第十六章 波乱の幕開け(1)
「あのー、五郎殿?」
翌朝の稽古の後、初めて義弟を訪った瑠璃だったが、度重なる招きを躱し続けてきたせいであろうか。着座する前から、その目はあからさまに逸らされ、一切無言のままで迎えられた。
「………」
つんとすまし顔で目線を外し、口を開こうともしない。
傍らでは、傅役の和左衛門が気まずい空気に視線を右往左往させている。
「その、色々と事情があっての。なかなか話も出来ずに申し訳なかった」
五郎は相当に臍を曲げていると見え、瑠璃は長らく袖にし続けたことを軽く詫びる。
すると、そっぽを向いていたその顔が漸くこちらを向いた。
「義姉上が斯様に冷たい方だとは、思ってもみませんでした」
「ご、ごめん……。しかし私が日々武芸に励んでいる事は事実での?」
「存じています。家臣が義姉上を私から遠ざけていたことも、承知しています」
事情は薄々感じ取っているだろうとは思っていたが、五郎は口許をへの字にしたままじろりと瑠璃を睨めつけた。
「私は、ゆくゆくは貴女と夫婦になると聞いて丹羽家に入りました。一風変わった姫君だとは聞き及んでいましたし、武芸事に余念がないのも、身分に拘らず皆と親しくされるのも好ましいと思っておりました。が! いざ養子入りしてみれば、貴女は降嫁なさるという噂。しかも相手は、百石にも満たぬ家の、部屋住みの砲術師だというではありませんか!」
「うぇ!?」
文句の最後に突拍子もない話が飛び出し、瑠璃は思わず珍妙な声を上げた。
降嫁の噂は良い。その話は瑠璃も既に知っている。しかし。
「相手の話なぞ私も聞いたことがないぞ。誰がそんな根も葉もないことを……、はっ!? わ、和左衛門、そなたか!?」
「!? い、いぃえいえいえ! 儂ではございません! なにゆえ儂だと思われるのですか!」
「だって五郎殿の側近と申せばそなたじゃろ!?」
「儂だけではございませんぞ?! 御相手役の御子たちもおりますでな!?」
「しっ、しかし、私のそんな話を十三や十四の子供が話題にするかのう!?」
「するかもしれんではございませんか! 儂ではありませんぞ!?」
あわあわと言い合う瑠璃と和左衛門の間に、五郎が扇子で脇息をばしばしと叩く音が割り込む。
「義姉上!? まだ私の話は終わっていませんよ!?」
「あっ、はい、すいません」
「わ、儂もすいません」
五郎の白皙の顔が睨みを利かせ、瑠璃も和左衛門も揃ってしょんと肩を窄めて正面に向き直る。
僅か十三歳だというのに、有り余る迫力だ。
利発で明晰な印象こそ初めからあったのだが、なかなかどうして、その性格は随分予想と異なる。
「和左衛門ではありませんよ。成田達寿という者から聞いたのです。あくまで噂に過ぎない、という話でしたが」
「な、なんじゃ……本当にただの子供の噂話か」
恐らく五郎の相手役の少年が、仲間から漏れ聞いた話を伝えたのだろう。
瑠璃より四つも年下のくせに、五郎の眉間の皺は和左衛門のそれよりも深い。
「先程から子供子供と申されますが、才次郎という未だ十四の少年が貴女に求婚したという話も聞いていますからね」
「!? そっ、それは内々に解決したばかりで……!」
「なんと……、姫様。それは真にございますか」
「もう一度申し上げますが、私はいずれ貴女と夫婦になると聞いて参ったのです。貴女もそのおつもりだとばかり思っていたのですが、違うのですか」
「えっ……」
眼光の鋭さが、もはや十三歳のそれではない。
確かにそんな話を聞いた気もするが、その時自分は何と言っていたか。確か、四つも下のほんの子供だとか言って、そのままの意味で噛みついてきた篤次郎と重ねて思い描いていた気がする。
居た堪れず、瑠璃はそろりと和左衛門のほうへ目を泳がせた。
「姫様、儂の顔に答えは書いておりませんぞ……」
「じじい、一寸も擁護する気がないのじゃな」
「じじい呼ばわりせんでくだされ」
「義姉上!?」
「はいっ、すいません!」
険しい声で咎められ、瑠璃は義弟の前に背筋を伸ばす。
ほんの子供などと、とんでもない。
口振り一つとっても年少にしては教養高く、且つ威厳も矜持も感じられる。篤次郎や才次郎とはやはり少し違い、一筋縄ではいかない相手だ。
「五郎殿。そなたが養嗣子としてこの家の姫を娶るという話は、当然履行されねばならぬ。そなたにとっても、この家にとってもな」
しかし、と瑠璃は一つ咳払いした。
「その姫が私だとは、誰も言い切ってはいなかったのではないかの?」




