第十五章 姉と弟(4)
「まあ戦は御免じゃが、調練はうきうきするのう!」
「待て待て、聞いてるか? 駄目だぞ?」
「これまでの成果を見せ付けてやらねば! のう、銃太郎殿!」
「うん、いや、聞こえない振りするのはやめなさい?」
「私も早速明日から復帰しよう! 宜しくのう、若先生!」
「………」
瑠璃自らも参加する気でいることは間違いないが、多分、いや絶対に城の許可は取っていない。
都合の悪いことは悉く聞き流した返答に、銃太郎はがくりと肩を落とした。
「あとで大谷殿に確かめるからな……」
「鳴海は忙しいから駄目じゃぞー。それよりも、ほれ。あとが閊えておる」
隅に控えて同座していた姉弟に目を向けると、いちが改めて事の顛末を論い、頭を下げた。
瑠璃の体の良い話題逸らしに利用されている気がしないでもなかったが、
「師範殿も遠慮なさらず、がつんと叱って頂けませぬか。馬鹿なことを申して聞かないのであれば、愚弟をこれ以上こちらに通わせることは憚られます」
いちは相変わらず険しい顔で言い、才次郎はさっとその顔色を蒼くする。
「姉上! そんな話は聞いておりません! 瑠璃姫に断られるなら分かるけど、俺だって男です、一度心に決めたら貫き通します」
高らかに宣言する才次郎の声を受けて、銃太郎もいちもちらりと瑠璃を見た。
「え、ここで? ここで返事するのか? 私が?」
***
「釈放嘆願?」
直人は盛大に眉を顰めた。
夕闇も迫ろうという刻限に、料理茶屋の座敷で対面に座る男の顔を睨めつける。
しぃっと指を立て、対座する栄治が横目で辺りを窺った。
下級藩士や町人も暖簾を潜る小料理屋は、酒を呑ませることもあってか、夕方になると人で賑わい始める。
幸い客の入り始めた店内に武家の者は他に見当たらず、町家の者たちが時折声を張って酒肴を楽しんでいた。
「一体誰を」
「三浦権太夫殿だそうだ」
直人は更に眉間の皺を深くした。随分前に城に意見して投獄の憂き目に遭った藩士である。
それを今になって釈放せよと求めるからには、明らかに何らかの思惑が働いていると考えるのが自然だ。
「どうしてそれを山岡さんが。誰かに頼まれましたか」
三浦権太夫との間に深い関係性も見出せず、栄治が自ら何年も以前に投獄された男の放免を態々願い出る理由が思い当たらない。とすれば、栄治が瑠璃と比較的親しい間柄であることを見越した、別な誰かの差し金だろう。
「中屋だ。姫に取り入り、これを通すようにと頼まれた」
懐中から文を出し、直人に向けて卓上を滑らせる。
「中屋──、中島殿か。しかし、そう簡単なことではない。その御仁は、ご家老方を随分と怒らせたというし」
「だから困っている。そもそも、俺の身の上でこんなものを姫に渡せる道理がない」
栄治は心底困り果てているようで、注がれた安酒を一気に呷ると大仰な吐息を立てた。
「何故断らなかったんです。面倒な事になるのは分かっていたでしょう」
「それを言うな。中屋さんには金を借りている」
「………」
直人は目を見開くと、ああ、と声を漏らした。
つまりは断れなかったのだろう。
栄治自身も亡き父の事件以来恤救米を食む身の上。瑠璃に直訴するには少々どころではない気後れがすると見え、また銃太郎には幾度か金策に付き合わせているというから、この上迷惑を掛けることに気が咎めたものだろう。
「それで、俺ですか。でもね山岡さん、俺は銃太郎や青山ほど姫様に近しいわけでないのは知ってるでしょう。俺が仲介したところで、耳を貸すとは思えませんよ」
「そこを曲げて頼む。中屋さんの話では、和左衛門殿ももはや当てに出来んそうだ。姫に若君ごと警戒されているらしい」
「そりゃまあ、文を渡すだけなら造作もないが、その場で破り捨てられるのが関の山ですよ」
直人が吐息混じりに言うと、栄治の目が気まずそうにその手許に落ちる。
その仕草だけで、どうやら頼まれ事は文の受け渡しに限らないことを推察した。
「嘆願書の他に、何があるんです」
小鉢の浸し物に箸をつけ、直人は行儀も気に留めず肘をついた。
「姫はよくお忍びで出歩くだろう」
「ええ、そのようですね」
「そこをうまく連れ出し、是非に一度引き合わせて欲しいと」
噛んだ青菜を飲み下し、直人は天を仰いだ。
「中島殿も随分と簡単に言ってくれますね」
藩主に対して恭順を説き、また和左衛門とも懇意にしていることから、既に目を付けられている。城へ瑠璃を訪ねては門前払いの恐れが高く、ならば瑠璃の外出時が好機と考えたらしい。
「でも、目付を撒くだけでも至難の技でしょう。姫様もいつもどうやって撒いているんだか……」




