第十六章 波乱の幕開け(3)
先日度肝を抜く発言でこっそり物議を醸した才次郎も、その輪の中でいつも通りに過ごしているようだったし、瑠璃に対しても特段いつもと変わった様子はない。
使用後の銃の手入れを終え、身支度を整えると、瑠璃は冠木門で弟子たちを見送る銃太郎を待っていた。
はずだった。
しかし今、師弟の微笑ましい姿は見えず、代わりに瑠璃の視界に入るのは、間近に迫った直人の生真面目そうな顔である。
銃太郎を待つ間、直人が声を掛けてきたまでは良かった。
内密に渡したいものがあると言われ、手を引かれて付いて行った先は道場の陰だったのだ。
良く見てみれば、直人は落ち着きなく周囲を気にしているようだった。
物陰で他の耳目を遮ってもまだ警戒しているのか、壁際に瑠璃の姿を覆い隠すように立ち塞がっているのだ。
「そんなに人目を憚るようなものなのか?」
「引き留めてすまん。ある人から姫様宛てに預かったものがあってな」
言いながら、直人は懐を弄り一本の書状を取り出すと、直人は有無を言わさず押し付けた。
「だ、誰からじゃ?」
「それは言えない」
「言えない? それはまた、なんで」
「とにかく、文を渡して欲しいと言われただけで、俺も詳しい事情は知らんのだ」
直人はいやに至近距離で、物陰にいて尚も人目を遮ろうとするように瑠璃の眼前に迫っていた。
その息がかかるほどの近さに、さすがの瑠璃もぎょっと身を強張らせてしまう。
「中身も見えぬ文を渡すだけなら、そんなにコソコソすることもあるまい……」
それとも文の内容を知っているのか。と、そう問えば、直人は静かに頷く。
「言っておくが、俺には全く関わり合いのないことだからな」
「………」
正直なところ、文という時点であまり良い予感はしなかった。
何らかの要望や嘆願の類だろう。
城の中にいるとは言っても、直接的に政に関与出来るわけではない。
それでも、日頃の行い故かこうして瑠璃を介して要望を届けようとする者はたまにいる。
それに応えられるかどうかはさて置き、上げられたものは民の声として要路に繋ぐようにしているのだが、丹波の呆れ顔がまたぞろ目に浮かぶようである。
「誰にも見つからないように、姫様一人で読んでくれ。頼む」
「直人殿がそこまで言うなら……」
橋渡しなどという面倒なことをする理由はいまいち思い当たらないが、瑠璃は胸元に押し付けられた文を仕方なくその手に取った──その時だった。
「直人! そこで何をしている」
やや怒りの滲んだ声音が割り込んだ。
瑠璃を城へ送ろうと、その姿を探し回ったのだろう。
「ああ、銃太郎か。すまん、少し話し込んでいてな。引き留めてしまっていた」
何でもない風を装いながら、直人は咄嗟に瑠璃の手許を文ごとその手で覆い隠す。
瞬時に仕舞えという意味なのだと悟り、慌てて袂に文を入れると、瑠璃もまた直人に倣って話を合わせることにした。
「じ、銃太郎殿は皆の見送りは済んだのか? ならば私もそろそろ城へ戻るかの」
「帰り際に悪かったな。姫様も気を付けて帰れよ」
するりと銃太郎の脇をすり抜け、直人はあっさりとその場を去る。
銃太郎の怪訝な面持ちは和らぐ事なく、直人にも、そして瑠璃にも咎めるような視線を向け続けていたのだった。
***
まだ日も高く、日没までは余裕がある。
そういう時、瑠璃は決まって城下のどこかへ寄り道をしたいと言い出すのだが、この日に限ってそれもなく、無言のまま城門の手前まで来てしまっていた。
気まずい上に気分はひどく陰鬱で、瑠璃もまたいつもの軽口の一つもない。
このまま城へ戻ってしまったら、見た光景について二度と言及出来なくなってしまう気がした。
姫君としては勿論、単純に武家のおなごとしてあるまじき振舞いを、咎めたくもある。
だが、それだけのことならば、以前の自分ならとっくに瑠璃を窘める言葉を投げていただろう。
それが出来ないのは、訊きたくても訊けない蟠りがあるからだということは解っている。
そこに微かな悋気が含まれていることも、自身で薄々気が付いていた。
人目を忍んで、直人とは一体何を話していたのか。
よもやあの直人が間違いを起こすとも思えなかったが、嫁入り前のうら若いおなごが、物陰で男と密談など言語道断である。
それも触れ合うほどに近く──、否、実際に手と手を触れていたのもしっかり目撃してしまった。




