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ヤラカシ家族の386日  作者: たかさば


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4/17 ☆謎の√3

 …あれは小学校の頃。


 算数が好きでも嫌いでもなかった私は、早朝五時から夏休みの宿題をしていた。


 夏休みの宿題は7月中に終えるものである…、小学一年生から続く家訓に従うべく、算数ドリルの解答欄を朝からせっせと埋めていた。

 ずいぶん問題のレベルが上がってきているからか、集中して取り組まなければあっという間に手が止まり、詰まってしまう。悩む時間がかかって、なかなか進まなかった。宿題をするのは午前中と決めていたため、時間が足りなくなりそうならば早く起きるしかなかったのだ。日の昇る時間に合わせて目を覚まし、まじめに宿題に取り組んでいた。


 七月も残りわずかだというのに算数ドリルはあと十枚も残っており…一刻も早くドリルを完了させなければならないと、相当に焦っていた。宿題を終えることができなければ、学業に支障が出ているとみなされ、漫画などを捨てられてしまうためだ。


 面積を求める問題を、せっせと何問も解いていると、ふと父親が私の手元を覗き込んだ。


 父親は毎日早朝六時半に家を出て夕方六時半に帰宅する、規則正しいサラリーマンをしていた。普段、私が起きる前に会社に行ってしまい、帰宅後食事のときに顔を合わせる程度で、あまり接点は無かった。

 土日祝日は休みだったものの、朝から将棋か囲碁のテレビを楽しみ研究をしていたので、声をかける事が憚られた。

 もともと非常に口数の少ないタイプの人という事もあり、ほとんど会話をした事がなかった。あまり触れ合うことの少ない、自分にとってはよく分からない人物、それが父親であった。


「…これは、ルート3だな。」


 入り組んだ図形の面積を求める問題に苦戦していた私に、父親が謎の言葉を投げかけた。思わぬ出来事に少々戸惑っていると、私の筆箱から鉛筆を一本取り出して、なにやらドリルの空白部分に書き込み始めた。


 …どうやら、宿題を手伝ってくれようとしているらしいのだが、私には理解しがたい内容だった。


「るーと、さん。・・・わからない。」

「ルート3も分からないのか。これはルート3と読むんだ。」


 父親は、ずいぶん頭がよくて、特に数学が得意だったと聞いたことがある。

 何でも、中学校卒業前に偉い人がスカウトに来て青田買いされて就職をしたのだそうだ。飲食店を営む父親の父親、すなわちおじいちゃんが進学を許さなかったためかなりもめにもめたらしい。

 今はその頭脳を生かして独自にパソコンを作りつつプログラムを組んでいるとのことだが、詳しい仕事内容はよく分からない。


 父親は、よく分からない文字を書いて、最難関の問題をあっという間に解いてしまった。


 …見たことのない記号がいくつも並んでいる。


「ここが正三角形になっているからルート3を使えば答えはすぐに出る。」


 入り組んだ図形を何分割もして、つど面積を求め、すべて足していた計算式の羅列の横に、理解できない記号を使った式が並んでいる。


「めんどくさい計算をしてるけど答えが違うな、やり直したほうがいいんじゃないか。」


 当時は、ドリルの答えを配布してもらえなかった。

 ただ問題を解いて答えを埋め、先生が丸をつけて返し、間違った問題を復習するシステムになっていた。正しい答えが出ているのなら、その答えと同じ数字が出るまでやり直すしか、ない。


 私は自分の計算した式をすべて消して、一からやり直し始めた。


 六時半、父親が出勤するために家を出る頃、父親の出してくれた数字と同じ答を出すことができた。その後は、特に躓く問題も無く、宿題は無事七月中に終えることができたのであった。


 九月、提出した算数ドリルが返却された。


 ところどころ不正解はあるものの、父親の答えは正解だった。おかしな記号の部分に、先生の言葉が記入してあった。


 ―――この計算式は高校で習います、覚えておこうね!


 私は律儀にも、そのことを覚えていたのだ。


 中学で√3と対面したときの感動といったら、もう。

 けれども、どこでどう使って解いたのか、その頃にはすっかり元の問題を忘れてしまっていたのである。


 高校に入り、おそらくだがあのときに見たであろう計算式らしきものに出会った。

 けれども、やっぱり、あの時父親に解いてもらった問題そのものは思い出せなかった。


 微分、積分、関数、数列、幾何、指数…高校に入って頭を抱えるような問題が発生した時に父親を頼ってみた。

 日曜の昼食後を狙って、どうしても解けない問題を差し出すようになった。


 父親はなにも言わず、信じられないようなスピードで正解を出してゆくのだ、何一つ迷うことなく、手を止めることなく。

 …私がまるで解けなかった問題を、するりするりと解答してゆくのだが。


「なんだ、微分系接触型も分からないのか。」

「分子の次数が下げてないな。」


 相変わらず知識の無さを指摘されることとなった。


 問題を教えてはくれるのだが、答えの出る式を書いてくれるだけで…、いわゆる勉強を教えるという行為にしては少々一方的であった。

 …それでも、ずいぶん、恩恵にあずかったのだ。


 ずいぶん時間の過ぎた今、父親は穏やかに過ごしている。

 毎日将棋と囲碁の番組を見つつ、時折孫である私の息子と対局を楽しんでいたりする。

 働く時期を過ぎ、仕事から離れてしまえば、口数は少ないものの…わりとごく普通の穏やかなおじいちゃんになったのだ。


 息子は数学が得意なので、宿題で頭を悩ませたことがない。

 あれほど私がうんうん唸った問題を、するりするりと解いてゆく。


 これは父親の血を濃く受け継いでいるに違いない。


 …ちょっと待て、血を濃く受け継いでいるということは、あの勉強の教え方も受け継いでいるのではあるまいか。

 いずれ来るであろう、息子の子供への数学指南にいささか不安を感じないでもない。


「ねえねえ、昔さ、面積もとめる宿題見てもらった時に√3使って解いてもらったことあったんだけど、覚えてる?」

「昔のことは、覚えとらんなあ。」

「なにそれ、どんな問題。」


 息子と父親を前に、あの夏休みの日の出来事を語る。

 今でも昨日のことのようにはっきりとあの場面は思い出せるのですよ、…問題以外は!


「……小学生の宿題に√3なんて使うかな。」

「いや、確かに使ったんだよ。」

「使った覚えは無いけど、使ったのか…どんな問題だったんだろう。」


 何でもかんでもするりするりと解いてきた父親ですら見当もつつかない、過去私が解いた問題とはいったいなんだったのか。

 何でもかんでもするりするりと解いている息子ですら見当もつかないのだ、もう永遠に謎のままに違いない。


 謎の√3は、謎のまま。


 算数の問題からかけ離れた位置に存在するようになって、ずいぶん久しい。


 …そういえば、何で√3なんて急に思い出したのかな。

 思い出したきっかけすら、思い出せないや。


 こうして思い出せないことが増えていくんだな、うう…。


 なんだかとっても悲しくなってしまった私は、頭の体操でもしようかなと考え直して…算数を使った脳トレアプリを検索し始めたのであった。

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