霧雨
霧雨が、駅のホームのコンクリート地の色をじれったく黒く染めていったあの日、館山祐司
は、お喋りに夢中になっていた中年の女に肘でつつかれ、後ろから迫っていた通過列車に頭部
を強打されて重傷を負った。
祐司の体は空中で半回転しながら、斜め前方へと弾きとばされた。支柱には、祐司の動きを
プロットするかのように、鮮血で放物線が描かれている。その血が水滴と混じりあって色を薄
め、支柱を伝って流れおちかけたその時になってはじめて、女は悲鳴をあげた。その声は、い
まにも止まってしまいそうな時の流れの中にあったこの事故を、一瞬で日常の一部へと引き戻
した。風景の部品と化した祐司の体は微動だにしなかったが、死んではいないと一目でわかっ
た。しかし、生きていると断言できるほどの熱は感じられない、そんなふうに見える。中途半
端なその存在はあってはならないものとしてそこにあり、見る者を不快にさせた。祐司の体を
中心とした空白が駅のホームにできあがる。女の狼狽ぶりは滑稽なほどだったが、彼女の連れ
以外、誰もその女が加害者だと気づかなかった。女の悲鳴が、まるで映画のワンシーンに驚い
て発せられているもののようだったからだ。完全なる部外者の奏でる旋律。祐司には意識があ
った。頭はもうろうとして、喧騒の中に言葉を探す気力もなく、ざわめきをざわめきのままに
耳にとらえている。視界はモノクロでしかも極端に狭く、その限られたスクリーンに映るのは
ホームの床のタイルだけだった。祐司はタイルを凝視している。駅の床を観察する機会など、
めったにない。そのとき初めて、それまで亀裂だと思っていたのが実は模様であることに気が
ついた。
祐司自身も、自らの存在のあいまいさを不快に感じていた。ここにいてはいけない。
なんとか体を動かそうとする。駄目だ。筋肉が動かないのではない。脳からの意志が、筋肉に
伝わらないのだ。袋小路を彷徨う意志の群れは、さながら頭の中を飛びまわる蝿のようだっ
た。祐司は、脳の中の血行を濁流に変え、蝿どもを洗い流し、純粋な意志のみを右腕に送りこ
もうと試みた。しかし蝿はすさまじいスピードで濁流から逃れ右腕に群がった。腕はぴくりと
も動かない。体の各部位に力を伝達できないと、自分の体に蓄積されているはずのエネルギー
の存在があやふやになり、やがて死を予感するようになる。祐司もまたここに至り、この頭の
傷が死に達しうる傷であることを自覚した。それは、あきらめとも覚悟とも違う、新鮮であり
なおかつ安定した自覚だった。その自覚の中で、祐司の体は堕ちていった。体の周りは、水で
満たされている。海だ。視線のはるか先に光が見え、水と結託して体を包む闇は、じわじわと
濃くなっていく。海溝だ、と祐司は思った。俺の体は、世界の底の底に向かって堕ちていくの
だ。やがて祐司には、自分が意識の中の闇にいるのか、それとも本当にものが見えなくなった
のか、区別がつかなくなった。いずれにしろ闇の中では、目を開いているか閉じているかが、
瞼の感触でしか判別できない。いずれ本当の闇に自分が包含されていく予感に抗うだけの力
が、祐司にはもう残されていなかった。ただ、目を閉じたときに見えるあの奇妙な視界、色の
ない血管や抽象化された物体の姿は、本当の闇が訪れたあとも見えるのだろうか、そんなこと
を考えることしかできなかった。
一人の男が、祐司に近づいていった。小太りで、眼鏡をかけた男だった。チェックのシャツ
の裾を、ジーンズの中に窮屈そうにしまっている。彼が持つショルダーバッグには、これまた
窮屈そうに沢山のものがしまい込まれていた。おそらくその中身は、彼だけが必要だと信じて
いて、他の人間にとってはどうでもいいものが大半なのであろう。男はそのバッグを大儀そう
に背中にまわしながら、祐司の下でしゃがみこみ、話しかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
慣れない人と電話で話すときのような、キーの高い声で男はそう言った。何だ? 何を言っ
てるんだ?漆黒の闇の中を堕ちていく俺の体は、傍目には大丈夫に見えるのか? この、声し
か聞いたことのない、顔も見たことがない男を、祐司は一瞬で憎んだ。そして、この男の顔を
見たいと強く思った。どうか、俺の嫌いな類の顔の男であってほしい。そう思うと、先刻まで
闇夜の烏のごとくの存在だったエネルギーの姿を朧げながら確認できた気がした。しかし、祐
司は、人間にとって怒りこそが最高のエネルギーの源であるとは潔く認められないタイプの人
間であった。祐司にとってこの「朧げな確認」はちょうど立体映像に近い。思わず手を伸ば
す、触れられない。 祐司の頭の中で、本当に自分のものなのか分からないポリシーと、実存
する怒りの爆発とが葛藤を始めた。こうなると、圧倒的にポリシーの方が分が悪い。何しろそ
れがポリシーと呼べるものなのかどうかも疑わしいのだ。何かの本で読んで、鵜呑みにしてい
るだけかもしれない。いや違う俺は怒りにまかせて暴れまわるような人間とは違う。努めて紡
ぎ上げたその思いに対して、怒りは祐司が何もせずとも勝手に増殖していった。この男の顔が
見たい。
結局、勝ったのは怒りの方だった。祐司は男の顔を見た。いや、脳裏が描いた想像を、視界
と勘違いしただけかも知れない。いずれにしろ大した問題ではない。祐司は確かに男の顔を
「見た」のだ。男の顔は完璧なまでに祐司の嫌いな類の顔だった。小太りで眼鏡をかけ
ていて、自分が無神経であることに無関心である、そんな顔だ。その目は、たとえどんなに惨
めになっても他人に同情することだけは止めないぞというその時点で惨めさ一杯の目で、これ
に見つめられることが、祐司の怒りに形而下の理由を与えてしまった。なぜ俺はこんな惨めな
男に同情の眼差しを受けているんだ? 祐司は自分自身に、怒りに打ち震えることを許可し
た。ポリシー? なんだそれ? 怒りに身を任せて何が悪い。だいいち怒りとはなんだ? ど
こがどうなればそれは「怒り」なんだ? 感情という言わば理性や論理とは対局にある概念
に、論理の申し子であるところの「名前」をつけているのが、そもそもおかしい。祐司が頭の
中でそんなことを考えているとはつゆ知らず、得意の無神経さで男はこんなことを言った。
「あの、なにかボクにできることがあったら、なんでもしますから」
これがとどめとなった。この場にいたくない気持ちがついに祐司の身体を動かした。首をあ
げ、男を睨みつつこう言う。
「例えば、何をだ?」
祐司は立ち上がった。ざわめく観衆。その人だかりの中をかきわけて、救急隊員が担架を持
って祐司のもとへと急いでいた。小太りはそれを見て、跳びはねながら、こっちです、こっち
ですと叫ぶ。やれやれ、と祐司は思った。この小太りは、祐司のことが恐ろしくてたまらなく
なっていたのだ。一刻も早く祐司から視線を外したい、そう思っていた。しかし、同情だけは
意地でもやめるわけにはいかない。救急隊員の登場はいわば小太りにとって、公然と祐司から
視線をそらせる恰好の口実だったわけだ。救急隊員に場所を知らせる。凄い役目だ、よかった
な、と祐司は思った。人は怒りの頂点に達している時、無性に苦笑の種を探してみたくなるこ
とがある。
祐司は今、自分の冷静な意志判断ではなく怒りの力によって立っており、頭の傷はまるでこ
こにもまた心臓があるかのように激痛の脈を打っている。そんな祐司が自分の身体に鞭うって
考えなければならないことがあった。いかにしてこの状況から逃れるかということだ。この場
にいるのも、担架、そして救急車で運ばれ病院に入れられるのもまっぴら御免だ。どこに行か
ねばという確固たる場所があるわけではない。祐司は場所ではなく、ある状況を求めていた。
それがどんなものなのかは分からない。死の危機にあっても、自分が何を求めているかすらは
っきりと掴めていないことに、祐司はさらなる苛立ちをおぼえていた。
列車がきた。担架を持った救急隊員はまだ人だかりの中ほどにいる。これしかない、と祐司
は思った。列車はゆっくりとスピードを落としていく。まだか、早くしろ。列車の停止と救急
隊員の到着はほぼ同時だった。構内アナウンスに負けない大きな声で隊員が叫ぶ。君、自分の
名前は言えるか。ホームに音楽が響き、ドアが閉まる合図が出される。その時だ。祐司は小太
りからショルダーバッグを奪い取り、救急隊員に向かって全力で振り回した。祐司の頭部が支
点反力を受け大きく揺さぶられる。脳がミキサーをかけられているような苦痛になんとか耐え
ながら、祐司は閉まり際のドアの中に飛び込んだ。こんな非常事態にもかかわらず、人だかり
のために駅員たちと車掌の連絡が上手くいかなかったせいで、列車は動きだしてしまった。血
まみれの祐司を見て車内の客たちは一瞬静まりかえる。窓から見た小太りと救急隊員は、突然
のことでまだ事態が飲み込めていないという顔をしていた。周りの人だかりは色とりどりの
木々に見えた。死ぬまでそこから動かないのではないか、そんな気がしたのだ。
列車に乗った祐司は、ドアの下に座りこんでいた。様々な声が聞こえる。血まみれよ、大丈
夫かしら。脳がミキサーにかけられ少し落ち着いたのか、そういった表面上の同情にも、先刻
のような怒りは沸き上がってこなかった。ただこう呟く。皆、酔い痴れたいがために、自らの
獣を偽っている。我ながらいい文句だな、と祐司は思った。
駅に着き、列車は止まった。祐司は転がりでるようにホームに下りる。ここは祐司のアパー
トの最寄りの隣の駅だった。祐司は事故のまえ、帰路につくところだったのだ。血はまだ止ま
らない。痛みは刻一刻とひどくなるし、視界も歪んでいる。祐司はそんな状態のまま、もとも
と怒りが生み出したエネルギーにつき動かされてここまできた。その動きは真っ直ぐに祐司の
アパートへと向かっている。何故だ?自分の家で人知れず死んでいくことを、俺は望んでいる
のだろうか。血が目に入る。一歩一歩あるくごとに足が受ける衝撃は、どこで緩められること
もなくそのまま脳を揺らした。それでも祐司は一駅分の距離を覚悟しつつ家路についている。
帰るという作業は奇妙なものだ。同じ移動でも、他のどこかに行くのと比べると明らかに違う
何かがある。こんな状態にあってもそんなことを感じられることに、祐司はある種の安堵をお
ぼえた。
その道の途中で、祐司はいろいろなものを見、その度に何かを思い出していた。祐司はこの
道をよく自転車で走り、時には歩いたこともあった。誰かと一緒だったこともあった。実家か
ら様子を見にきた母親が一駅乗り越し、迎えに行ったこともあった。血がにじんだ目に映る光
景は色合いが夕焼けに似ていて、それがよけいに感傷をさそった。込み入ったことまで思い出
そうとすると、そこに立ち止まってしまいたくなる。しかしそれは許されない。足はなかば自
動的に前に突き出される。一度、後方に流れた景色は、二度と祐司の目に映ることはないの
だ。
アパートに着く。鍵をまわす手が震える。ドアを開けて、靴を脱がずに家に入った。部
屋は冷えきっていて、それがかえって上気した身体に心地よかった。壁を叩き、その反動でベ
ッドに寝転がる。祐司はまず、冷たくなったシーツで顔の血を拭った。傷が布地に触れる。触
れた瞬間は激しい痛みが襲ったが、ずっとシーツに傷を押しつけていると、空気にさらされて
いる時よりましであることに気づいた。久しぶりに身体の動きをとめ、祐司の身体には一気に
疲労が発生した。もう怒りは命令を下さない。怒りにかわって祐司の身体を支配しているのは
感傷だった。ここに来るまでに、立ち止まってまで思い出そうとした様々な情景が、堰を切っ
たように脳に流れ込む。祐司は、引っ越しのときの荷物の仕分けのように、その思い出一つ一
つに見切りをつけていかなくてはならなかった。ベッドの上の天井というのは、人が一番頻繁
に眺めているものの一つだ。その天井を見ながら、人は本当に沢山のことを考える。そうして
天井は、ありとあらゆることが描かれた絵になっていく。そのキャンバスを一枚一枚、これは
もういらないと自分にいいきかせ続けていくのだ。引っ越しのときよく考えた。これはあっち
では使わないから…。今もそうだ。これはあっちでは使わないから…。 その中には、本当に
捨てるにしのびないものもあった。もう見ることはない、そう分かっていても、脳細胞に絡み
ついて離れない、そんな情景もあった。気がついたら段ボールの中に紛れ込んでいた、そんな
荷物が一つくらいあってもいい、そう思うことにした。多分むこうは広い、そう思った。 世
界中でここでだけ、自分の死が一大事となり得る、祐司はそう気づいた。死だけではない。自
分に関わるありとあらゆることが、ここでのみ大ごとなのだ。祐司は、むかし兄がふざけて自
分の部屋の小さな黒板に書いた文句を思い出していた。人間、最初と最後は一人だ。その間に友がいる…。
激痛に耐える祐司の顔に、微かな笑みがこぼれた。
かなり前に書いたものですが、このサイトを見つけて、何か出したいと思い、投稿させていただきました。普段はもう少しやわらかい表現をつかって書いているのですが、一度こういったごつごつした感じで書いてみたい、という欲求がふとわいて、それを具体化してみたものです。「感じ」が伝われば幸いです。
これからもこのサイトを楽しませていただく所存です。よろしくお願いいたします。




