
夕日の影は、黒かった。机と椅子の影の中で、青みを帯びた七瀬の姿が、冷たく、黒く、揺れ動いた。
「女の子は、友達じゃない女の子には残酷だから。……だから、もし風見さんが撫子ちゃんに酷い事してたなら。その所為で撫子ちゃんが、今も辛いなら。――――あの子、私が許さない」
拓海は、七瀬の背中を見た。
窓からの風が、七瀬の髪を揺らす。
その巻き髪に指を絡めて、七瀬が拓海を振り返った。
「なんてね」
勝気そうに笑い、くるんと全身を拓海に向けてくる。
「篠田さん……」
七瀬は楽しげに笑っていたが、その目は笑っていなかった。
本気なのだ。今の台詞は、本気だった。澄んだ瞳の中に、直情な怒りが揺れている。夕日の赤が火の粉のように、琥珀の瞳で光っている。真っ直ぐな闘志に胸を打たれ、拓海は声を失った。
だがそんな姿を見ても、拓海は以前ほどに、七瀬を強いとは思わなかった。
己の手を、拓海は見下ろす。
チョークで白く汚れた手。この手が、身体が覚えている。
追い駆けて、ようやく追いついたグラウンドで、抱きしめた身体は震えていた。
「……」
強く、奥歯を噛みしめる。
もっと、考えなくてはならないのだ。この〝アソビ〟を、終わせる為に。今よりもっと、考えなくてはならないのだ。
決意を新たに一同を見回すと、不意に柊吾と目が合った。
柊吾は拓海を見ると、ふと緊張の抜けた顔つきになる。
そして朴訥な声音で、拓海にこんな言葉をかけてきた。
「坂上。お前ってよくあんなイズミさんと対決できたな。難癖ばっかつけてきたじゃん。俺だったら負けてたと思う。なんかびっくりした。すげえ」
「え? ……ああ、うん。ありがと」
拓海は反応に困ってしまい、頬を掻いた。
勝てたかどうかは分からないし、本当に拓海の勝ちでいいのだろうか。勝ちを譲ってもらった気もするし、結局何を争っていたのかさえも、終わってしまえばよく分からなかった。互いの推理に難癖を、全身全霊で付けあっていただけな気もする。十五の拓海はそれでもいいが、実年齢二十七の和泉は本当にそれでいいのだろうか。
柊吾が『大人げない』と叫んでいたのを思い出し、拓海は可笑しくなって吹き出したが――その時、はたと気づいた。
難癖。
柊吾が今、難癖と言った。その言葉が引っかかった。
拓海は、七瀬を振り返る。
七瀬は拓海の目に気づいておらず、携帯の液晶を見て目を白黒させていた。「やだっどうしよ、通話料金やばいかも」と口元を抑え、和音に呆れの目で見られている。
その携帯から、拓海は目が逸らせなかった。
「……」
確かに、柊吾の言う通りかもしれない。
おかしい。
こんな疑問を持つのは、今更かもしれないが……何だか今日の和泉は、普段と比較にならないほど意地悪だった。
それは、〝アソビ〟という真剣勝負に興じた所為かもしれない。それに今まで話していた男は〝呉野和泉〟ではなく、〝イズミ・イヴァーノヴィチ〟だ。普段の和泉らしい慈愛や優しさを期待するのが間違っているのかもしれない。
それでも、妙に揚げ足を取られ過ぎている。
難癖を、必要以上につけられている。
「……」
拓海は、先程の議論を回想する。
回想して、厭な鳥肌が皮膚に浮いた。
――風見美也子の、異能。そして、狂言の可能性。
そんな可能性まで、論う必要はあっただろうか?
慎重を期すなら、それは当然の検証だ。
だがわざわざ時間を割いてまで、皆の前で議論する必要はあっただろうか?
勘ぐり過ぎなら、それでいい。
そう割り切ってみたが、据わりの悪さは胸に残った。
「……」
しなくてもいい議論まで、必要以上にさせられていた。
そんな薄ら寒さを、不意に感じた。
――気を付けるべきですよ。気を付けるべきですよ……。
イズミ・イヴァーノヴィチの笑う声。
九年前に、死んだ男。
死者の、声。
「……」
柊吾が、怪訝そうに拓海を見た。
「坂上、どうしたんだ?」
「…………ん、なんでも」
結局そんな言い訳だけして、拓海は勘繰るのをやめてしまった。




