表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
コトダマアソビ  作者: 一初ゆずこ
第5章 花一匁
65/200

花一匁 5

 毬から、妙なメールが来た。

 それが篠田七瀬の行動理由であり、柊吾に別段恨みがあるわけではなかった。

 受験前日の三月四日。夜の八時を回った頃。

 夕飯と入浴を済ませて自室へ戻った時、七瀬はそのメールに気が付いた。

 この時にはまだ、不審に思わなかった。むしろ宛名に毬の名を見つけて喜んだくらいだった。

 受験前日だったが緊張はなく、夕飯のカレーライスに験担ぎで豚カツを乗せられた事で、家族と笑い合ったばかりだった。湯上りの身体に幸せをふわふわ纏いながら、七瀬はメールを開いた。

 そして、表情を凍り付かせる事になる。

 七瀬は毬からのメールを、受験への激励か、雑談の延長だと思っていたのだ。

 だが毬のメールは、激励でも雑談でもなかった。

 受験前日の毬からのメールには、歪な言葉が連ねてあった。



 七瀬ちゃん、こんばんは。受験前に連絡してごめんなさい。お返事はしなくてもいいです。

 あのね、最近、変わった人が出歩いてると思うの。

 危ないから、あんまり一人で出歩かないでね。

 友達とか、坂上君とか、家族の人と一緒にいて下さい。お願いします。

 変なメールしてごめんね。

                           綱田毬



 ――何、これ。

 それが、最初の感想だった。

 予想外だった。呆気に取られていた。時間の流れが凍り付き、暖房で温められたはずの室温が急激に下がっていく。次第に張り詰めていく緊張感と共に、七瀬はメールを、二度、三度と読み返すうち――タイミングの最悪さに気づき、蒼ざめた。

 袴塚市では今、奇妙な事件が起こっている。それが話題になったのは今日の事なのだ。

 花を、切る。たったそれだけの単純な行為。

 だがその行為の単純さが、七瀬達に一つの〝アソビ〟を連想させた。

 美しい物を収集する。その悪癖は、かつて清らかだった幼子の〝アソビ〟なのだ。

 現代の切り裂きジャック宜しく、花を切って回った犯人。

 その正体は、七瀬達の知人ではないか。

 猜疑から七瀬達は連絡を取り合い、柊吾が代表で呉野神社へ調査に行く事になったのだが……その柊吾からは、まだ連絡が来ていない。

 そんな段階で、毬からこんなメールが来てしまった。

 最悪の危惧が、ついに現実になった瞬間だった。

 七瀬の行動は早かった。

 携帯を持ったまま即座に部屋を飛び出して、一階の電話から毬の自宅へ掛けたのだ。

 受験前で迷惑がられるかもしれない。だが家族の人に怒られてもいい。毬の安全を確かめたかった。

 ――最近、変わった人が出歩いてると思うの。

 これでは誰の事だか分からない。毬がどういうつもりでこんな書き方をしたのかも気になったが、ともかく七瀬が事態を危険視するには、こんなちぐはぐな文でも十分だった。

 巷で話題の花切り犯か、それとも別件の変質者か。

 そのどちらでもないのなら。

 七瀬の知り合いに、一人。該当する変態がいる。

 右手に自宅の受話器、左手に携帯を構えた七瀬は、毬から事情を訊き出しながら、柊吾の連絡を待った。

 そしてついに、待ちに待った柊吾からのメールを受け取ったのだが――本文に目を通すにつれて、怒りが、ふつふつと湧きあがっていった。



 *



「どういう事なのか、きちんと説明してほしいんだけど?」

 七瀬が詰め寄ると、柊吾はたじたじと後退した。

「おい、ちょっと待て篠田。なんでそんなに怒ってんだ? 俺、お前をそこまで怒らせるような事したか? してねえだろ!」

「はあっ? 何言ってんの。そりゃ怒るでしょ、あんなメール見たら!」

 七瀬は気炎を吐き、隙あらば逃げようとする柊吾のブレザーを引っ掴む。女子に取り押さえられた柊吾は居心地悪そうに余所見したが、そんな態度も気に食わなかったので、七瀬はどすを利かせて凄んだ。

「ちょっと。人と喋る時は目ぇ見て喋んなよ」

 途端、何故か背後から悲鳴が上がった。

「? 何?」

 七瀬が振り向くと、そこには撫子ともう一人。ひょろりとした体躯の男子生徒が立っていた。

 撫子は不思議そうに少年を見上げていて、対する少年は顔色が真っ青だ。

 悲鳴の主は明らかだった。

「……ねえ、何?」

 そんなに怖がる事はないのに、失礼な男子だと思う。七瀬がむすっと頬を膨らませていると、撫子が二人の間に割って入った。

「陽一郎。七瀬ちゃんは怖くないよ」

「だ、だって、撫子。なんかあの人、めちゃくちゃ怒ってるよ? きつそうだし、怖いよお……」

「七瀬ちゃん優しいよ。怖がらないの」

 まるで母親のように諭されている。少年は「そっか」と言って、ふにゃふにゃと相好を崩した。

 何だか、とても腑に落ちない。きつそうと言われた七瀬はふくれっ面で少年を睨んだが、この時になってようやく、「陽一郎」と撫子が口にした事実に気づき、ぎょっと目を見開いた。

 ぐるんと、柊吾を振り返る。

「ねえ、陽一郎って今言ったよね? 三浦くん。あの人、日比谷くんって人なの?」

「? ああ、そうだけど」

「……うわあ」

 なんという事だろう。七瀬は口をへの字に曲げて、背後の日比谷陽一郎を振り返る。陽一郎は七瀬の視線に気づいて笑顔を凍らせたが、撫子に再び「怖がらないの」と諌められて、おっかなびっくりと言った体で頷いている。

 日比谷陽一郎。

 名前は知っていた。ある程度の事情は聞いているのだ。

 中二の初夏、柊吾が氷花と対決するきっかけとなった事件の被害者。

 そして、信じられない事に…………撫子の、元彼氏。

 しかも先に告白したのは、撫子の方だと聞いている。

「……」

 撫子が何故そんな行動を取ったのか、七瀬には一応だが分かるつもりだった。

 氷花の、〝言霊〟。悪意の乗った、言葉の魂。

 幸い七瀬は撫子ほど酷い事にはならなかったが、あの時に掻き乱された感情は、まだ生々しく覚えている。そんな七瀬だからこそ、撫子を襲った痛みと、それによって動いたであろう感情の変遷に、一定の理解と共感があったのだ。

 七瀬は思う。あの頃の撫子に、おそらく正常な判断力はなかった。

 それにこれは撫子本人の談だが、撫子は今や中二の初夏の記憶が薄いらしいのだ。けして忘れたわけではないようだが、リアリティを著しく欠くという。撫子自身はそんな現状に葛藤があるようだったが、聞いた七瀬はほっとしたものだ。

 それはきっと、撫子にとって救いになる。そう思って安心したのだ。

 ただ、当時の柊吾の感情を思うと、そう簡単に割り切ってしまっていいのか、時々分からなくなってしまう。

 自分の好きな人が、自分ではない人に好きだと言ったのだ。

 柊吾は一体どんな気持ちで、そんな撫子の仇を討とうと思ったのだろう。

 泰然と構える柊吾の顔に、当時の痛みの色はない。

 それでもきっと、たくさん傷ついた。七瀬には見えない傷が、心にたくさん刻まれている。他校の友人だが一緒に過ごした時間は長い。当事者でなくとも、それくらいの事は簡単に分かってしまった。

 柊吾は、強い。七瀬はそう思う。

「……」

 ただ。そう思って尚、この組み合わせは解せなかった。

 七瀬は眩暈を覚えながら、呆れを隠さず、柊吾に言った。

「何なの、このメンバー。三浦くん、なんで撫子ちゃんの元彼なんかと一緒にいるわけ? もしかしてマゾなの?」

「なわけないだろ! アホか! っていうかそれ、お前も言うのか。仕方ないだろ。誰も気にしてねえんだって。何回言わせるんだ」

「? 初めて言ったと思うけど。お前もかって何?」

「あー、もうその話題やめてくれ。頼むから」

 柊吾が煩そうに溜息を吐く。何だか嫌に疲れている。受験疲れが出たのだろうか。怪訝に思ったが、すぐにどうでもよくなった。

 柊吾の境遇には同情するし、何故か疲れているところ悪いとも一応思う。だがそんな事情など七瀬には関係ないのだ。

 そんな話をする為に、ここへ来たわけではないのだから。

 余計な感情を振り払い、七瀬は毅然と言った。

「三浦くん。昨日の夜のメール見た。あれ、どういうつもりなの」

「だから、なんでお前はそんなに怒ってるんだ?」

 居心地悪そうに、柊吾は言う。それでいて不可解そうにもしているので、もしかしたら本気で、七瀬が怒る理由が分からないのだろうか。

 だとしたら、許せない。七瀬は柊吾を睨み付けた。

「メール。毬が狙われてるかもしれないって書いてたでしょ? あとは、毬の前には別の子が狙われてたって事と、その子は無事で、今は標的から外れてるって事。しかも呉野さんについて何も知らない。で、多分私の友達って事」

「ああ。そう打ったけど」

「なんでそこまで書いといて、それが佐々木和音ちゃんだって事を書いてないわけ!?」

 ぼこんと腕を軽く殴った。

「いってぇ!」と柊吾が叫ぶ。大げさだ。そんなに強く殴っていない。その理不尽も一緒くたにして、七瀬は構わず捲し立てた。

「三浦くん、和音ちゃんに会ったんでしょ! 名前、聞いてたんなら書いてよね! メールで訊き返しても返事くれないし、三浦くんの説明じゃ適当過ぎてわけ分かんなかったから、結局お兄さんに電話して聞き出したんだから!」

「なんだ、結局篠田までイズミさんに電話したのか」

「した。っていうか、お兄さん、めちゃくちゃ回りくどい喋り方するから、すっごい長電話になったんだからね。受験落ちたら三浦くんのせいだからね? ねえ、どうしてくれるの?」

「それ、俺の所為かよ。違うだろ……」

 げんなりとする柊吾を七瀬は睨む。まだ解放する気はないのだ。

 実際に七瀬は呉野和泉と連絡を取ったが、和泉はのらりくらりと明言を躱すばかりで、質問にまともに答えてはくれなかった。

 唯一回答が得られた事と言えば、毬の関与の肯定、そして和音の関わりについてのみだった。後は柊吾に聞けと言う。

 その柊吾の説明が適当なのだから、結局時間を無駄にしたようなものだった。

「ねえ、お兄さんと話してる時に和音ちゃんと会ったんでしょ? 何、話したの」

「別に何も」

「別に、って……」

 七瀬は、言葉を途切れさせる。

 何となく、冷たい言い方に聞こえたのだ。

 勢いを削がれた七瀬が黙ると、柊吾も自分で気付いたらしい。はっとしたように目を瞬き、すぐに渋面を作って俯いた。

 不機嫌に細められた両の目に、柊吾の自己嫌悪を見た気がした。

「……三浦くん、和音ちゃんと何話したの」

 もう一度、訊いてみた。

 だが訊きながら、少し意外にも思っていた。

 七瀬の知る佐々木和音は、人に合わせるのが上手い子だからだ。

 この柊吾の反応を見る限り、二人のファーストコンタクトは最悪だ。和音が初対面の人間との邂逅をしくじったのが、何となく七瀬には不思議だった。

 違和感を、覚えた。

 それでいて、何かが腑に落ちる感覚も、確かにあった。

「……」

 思えば一度だけ、打ち明け話をした事がある。

 茜射す調理室の教室で、無数の鏡の破片が撒き散らされた『鏡』の中で。

 七瀬は、拓海に言っていた。

「……そっか」

 こんな時に、それを思い出すとは思わなかった。

 諦めにも似た感情で、薄い笑みが、顔に浮かぶ。

 七瀬はやっぱり、一年経っても、同じ感情を引き摺っている。

「和音ちゃん。隠すの、やめたのかなあ」

 独り言を受けて柊吾がこちらを見たが、「なんでも」と言って七瀬は濁した。

 柊吾は引っ掛かりを覚えたような顔で七瀬を見つめ続けていたが、そのうちに観念したのか折り合いを付けたのか、溜息を吐いて、空を仰いだ。

「佐々木って奴、お前のダチだってイズミさんに聞いた。……けど、篠田には悪りぃけど。俺はあいつの事、あんまり良く思わなかった。陰口なんか聞かされるの、ヤだろ。だからいい。俺からお前に話せる事なんか、何もないんだ」

「いいよ、別に。陰口でも。そんな事で、怒ったりしないから」

「……篠田?」

 柊吾が、意外そうに七瀬を見た。

 七瀬は緩く首を振って、なんとなく背後を振り返った。

 息を吸い込むと、冷たい空気が肺に流れる。

 受験終了後の、爽やかな空気。冷たさが気持ち良い。そんな心地よさに身を任せながら、七瀬は和音の事を考えた。

 記憶の和音は、笑っているか、無表情。他の顔は、あまり見た事がない。見せてくれないからだと思う。多分だが、七瀬の見ようが足りないからではないのだ。

 嘘っぽく見えるのだ。笑顔が、いつも。少しだけ。

 柊吾を責める気はなかった。むしろ、出来ない。してはいけないと七瀬は思う。

 柊吾と同じ感情を、多分七瀬も抱いている。

 自分の事を、棚に上げているようだった。

 そんな狡さを許すのは、いけない事だと七瀬は思う。

「和音ちゃんってさ。普通の子、なんだよね。上手く言えないけど」

「普通の子? なんだ、その言い方」

「うーん、普通っていうか……実は、面倒臭がり、かな。人付き合い、多分面倒臭いって思ってる」

 七瀬はマフラーを首に巻き直しながら、視線を校門方面に馳せた。

 依然として生徒の行き来の激しいその場所には――七瀬の知人が、一人いる。

 ざっと見た限りでは、見つけられない。だがそれこそが互いにとって、都合のいい事に思えた。

 そうやって雑踏を眺めていると、撫子と陽一郎の二人がこちらを見つめているのに気付く。撫子と目が合ったので、七瀬は笑って手を振った。

 すると撫子がこくんと頷いて、「陽一郎、あっち行こう」と、呆ける陽一郎のブレザーを引いて歩き始めた。気を利かせてくれたのだろう。少し申し訳なかったが、友達の気遣いが嬉しかった。

「……」

 柊吾と、二人だけで話す機会。

 そんな機会はなかなかないし、話すべき事は山ほどある。陽一郎には悪いが、外れてくれる方がやりやすかった。

 七瀬は柊吾を振り返ると、しばしの逡巡の後に、こう切り出した。

「三浦くん。多分だけど私、和音ちゃんから、あんまり良く思われてないよ」

「……。はあ?」

 柊吾が、ぽかんとする。その反応があまりに予想通りだったので、七瀬はくすりと笑ってしまった。

「分かっちゃうんだよね。女の子同士だし。それにこっちだって和音ちゃんのこと面倒臭がりなんて思ってるんだから、和音ちゃんだって絶対、私に対して思ってる事あると思う」

「おい……じゃあ、なんでお前ら、友達なんだ?」

「毬がいるからでしょ」

 七瀬は返答を躊躇わなかった。

 誤魔化したって仕方がない。それが七瀬達の現実なのだ。

「少林寺の道場が一緒だから、友達みたいな関係になってた。毬がいたからそうなったんだと思う。もし毬がいなかったら、私と和音ちゃんとの繋がりって、とっくに切れちゃって、なくなってたんじゃないかな」

「面倒臭くないか? そういうのって」

「面倒臭いよ。けど、そういうの一個一個を面倒臭いって言うの、ヤじゃない? 手抜きみたいで。ちょっとずるい」

「分かんねえ」

 柊吾が、お手上げと言った様子で頭を振る。

「面倒臭いから、手を抜くんだろ。手抜きになるのは当たり前だ」

「そうかもね。でもそれ言い訳にして、人と関わるのいい加減にしちゃう人は嫌い」

 とん、と一歩柊吾の方へ歩く。校門で待つ人物が、七瀬に気づいたら事だった。見つかってもこちらは構わないが、相手が気づかないならその方がいい。逃げているようだったが、実際のところ逃げているのと変わらない。逃げているのを、認めたくないだけだった。

 そこまで分かっているのだから本当に、柊吾の言うようにこの関係は、面倒臭いとしか形容のできないものだろう。

 それでも、七瀬はいいと思った。

 友達の在り方は、人それぞれ。淡白だったが、こちらも相手も互いに親友は別にいる。ならばそれでいいと七瀬は思う。冷たいかもしれないが、悪びれる事なく思うのだ。

 ただ、そんな風に突き放しておきながら――心配に思うのも、確かな本音として心にあった。

 七瀬はあの相手にとって、一番の友人ではないだろう。そんな七瀬が手を伸ばしたところで、相手が手を取ってくれるか分からない。それどころか鬱陶しがられる可能性が高かった。

 それでも、あの行動は不安だった。

 見ない振りは、出来なかった。

「……三浦くん。毬も心配だけど、私、和音ちゃんの事もちょっと気になるんだよね」

「心配? あいつがか? まあまあしっかりしてるように見えたぞ。それに標的からは外れてるって、イズミさんも言ってた」

「しっかりは……してると思う。器用だし。けど、やっぱり面倒臭がりっていうか。ちょっと不器用なとこもあるから……思い詰めたりしてないかなって、心配なんだよね」

「それ、本人に言ってやったらいいじゃん。俺なんかに言わないで」

「言いたいけどね。言ったらウザがられるだろうなあ」

「分かんねえな。悪いけど、お前らの関係ってやっぱ面倒臭い」

「あはは。でも、ウザがられても、多分言っちゃうだろうなあ」

 雑談しながら、七瀬は背後をちらと窺う。

 そんな所作は、すぐに見咎められた。

 柊吾が不意に、表情を真剣なものに変える。心持ち身体を前に屈め、七瀬の耳元に頬を控えめに寄せて、柊吾は声音低く囁いた。

「篠田、さっきから校門気にしてるだろ。あっちに誰かいるのか?」

「うん。和音ちゃんが来てる」

「はあ? あいつが? なんでっ」

 柊吾がぎくりとした様子で仰け反る。七瀬は背後を振り返らないまま頷いた。

「三浦くん、私が三浦くんのパソコン宛てに返信したメール、見てないでしょ。昨日ね、毬から連絡もらったの。最近、変な人がうろついてるから気を付けてって内容だった」

「……それ、どういう意味だ?」

「多分、呉野さんの事言ってるんだと思う」

 柊吾が顔色を変えた。

 身体を固く強張らせた柊吾に、「でもね、呉野さんの名前は一言も書いてなかった」と囁き返す。

「私はだいぶ呉野さんに恨まれてるみたいだし、多分だけど呉野さん、私の事で毬に何か言ったんだと思う。……毬、優しいから。呉野さんが私の事で根に持ってるみたいなこと書いたら、私が嫌な思いするって考えたんじゃないかな。内容、ぼかしたメール送ってきた」

「おい。それは篠田の憶測だろ。ほんとにそれで合ってんのか?」

「合ってると思う。それに、ちょっとくらい違っててもいい。毬の言う『変な人』っていうのは、絶対呉野さんで間違いないから。……だって。三浦くん。毬は、狙われてるんでしょう? 呉野さんに」

 ざあと風が吹き抜けていき、砂煙が舞い上がる。周囲の喧騒から隔絶された緊張の中で、七瀬と柊吾は互いの目を、探るように見つめ続けた。

 分かっているのだ。そんな事は。柊吾もきっと分かっている。認めたくないだけなら、そんな葛藤は不要だった。

 答えだけが、今すぐ欲しい。他なんて何も要らなかった。

 数秒の探り合いの後に、柊吾が先に目を逸らした。

「……その話と、今校門で佐々木が待ち伏せてるのと、一体どう関係するんだ」

 尤もな疑問だろう。七瀬は昨夜の電話を思い返しながら、質問に答えた。

「和音ちゃん、毬が心配になったんだって」

「心配?」

「うん。毬、最近何かあったみたい。事情は……詳しくは、聞けてないけど。でも和音ちゃん、毬の受験が終わったらこっちに迎えに来るんだって。そこの校門で待ち合わせしてる。だから多分、和音ちゃんはもう来てると思うよ」

 この情報は、昨夜毬から教えてもらったものだ。

 ただ、毬との電話で得られた情報は、呉野和泉へ電話した時同様、あまり多くはない。毬は頑なに事情の説明をはぐらかし、それでいて七瀬の安否を気遣い続けたからだ。

「……で、ここからが本題なんだけど。三浦くん。和音ちゃんは校門にいるけど、毬は今、昇降口にいるから」

「……は?」

 柊吾が、目を点にする。

 七瀬は頷き、繰り返した。

「だから、毬。昇降口で私を待ってるから。ねえ、今から会いに行こうよ」

「ちょ、ちょっと、待て。事情が読めねえ」

 柊吾が慌てたが、七瀬とて事情に深く通じていないのは同じなのだ。上手い説明など思いつかない。それでも性急すぎた事を反省して、七瀬は補足で説明した。

「毬に事情を説明してって電話で頼んだけど、あんまり話してもらえなかったんだよね。でも毬は袴塚東受験してるから、今も校舎にいるの。和音ちゃんに会う前にちょっとだけ会えないか頼んだら、オッケーもらえた。……だから。三浦くん。事情、訊きに行こうよ。一緒に」

「……」

 柊吾が、放心したような目で七瀬を見る。

 七瀬は、強く頷いた。

「関わりたいんでしょ。呉野さんに。……毬の事、助けに行こう。三浦くん、一緒に行って。お願い」

 七瀬は、頭を下げた。

 その為に、ここまで来た。連絡不備を責める為に、ここまで来たわけではないのだ。

 柊吾を見つけるのは簡単だった。大柄な体躯。人ごみの中で頭一つ飛び出ている。頭を上げて見つめ合った顔は、無愛想さも相まって、武骨な強面に見える。

 だが七瀬は、柊吾が本当は優しい事を知っている。純朴で、人の感情を汲める人で、心の機微に繊細で、正義感が強い。それが、七瀬の知る三浦柊吾だ。

 だから七瀬はここに来た。

 目的は、同じだった。七瀬と柊吾の間に、利害の不一致は欠片もない。

 だったら。自分達は、一緒にいるべきだ。

「ねえ。三浦くん。十二月に呉野さんが転校するまでの間、私、あんまり怖くなかった。だって坂上くんがいるんだもん。他校だけど三浦くんと撫子ちゃんもいるし、後は、胡散臭いって思ってたけど、お兄さんもいる。師範もいるしね。だから、大丈夫。なんとかなるよねって、心のどこかで思ってた」

 柊吾は無言だった。こちらの真剣さを受けてか、きゅっと表情を引き締めただけだった。そんな切り替えが心地よかった。もう連絡不備くらいなら、許してあげようと思ってしまう。冷たい空気を吸い込んで、七瀬はすっきりと笑った。

「だから呉野さんが東袴塚の学校にいてくれてる方が、まだ安心できたんだよね。……よりにもよって、袴塚中なんかに転校しちゃうなんて。なんでこんな事しちゃうかなあ。お兄さんってば」

「それは、多分だけどお前と、坂上の為だと思うぞ。あいつ、だいぶ参ってたじゃん。学校にいる間ずっと神経質なってたら、そりゃ疲れるだろ」

「それは、そうだと思うけど」

 それを言われると、痛かった。

 爽快感に、影が差す。七瀬は唇を噛んで、睫毛を伏せた。

 柊吾の言葉に間違いはない。現に拓海は夏以降、七瀬の無茶を極端に恐れるようになっていた。その恐れ方は時に常態から逸していて、七瀬が師範の家に遊びに行こうとした時などは、一人では行かないで欲しいと頭を下げられたほどだった。

 もちろん、心遣いは嬉しく思う。

 ただ、心配だった。拓海の事が。

 そんなにも神経を張り詰めさせていては、いつか拓海が壊れてしまうのではないか。そんな恐れが、心から抜けないのだ。

 柊吾が、眉根を寄せた。

「篠田。携帯の電源、受験終わってから入れてないだろ」

「え? ……あ。そういえば」

 七瀬は気付いて、鞄のポケットを探る。柊吾は呆れ眼で七瀬を睨んだ。

「やっぱりか。おかげでこっちに連絡きたんだからな。坂上に早く連絡してやれ。あいつ、すげえ困ってるぞ」

「……うん、そうだよね。ごめん」

「……。篠田。言うまでもないだろうし、こんなの俺から言われるの、ヤだろうけど。坂上の事。お前に頼んだからな」

 柊吾が、七瀬を見下ろす。その瞳には複雑な陰りがあった。

 やっぱり優しい人だと思う。柊吾は七瀬の逆鱗に触れるのを懸念したようだったが、その言葉を聞いた七瀬の心に、怒りは全く湧かなかった。

 そんな柊吾だからこそ、今の七瀬の心情を見抜いたのだろうか。

 一応の信頼を置く友人だからだろう。柊吾にそんな風に見抜かれるのは、悪い気はしなかった。

「さっきまで雨宮の携帯で、坂上と話してた。お前の事心配してたぞ。置いてくなよ。あんなにお前の事、大事にしてんのに。それにあいつ、言ってる事はしっかりしてるように聞こえるけど、内心では結構ガタガタだと思う。お前に何かあったら、どうにかなるんじゃないかって、俺は」

「三浦くん、誤解しないでほしいから先に言っとくけど。私、坂上くんのこと、好き。大好きだからね」

 言葉を、遮る。

 目を瞠る柊吾を見つめ返し、七瀬はそっと笑いかけた。

 少し前まで怒っていたのに、不思議だと思う。優しい気持ちになれた。

 思い出すだけで、心が落ち着く人。そんな人の事を七瀬は好きになった。それはとても誇らしく、尊い事だと七瀬は思う。

 これから先の人生で、七瀬はいつか、拓海ではない人を好きになる日が来るだろうか。そんな想像なんて出来ないくらいに、七瀬は今、拓海が好きだ。

 ただ。

 だからと言って、譲れないものもある。

「……待てないよ。三浦くん。お兄さんが動くのなんて、待ってらんない」

 七瀬は、言う。

 それが本音だった。拓海の配慮を秤に乗せても、量ることなんて出来ない心。譲れない本心。拓海の気遣いと毬の安否。土台が違うのだ。重さを比べる事は出来ない。比べるつもりもなかった。

「坂上くんにも、昨日電話で釘刺された。お兄さんと師範に全部任せて、大人しくしててほしいって。……じゃあ、訊くけど。三浦くん、私がそれ聞いて大人しくしてるって思う?」

「現に、してねえだろ。大人しい女子は、彼氏放ったらかしてかっ飛ばして来たりしねえ」

 柊吾は額に手を当てて、大きな溜息を吐いた。

「篠田。俺がお前を連れてったら、坂上に怒られる」

「怒られてよ。一緒に怒られるから」

「あのなあ……」

「私は、坂上くんの事が好き。でも毬の事も好きなの。だから誰かが単独行動するのも、一人になって危ない事になるのも……全部、すごく怖いよ。ねえ、だったら。最初から誰かとつるんでる方が、安心だと思わない?」

 七瀬は柊吾へ、手を差し出した。

 柊吾が、露骨にげんなりとした顔になる。七瀬はにっと笑った。

「もちろん三浦くんと私が二人で行動するってわけじゃなくて、これから坂上くん迎えにいって説得するから。毬ともう約束取り付けちゃってるんだもん、オッケーって言ってくれるでしょ」

「怖ぇな、おい。確信犯じゃん、それ」

「ねえ、どうなの? 三浦くん。私と来るか、私をほっぽって先に帰るか。どっち選択しても、私は毬に会いに行くからね? ほら、答えて? どっち?」

「……坂上って。絶対、苦労しすぎて将来禿げると思う。お前の所為で」

「はあ? ちょっとやめてよ、禿げるわけないでしょ!」

 七瀬がむくれると、柊吾の手が差し出された。

 手袋をした七瀬の手に、大きな手のひらがぶつけられる。

 毛糸と素肌が触れ合って、ぺちんと、くぐもった音がした。

「……」

「待たせてるだろ。行くぞ」

 柊吾が、踵を返す。

「坂上に連絡するから。篠田も、携帯の電源入れとけ。あと雨宮も連れてくからな。陽一郎のアホと置いてく方が不安だ」

 七瀬は、手を見下ろした。

「……ありがと」

「あ? なんか言ったか?」

「……べっつに!」

 晴れやかに笑い、七瀬は柊吾を追いかけた。

「あ。ねえ、日比谷くんどうするの? 連れてく?」

「説明が面倒だから、先に帰らせたいけど。……あー。めんどくせえ」

 煩雑なやりとりを想像したのだろう、柊吾が頭を抱えた。

 不遇な扱いを受ける陽一郎には悪かったが、ついて来られても事情は誰も説明しないに決まっている。余計に不遇な目に遭うだろう。

 少しおかしくなって、七瀬は吹き出したが……その時、遠くの方で、聞き知った歌が聞こえてきた。


 ――勝って嬉しい、はないちもんめ!


「……?」

 視線が、声の方へと吸い寄せられる。

 七瀬が振り返ったからだろう。柊吾も一緒になってそちらを見た。


 ――負けて悔しい、はないちもんめ!


 グラウンドの一角から、その声は聞こえていた。

 紺色の揃いのコートを来た女子生徒達が、四人ずつに分かれて手を繋ぎ合っている。同じ学校の生徒だろう。コートから覗くスカートも靴下も、全てが同じ色だった。

 きゃあと嬌声が弾け、わっと場が華やいだ。


 ――あの子が欲しい。

  あの子じゃ分からん。

  相談しましょ。

  そうしましょ。


 知っている、歌だった。

 主に学校で何度も聞いた。小学生の頃から知っている。それくらいに記憶に沁みついた歌だった。

「はないちもんめ」

 七瀬が呟くと、柊吾が興味無さそうに息を吐いた。

「たまに女子が学校でやってるけど、なあ、あれって楽しいのか?」

「楽しいか、って……んー、まあ、勝てたらね」

「勝てたら? っていうか、あれ。どういう遊びなんだ? ルールが分かんねえ」

「うそ。三浦くん、はないちもんめ、した事ないの?」

「ん。っていうか女子の遊びだろ。遠目に見た事しかねえな」

「ふうん?」

 七瀬は返事をしながら、はないちもんめに興じる少女達を眺めた。

 ……楽しそうに、遊んでいるように見えた。

 遠目なので、個々の顔は分からない。それでも四人一組になって対面の少女達に向かって進み、足をリズミカルに蹴り上げる様からは高揚感が伝わってくる。このメンバーで一緒に遊ぶのが、楽しくて堪らない。繫がれた手の平のような連帯感が、少女達の間にあった。

「……」

 はないちもんめ。

 七瀬の学校でも、体育前の休み時間などにクラスの子達がやっている。

 何人かで徒党を組んで、相手のグループを全滅させるべく切磋琢磨し、あの子が欲しいと一人を選び、じゃんけんで勝負して、その果てにメンバーを、一人ずつ貰い受けて――――。

「……はないちもんめ、って、さ。ヤな遊びだよね」

 思わず、呟いていた。

「? どうした?」

 怪訝そうに、柊吾が七瀬を見る。

 七瀬は我に返ったが、もう飛び出した言葉は取り戻せない。逡巡して、すぐに誤魔化すのをやめにした。

 柊吾相手に、何故そんな話をしようと思ったのかは分からない。

 ただ、遊ぶ少女達を見ていると、七瀬は自分の友人の事を思い出したのだ。

 毬でも和音でもない。同じ学校の友人の事だ。

「三浦くん。はないちもんめって、まずああいう風に人数を半々に割って、グループを作るの。それで、『勝って嬉しいはないちもんめ、負けて悔しいはないちもんめ』って歌う。『あの子が欲しい。あの子じゃ分からん。相談しましょ。そうしましょ』。で、皆で相手グループから誰をもらうか相談して、決まったら『決ーまった!』って宣言してから『誰々ちゃんが欲しい』って相手に言うの。それが『はないちもんめ』の遊び方。相手メンバーを全員、先に奪ったら勝ち。奪われたら、負け。……簡単で、単純な遊びでしょ? 全然、難しくない」

「……。篠田?」

 柊吾が、七瀬を見下ろす。朴訥ながらも気遣うような声音。気付かない振りをしたかったが、バレているものを誤魔化しても仕方がないだろう。

 七瀬はぐっと伸びをして、「なーんか、さあ」と、茜色が混じり始めた空へ、愚痴を零すように声を上げた。

「この遊びって、あんまり好きじゃなかったんだ。なんか、残酷で。誘われても参加したくなかったから、時々言い訳して逃げてたんだよね」

「残酷? 分かんねえ。どの辺がだ?」

「だって」

 七瀬は、柊吾を見る。

 少し、卑屈な顔になったかもしれない。だがそうだとしても、ここは東袴塚学園中等部でもなければ、相手はいつも一緒にいる女子生徒でもない。

 柊吾になら、こんな顔を見られてもいい。どこか投げやりな気持ちで、それでいて信頼を感じながら、七瀬は言葉を吐き出した。

「相手グループから、メンバーをもらう順番。皆で相談して決めるんだもん。……後の方に残された子って、なんか、意味深でしょ」

「……」

 沈黙が、降りた。

 柊吾は口を開きかけたが、すぐに七瀬の言わんとする意味に気づいたのだろう。無表情に近い顔に、苦々しいものが薄く浮かぶ。

 だがそんな柊吾の顔を見た時、七瀬もまた、別の意味に気づいていた。

 びっくり、していた。そんなつもりではなかったからだ。

 ただの雑談のつもりだった。深い意味などなかった。言葉の形で示して初めて、七瀬もようやく気付いたのだ。

 これでは、まるで――――あの時と同じではないか、と。

 中学二年の初夏、撫子が『見えなく』なった時。

 好意の度合い。信頼関係。絆の強さ。愛おしさ。

 その順番通りに、動いている。消えていく。選んでいる。選ばれている。

 ただ、逆なだけだった。残された方へ『愛』が掛かるのと違い、こちらは早く選ばれた方にこそ、『愛』が強く掛かっている。

 言葉は、もう不要だった。

 七瀬の言った『残酷さ』は、柊吾の骨身に沁みている。

「あ……」

 血の気が、音も無く引いていった。

 傷付けた。柊吾を。

 七瀬は謝ろうとしたが、もし柊吾が気づいていないなら藪蛇になってしまう。結局怯んで何も言えず、七瀬は後ろめたさから下を向いた。

「つまんねえ。それ、やっぱ楽しくなさそうな遊びだな」

 柊吾は、吐き捨てた。

 まるで糾弾された気がして、七瀬は少し委縮する。だが柊吾にはこちらを威圧したつもりはなかったようで、顔に、微かな狼狽が浮かんだ。

「なあ。俺、また何かまずい事言ったか? 分かんねえから、言ってくれると助かる」

「……うるさいなあ」

 少しだけ救われた気分になりながら、七瀬は柊吾の腕を軽く小突く。

 気にしていないのか鈍感なのか、やっぱり柊吾は柊吾だと思う。

 七瀬がそうやって気持ちを切り替えていると、ふと、思い出す事があった。

 ちらと柊吾を見上げながら、ついでなので言ってみた。

「ねえ。はないちもんめの『もんめ』ってさ、お金の単位の事なんだって、知ってた? 昔ってお花を売る時、『匁』っていう単位を使ってたんだって」

「へえ、もんめ?」

「そ。匁って、すごい軽い重さを量る単位で、……ええと、確か、一匁で三・七五グラムだったかな。五円玉と同じ重さって聞いた気がする」

「すげえな。覚えてんのか。雑学覚えられるくせに、なんでお前社会の勉強あんなに苦労したんだ?」

「うるさいってば」

 意外そうにする柊吾を再度小突きながら、「まあ、こういう話が好きな子が、友達にいたから」と七瀬は濁し、中空で漢字を書いた。柊吾が興味深そうに七瀬の指の動きを見つめ、「で?」と話を催促した。

「漢字は分かった。けど、それがこの遊びの名前とどう関係するんだ?」

「さっき歌詞言ったでしょ? この歌、深読みすると、ちょっと怖い歌になるんだって」

「?」

 柊吾が首を傾げる。『花一匁(はないちもんめ)』で遊ぶ少女達の中から、一人、少女が貰われていった。貰われた少女が笑いながら、対面のグループの子の手を取る。

 その様を見つめながら、七瀬はごく軽い調子で歌った。

「『勝って嬉しいはないちもんめ』。……『買って』嬉しい、『花一匁』。花って昔の言い方だと、子供とか、女の子の事を言ったかもしれないんだって。お花が買えて嬉しい。つまり、『子供が買えて嬉しい』。……次が、『負けて悔しいはないちもんめ』……これは、『まけられて』悔しい。大事な自分の子供を、安いお金で買われて悔しい。さっき、すごく軽い重さを量る単位が『匁』って言ったでしょ? お花一輪の値段って、やっぱり安いんだよね。そんな安い値段に、自分の子供が『まけられて』しまった。……昔の、人達。その日食べるご飯にも困るくらいに貧しかった人達が、自分達の子供が人買いに買われていってしまうのを、悲しみながら、歌ったもの。それが、この歌かもしれないんだって」

 七瀬はそう締めくくって、少女達から視線を外した。

 随分久しぶりに、そんな雑学を開陳した気がする。

 自分で語りながら、何だかとても懐かしかった。

「篠田」

 呼ばれて七瀬が振り向くと、柊吾が目を丸くしていたので驚いた。

「何? なんでそんなに驚いてるの?」

「それ、人に聞いた話だろ。イズミさんか?」

「ううん、違う子だけど。三浦くんの知らない子。どしたの?」

「いや、お前が、そういう古臭い事知ってるのが……なんか、意外だなって思っただけだ」

「……」

 確かに、自分でもそう思う。七瀬も人から聞かなければ、こんな雑学には一生関心を示さなかっただろう。

 肩を竦めて、軽く笑った。

 友達の影響。人と関わった事で、新たに取り込んだ知識と価値観。

 それを七瀬は、しっかりと引き受けて生きているのだ。

「そうだね。……友達が教えてくれなかったら、私が今こんな話を三浦くんにする事なんて、絶対なかったって思うよ」

「……。お前って、本当に。友達の事ばっかだな」

 柊吾が、口の端を軽く持ち上げて笑った。

 七瀬は目を瞬く。柊吾の笑みは珍しいのだ。呆れ顔で眉間に皺を寄せてばかりなので、なかなか貴重な顔だった。七瀬は嬉しくなって「当然でしょ」と胸を張った。

「三浦くんだってお人よしだよね。断られるかなって思ってたのに。断らないんだもん」

「別にそんなんじゃねえし。断ったら後が怖いもんを断れるか。……あ、そういや坂上、こっちに来るぞ。さっきグラウンドに来いって言っといた」

「そっか。そういえば、さっき言ってたよね」

 七瀬は言いながら携帯を取り出し、電源を入れる。

 そして、そのタイミングで――――着信音が、鳴り響いた。

「っ?」

 びっくりして、携帯を落としかけた。だが七瀬よりずっと柊吾の方が驚いたようで、「うお」などと声を上げながら手元の携帯を凝視している。

 鳴ったのは、七瀬の携帯ではない。柊吾の携帯だ。

 いや、柊吾のではなく。

 撫子の携帯だった。

「ちょっと、どうすんの? 撫子ちゃんの携帯でしょ」

「やべ、雨宮どこ行った? 出ていいか分かんねえ」

「っていうか、誰からなの? ……もう、見せて!」

 携帯に不慣れな柊吾がもたつくのを見兼ねて、七瀬は携帯を奪い取った。

 ちかちかと点滅する携帯のフリップを開き、ディスプレイを検める。

 そして、目に飛び込んできた名に驚いた。

「あ。坂上くんだ」

「坂上? またか?」

 七瀬は逡巡する。そしてすぐに、自分が出てもいいだろうと判断した。先程まで拓海は柊吾と話していたようなので、撫子宛ての電話と考えるより、柊吾宛てか、もしくは七瀬宛てと考える方が自然だった。

 七瀬は決断して、通話ボタンをプッシュした。

「もしもし……」

 瞬間。

『三浦!』

 即座に、名前が叫ばれた。

「え……っ」

 びっくりして、息が止まる。

 切羽詰まった声だった。

『え、……まさか』

 声が、愕然とした調子を帯びる。

 ――拓海の声だ。

 だが、様子が変だった。

 電話から聞こえた拓海の声が、気配が、明らかに普通ではなかった。

 我に返り、ともかく七瀬は叫び返した。

「……坂上くん! 私、七瀬! 三浦くんもいる! どうしたの!?」

『っ……』

 電話の向こうで、気配が固まる。

 その沈黙に、嫌な予感がした。

「ねえ、何かあったの? どうしたのか言って!」

『……昇降口!』

「え?」

『三浦と、今すぐ昇降口に来てくれ! 絶対に一人で来ちゃ駄目だ! 三浦と行動して、雨宮さんも一人にしないで、全員で昇降口まで来てくれ! ……篠田さん、落ち着いて聞いてほしい。今、綱田さんに会った』

 拓海の声は必死だった。普段の声からは考えられないくらいに、焦燥で強張った声だった。

 ……怖い。

 そう思った。

 聞くのが、怖い。

 聞いたら、後悔する。

 聞いちゃ駄目。言わないで。やめて。お願い。

 懇願するように、そう思った。

 フラッシュバックした。感情の乱れが、フラッシュバックしてちらついた。

 叫ぶ声。自分の悲鳴。支える為に伸ばされた手の、温度さえも分からない。自分が自分でなくなるような、その恐怖、恐慌、錯乱。出鱈目に膨張した感情が錯綜し、その質量が心と身体を押し潰す。傷口が疼き、裂けて、生々しく蘇る。

 ――毬。

 顔を、思い出した。

 泣き黒子。控えめな笑み。七瀬の名を、呼んでいる。七瀬ちゃん。笑う顔が、優しかった。どくんと、心臓が打つ。胸騒ぎが、止まらなくなった。

「や……、やだ、待って……」

 やめて。

 聞きたくない。

 やめて……!


『綱田さん、倒れた』


 声は、やめてくれなかった。

 残酷な言葉が、沈痛な声音で流れ続けた。

『今、保健室に運ばれてった。……まだ、近くにいるんだ。綱田さんが、ああなった原因かもしれない子が。グラウンドの方に、行ったと思う。でも、追っちゃ駄目だ。篠田さん、こっちに、綱田さんの所に、早く』

 手から、携帯が滑り落ちた。

 かつんっ、と硬い音が響き渡る。地面に落ちて、一度跳ねた。

 その残響に、耳を貸さないまま――――七瀬は、全力で駆け出していた。

「篠田ぁ!」

 柊吾が叫ぶ。制止を振り切って七瀬は駆けたが、伸ばされた屈強な腕を掻い潜る事は出来なかった。

 即座に腕が強く引かれ、つんのめって足がふらつく。前屈みになった肩が、ぐいと乱暴に引き寄せられた。

 厚手のコート越しでもはっきり分かる鈍い痛みと、硬い手の平の感触。

 抵抗できずに捕まる七瀬を、柊吾が怖い顔で見下ろしていた。

「どうした」

 七瀬は口を開いたが、唇が震えて何も言えなかった。

 足が、震えていた。手も、肩も、身体のあちこちが震えていた。それなのに柊吾が離してくれない。こんな所で、一緒にいる場合ではないのだ。

 毬が、倒れた。

 本当に?

 なんで? どうして? どうなったの?

 問い質したかった。拓海に。落ちた携帯に目を走らせる。だがそれよりも早く昇降口に行くべきだった。

「はなして」

 やっとの事で絞り出した声は、情けないくらいに震えていた。そんな声が出て初めて、七瀬は自分がどれだけ竦んでいるかに気づかされてしまった。

「毬が……危ない、でも、分からないの、どうなったか分からない。倒れたって、今っ……」

「! 倒れた!? 綱田がっ?」

「昇降口っ」

 縋るように、柊吾の腕を掴んだ。

「昇降口で、毬が倒れたって、坂上くんが」

「篠田、落ち着け」

 肩を、軽く揺すられた。

「坂上、他になんて言ってたんだ。お前がそんなんじゃ、どう動いたらいいか分かんねえだろ。しっかりしろ。……大丈夫、だから」

 声が、胸に突き刺さった。

 不器用な言葉だった。人を慰める事に慣れていない。あまりに拙い言い方だった。

 それでも、胸に響いた。この事態に柊吾だって動揺しているはずで、今すぐ走り出したいに決まっているのだ。それなのに、七瀬に付き合ってくれている。足を止めて、時間を割いて、七瀬が落ち着くのを待っている。

 ――何を、やっているのだろう。

 唇を噛む。平手を食らった気分だった。

 事態は一刻を争っている。怯えている時間が惜しいのだ。動揺で外れた感情の箍が、正しい場所に戻った気がした。

 七瀬は顔を上げて、挑みかかるように柊吾を見た。

「昇降口に行こう。私と三浦くんと撫子ちゃんで。絶対にばらばらにならないで、三人で。そこで、坂上君が待ってる。毬は、保健室にいるから!」

「分かった。行くぞ!」

 柊吾が頷き、落ちた携帯を拾い上げる。そして「坂上! 今行くから動くな!」と怒声を張り上げた。七瀬も人波を振り返り、「撫子ちゃん!」と声を張った。周囲の生徒がぎょっとして七瀬達を見たが、人目など気にならなかった。

「七瀬ちゃん」

 すぐに声が聞こえ、人波から撫子が飛び出してくる。背後にはやっぱり陽一郎も付いてきたが、七瀬は撫子だけに手を伸ばした。

「撫子ちゃん、来て!」

 撫子が頷き、七瀬の手を強く掴む。何も訊かれなかった。呑み込みが早い。既に異常事態を悟っていた。

 そんな撫子の腕を引き寄せながら、七瀬は拓海の言葉を反芻していた。

 さっきの、電話。拓海の言葉。

 切迫した状況を語る声に、奇妙な言葉を見つけたのだ。

「……」

 毬が倒れた。それは分かった。

 では、あの言葉は、一体どういう意味なのだろう?


 ――まだ、近くにいるんだ。綱田さんが、ああなった原因かもしれない子が。


 誰?

 まさか、氷花?

 だが氷花なら、拓海は名前を言うだろう。知らない相手ではないのだ。

 では、一体誰?

 心臓が、早鐘を打つ。背筋の辺りに冷たい悪寒が這った。

 誰かの害意で、毬が倒れた。今はそれしか分からない。

 そして、その犯人は――拓海曰く、近くにいる。

 この学園のどこかにいるのだ。

「行こう」

 撫子の声が合図となった。

 七瀬達三人は示し合わせたように頷き合うと、昇降口に繋がる階段目掛けて、一目散に駆け出していった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ