第十九章 経巡り肯う(3)
「暫く前の話じゃな? 嘉永の頃であったか。騒動があったことは知っておるが、何か関係があるのか」
唐突に昔語りかと怪訝に問えば、黄山は生真面目な視線を投げかける。
当時鈴石の名主であった大内六郎という男の、強欲非道のほどは確かに領内でも有名なものであった。
未だ話題に上る悪逆ぶりで、御用金や年貢の不正、村内の見目良い女房や娘に対する不倫、使用人への給金の不支給、借金を二重に取り立てるなど、自己の利のみを追求し、好き放題に村内を牛耳っていたという。
排斥する動きが出るのも当然の所業ばかりで、その悪行の数々が表沙汰となっても、当人は申し開きの一つも出来ず、村替えと田地家屋、家財に至るまで没収されることとなったのである。
「それは、なんというか……。絵に描いたような悪人じゃの」
所業の数々が如実に語る本性の醜悪さに、もしも身近にいたらと思うだけで胸が曇る。
「そうは言うがな、あの騒動の発端が何なのか、姫さんは分かってるか?」
「………」
単純に、その名主個人の横暴さが原因とばかり思っていたが、黄山が改まって訊ねるということは、そうとばかりも言えないのだろう。
「それは、どういう意味じゃ?」
「おまえさんの近くに、丹羽丹波というのがいるだろう」
「? おるぞ?」
「かつて大内六郎に若党の名目を与え、奴をのさばらせる要因になっていたのはな、丹羽丹波家だ」
「!?」
寸暇も入れず、日頃嫌味の言い合いをしている筆頭家老の丹波の顔が、ぱっと脳裏に閃く。
「え、は!? あやつ、そんな悪逆非道な行いに加担しておったのか!?」
「ああ待て待て、正しくは当代の丹波じゃあねえんだ。当時はまだ、その親父の代だったからな」
「そ、そうか……」
何故か、ほっと胸を撫で下ろした自分に気付く。
確かに何を考えているか分からないところもあるし、人の顔を見れば揶揄を飛ばしてきたりと、あれもあれで奇妙な男ではある。
しかし、悪辣な人間ではないと瑠璃自身は評していた。
「それもそうじゃな。あの丹波殿にそんな度胸があるとは思えぬものなぁ……」
安堵でそう溢す瑠璃に、黄山は愉快気に呵々と笑う。
「姫さんの丹波評はつまり、腑抜けってことか」
「そこまで言っとらんぞ……?」
ちょろりと横目に黄山を見上げるが、黄山は悪びれる風もなく話を接ぐ。
「畢竟、そういう上士層ですら、豪商富農と結び付かねば家計を賄えぬ有様なのが、騒動の遠因だってことだ。鈴石の一揆は藩財政の窮乏が招いたものだとも言える」
「……それは、常々実感しておるわ」
しかし当時と今とでは状況が違う。
戦が目前に迫った非常の時である。
平時ですら困難を極める財政の立て直しを、戦の危機に瀕した非常時にどんな打開策があるというのか。
そういえば、と瑠璃はふと顔を上げる。
「一昨年にも、郡山宿で馬方の騒ぎがあったと聞いたな」
「ああ、米価の高騰で暮らしが立ち行かなくなってんのに、馬賃は低廉なままに据え置きとなりゃあな。まあ、幕臣に直訴されたとくりゃあ、代官も頭を抱えただろう」
黄山は飄々として、あっさりと返す。
慶応二年初夏のその一揆は、幕府役人の荷継が滞る失態を恐れた代官が馬方側の要求を呑む形で一応治まった、という流れだ。
「領民も必死だ、追い詰められりゃ立ち上がる──」
「あれまぁ、中島様でねぇか。こんなとこまでおいでんなるっちゃあ、珍しんでねぇの」
「おお、久しいな。なに、村のご機嫌伺いってところだな」
肩に手拭いを掛け、尻っ端折りに草鞋履きという老齢の農夫、のようだった。
鍬を担ぎ、畑仕事のせいか衣服のあちこちを土で汚している。
気さくに声をかけながらこちらへ歩み寄るのを認めると、黄山もにっかりと笑って返事する。元々の知り合いなのだろう。互いに一切構えた様子がない。
「おい、そろそろ戻らんとまずいだろう。もういいか、中島殿」
それまで口を挟まずじっと待機していた栄治が、急かすように早口で言う。
郭外にまで出ることは間々あるものの、さしもの瑠璃もさすがに農村部にまで足を延ばすことは稀だ。
「はあ、これはこれは。今日はなんだって、お武家さんを二人も連れて。何かあったんだか?」
「いや、いや。何もありゃせんよ。ちと内緒話をしたかったもんでなァ。城下じゃどこに誰の耳目があるか知れん」
「中島殿。城下に姿が見当たらないとなれば、騒動になる。共にいるのが俺だけなら遠出の御忍びで済むが、あんたが一緒ではややこしくなるだろう」
と、栄治が言う。
流石に瑠璃の所在不明に勘付く者が出てくるはずだ。




