36:一人と一匹はスガモの夜空に夢を見るか
夜になると雨は上がり、雲が散り、星が顔を覗かせる。
愁とタミコは旅館の屋根に上り、街並みを見下ろしている。
オレンジ色の街灯が濡れた外壁や地面を照らしてちらちらと瞬かせている。二階の屋根からでは街全体を見渡すには足りないが、連なる建物の窓から漏れる明かりがどこまでも続いている。愁の知る東京の夜景とはくらべものにならない光量だが、心なしか住人たちの息遣いを感じられる気がする。
「まちがピカピカりす……きれいりす……」
隣にちょこんと腰かけるタミコは感無量という表情だ。
「そういえばだいぶ前に言ってたよな。人間の街が光ってるとこを見たいって」
「そうりすね」
「よかったな、また一つ夢が叶った」
「おいしいものもたべたし、まちをさんぽしたし、ホシもタイヨウもみれたし……ちじょうはゆめのくにりす」
愁は屋根にごろんと背中を預ける。瓦でなくセメントっぽい板の屋根だ。ちょっと湿っていてひんやりしている。
「タミコはさ、これからどうしたい?」
「りす?」
「いや……いくつか夢も叶ったし、じゃあこれからどういう生活っていうか、どういう人生? 魔獣生? 送りたいとかって、なんか考えてたりする?」
うーむ、と腕を組んで首をひねるタミコ。
「いまじゃなくてもいいけど、ナカノのもりにいってみたいりす」
「行くなんだ。帰るじゃなくて」
「かえるって、かくれがとかおうちにもどることりすよね?」
「そりゃそうだけど」
「あたいのかえるばしょはここりす」
「スガモに住みたいってこと? 確かによさげな街だけどね」
タミコがてとてとと愁の腕を伝い、肩に乗る。ぺとっと尻をつける。
「ここりす」
愁が目を向けると、タミコは目を細めて笑う。
「……面倒に巻き込まれるかもだよ、俺といると」
「だったら、あたいがなんとかしてやるりす。アベシューはあたいがいなきゃダメりすからね」
「……心強いね」
「シャシャシャ!」
お世辞でもなんでもない。本心だ。
「じゃあ、これからも一緒にいてもらおっか。改めてよろしくね、マイマスター」
「よろしくりす、パダワン? アベシュー!」
いつだったか仕込んだ用語を憶えていたようだ。胞子とともにあらんことを。
五年前に交わされた二人の契約。
彼女を地上に連れていく。そのために愁の成長を導く。
少し違う形になって、改めてそれを更新する。
愁は照れ隠しに顔をごしごしこする。
この肩にかかるちっぽけな重みは、自分にとってなによりも心強くかけがえのないものだ。改めてそれを思い知る。
(これが始まりだったんだ)
(だから……こいつと一緒なら)
先ほどまで迷っていた意思が、一つの答えへとかたまっていく。
「――あ、いたいた」
屋根の縁からノアがひょこっと顔を出す。ぐいっとよじ登り、愁の隣に腰を下ろす。
「浴衣の女の子が屋根よじ登っちゃっていいんかね?」
「アベさんたちだって。そういうのって男女差別って最近巷で言われてるやつですよ」
「どの時代もそういう問題はあるんだね」
ノアが胸の谷間から煎餅を三枚とり出し、愁とタミコに渡す。ほんのり温かくて、愁としてはかじりつくかその前ににおいを嗅ぐか非常に迷うところだ。タミコはお構いなしにガリガリかじりまくってポロポロこぼしまくっている。
「これからのこと、考えてたんですか?」
「まあね」
〝糸繰士〟を隠して平穏に生きようとするなら、愁の前には二つの道がある。
一つ目。どの組織にも属さない自由民として生きる。
自由民とはいわゆる無戸籍の人間だ(そういう意味では現時点で愁は自由民だ)。戸籍は各トライブ領や都市ごとに紐づくものだが、それがないとどの街でも公共サービスの利用や銀行口座の作成などはできない(代わりに納税の必要はない)。
どこかの小さな集落でも見つければ、そこに居着いて暮らしていくことは可能だし、〝糸繰士〟が世間にバレる可能性は極めて低い。狩猟と農耕の日々、ある意味ちょっと憧れるスローライフだ。
二つ目。どこかの戸籍を取得して、〝人民〟として暮らす。
自由民が戸籍を取得することはそう難しくないという。領民や市民として居を構え、なにかの職を得る。この時代の知識や常識に明るくないのが懸念ではあるが、地道にがんばれば比較的安定した生活を送れるだろう(と思いたい)。〝糸繰士〟がバレる可能性は、一つ目よりは多少増すかもしれないが。
それらとは別に、〝糸繰士〟であることを明らかにして生きるという三つ目の道も、あるにはある。
先ほど言われたとおり、そこには非常に多くの困難や面倒がつきまとうだろう。場合によっては命さえ危ぶまれるかもしれない。
現存する三人の〝糸繰士〟。都庁政府都知事。メトロ教団教祖。そしてネリマトライブの族長。
トライブを頼るのは危険ということだが、なら都知事や教祖はどうだろうか。うまくとり入ることができれば、身の安全を保証してもらえるかもしれない。能力を示すことができれば、重要なポストを用意してもらうことさえ叶うかもしれない。
まさにハイリスク・ハイリターンな成り上がり冒険譚だ。
まあ、それが自身にとって望ましい道であるかどうかというのは別だが。
「うーん……一番現実的なのは二つ目かな。平穏無事に暮らすってことを一番の目的にするなら」
「そうですね……それが一番無難な判断だと思います」
「だよね」
いずれは会いたいと思っている。自分と同じ時代を生きた人たちに。そこは避けては通れないと思っている。
けれど、今すぐにというのはどうしても無謀な気がしている。もっとこの世界についての見聞を広め、味方を増やし、足元を固めてからでも遅くはないと思っている。彼らが【不滅】の半不老不死者であればなおさらだ。
ノアが隣に寝そべる。どんな時代でも女の子とはいいにおいがするものなのだなと愁はまた一つ賢くなる。
「ノアはさ、なんで狩人になったの?」
「へ?」
「だって、十八歳で狩人って。きついし危ないし、なんであえてその道を選んだんかなって」
この国でいう狩人とは、メトロの探索やメトロ獣の狩猟を生業とする職業人だ。とりわけフリーではなくギルドに所属する公認の者を一般的に差す場合が多い。
ギルドに入れば組合費や所属地への貢献活動などの義務も課されるが、成果物の売却などは市場にツテがなくても適正価格でやってもらえるし、ギルドに寄せられた民間業務依頼――クエストを受けられたりもする(獣害の解決とか、これこれを採集してきてほしいとか)。
ノアは言葉を選ぶように数秒口をつぐむ。
「……ひいじいの影響が一番だと思います。ひいじいも……元々は狩人だったので」
「そうなんだ。学者? 研究者? 的な人かと思ってた」
「ボクは幼い頃に両親を亡くして……狩人のひいじいに育てられました。八歳のときに初めてメトロに連れていってもらえて、それから狩人の知識や技術について教えてもらって。いつか自分がいなくなっても、一人でも立派に生きていけるようにって……」
目を細めたその横顔は、無数に灯る街の明かりの中に誰かをさがすかのようだ。
「八年前にひいじいが死んじゃって、ボクは一人で生きていかなきゃいけなくなって。狩人になったのはその五年後です。年齢制限が十五歳以上なので」
「大変じゃなかった?」
「大変でしたよ。一見華やかですけど、現場はきついくさい汚い危険の4Kなんて言われますし。デビューしたときはレベル16で、この業界じゃ全然ペーペーで、って今でもそうですけどね。一昨日みたく何度も死にかけたし、こんな子どもがって周りからいろんな目で見られたりもして」
「過酷だねえ」
ブラック企業の新卒とどちらが過酷だろうか。少なくとも一般的な会社なら命の危険まではないだろうが。
「でもボクは、この仕事が好きですよ。いろんなメトロを回って、いろんな町に行って、いろんなものを手に入れたりいろんなものを食べたり。ちゃんとやれば実入りも悪くないし。とりたてて才能もない平凡な〝細工士〟ですけど、アベさんみたいにもっともっと強くなって、もっともっと稼ぎたいです」
そう言ってノアは照れくさそうに笑う。
愁は煎餅をがしがし噛み砕き、咀嚼する。そしてキメ顔で言葉を発しようとして盛大にむせる。唾と煎餅のかけらがスノーダストのように夜空に散る。
「……俺も狩人になろうと思うんだ。できればこのスガモで」
改めてキメ顔で言う。なにごともなかったかのように。
無戸籍である自由民でも、狩人としてギルド支部への登録が叶えば、その都市の戸籍を得ることができる。スガモ市民として、プロの狩人になって活動する、それが愁の選んだ第四の道だ。
「いいんですか? もしかしたら、一番大変な道かもしれないですよ。そもそも菌職を隠したままギルドに登録できるかどうか」
「まあ、そうなんだけどね」
当然、他の仕事よりも危険度は高いだろうし、なにより〝糸繰士〟が明るみになるリスクも格段に高まるだろう。
それでも今の愁にとっては、自身の能力と経験を最大限に活かせる道だ。
「今の世の中じゃ、俺ってそれくらいしかとりえないし。社会人経験なんて営業一年かじった程度しかないし、今から畑仕事やら客商売やらって言ってもね。その点、この五年メトロ獣とやり合ってきた経験が活かせるなら、一番それがよさそうだし」
性格的に荒事が性に合っていると胸を張れる自信はないが、かと言って今さらカタギの仕事に戻れるかどうかというくらいには、愁の手はすでに血で汚れている。
そして同時に――獣を狩り、その恵みをいただき、自身を成長させていくスキームに喜びや楽しみを見出している自分がいることも事実なのだ。
「まあ……『勇者になってこの世界救ったる!』とか『へへ、てっぺんの景色ってのを見てみたくなってね』みたいな志がないのがアレだけど。だけど、もっと強くなったりして、メトロとかトライブとかあちこち見て回ったりして、そのうちなにか見えてくるものもあるのかなとも思うし」
自分の言葉に乗せられて、少しわくわくしてくる。大概だなと自嘲したくなる。
けれど本心でもある。冒険という言葉に魅せられない男の子などいるだろうか。
「あと、ナカノの森にも行かなきゃな」
「ひっふ」
タミコの頬袋は煎餅でぱんぱんになっている。
「万が一大変なことがあっても、タミコがなんとかしてくれるしね?」
「まかへるりふ!」
ぽふっと自分の胸を叩くタミコ。力加減を間違えたのか、煎餅のかけらがスプラッシュ。似た者コンビ。
ノアが苦笑する。ゆっくりうなずく、自分の中にあるものを確かめるように。
「……ボクも、アベさんとタミコさんの仲間に入れてもらえませんか?」
「え?」
彼女が正面に向き直る。ずいっと身を乗り出す。その角度は谷間が覗くから危険だ。
「ボクも、なんとかしますから。アベさんとタミコさんが困ったときには」
愁とタミコは顔を見合わせる。
「仲間って……一緒に狩人やるチーム的な?」
「はい、そうです。三人でチームを組んでくれませんか?」
「いいの? 俺もタミコもド素人だよ?」
「レベルはお二人のほうが全然高いじゃないですか。ボクも足を引っ張らないようにがんばるんで、お願いします!」
正直な話、ありがたい。
基本スペックは高くても、この世界のことは右も左もわからない田舎者とリス。そこに聡明で博識な先輩狩人がいてくれれば大変心強い。素直で優しいボクっ娘美少女ともなれば百二十点だ。
「俺的にはありがたいけど、タミコもそれでいい?」
「つまり、あたいのイモートブンりすね?」
「つまりの意味がわからんけど」
「はい、タミコ姐さん!」
「いいのかよ」
タミコはむふーと満足げ。ノアは目をキラキラさせている。
「よろしくお願いします……シュウさん」
シュウさん。
ちょっぴりトゥンク。こればっかりはトゥンク不可避。
たぶん今顔真っ赤。それを悟られないように、愁は街のほうに目を向ける。
目覚めたら百年後の世界で、わけもわからないままリスと二人で獣との戦いの日々を強いられて。
五年間に及んだ過酷なメトロ暮らしが終わって、いよいよ地上での新しい生活が始まる。
平成のサラリーマンから、
メトロのサバイバーとなり、
シン・トーキョーの狩人へ。
一人と一匹から、今度は二人と一匹になって。
(楽しみだけど)
(きっと大変なんだろうなあ)
この身に抱え込んだものは存外重いのかもしれない。この先どんな未来が待っているか、見当もつかない。
百年前から人知れずつながってきたこの糸は――この先、いったいどこへ続いていくのか。
「……まあ、なんとかなるか」
それでも、なんとかなる気がする。
二人と一匹なら、どこにでも行ける気がする。そう思うだけならタダだ。
「だって――世界はこんな広いんだもんな」
オオツカメトロから始まった長い冒険がいったん区切りとなり、スガモ編、ここで折返しとなります。
スガモの狩人をめざす愁とタミコに待ち受けるものとは。そして三人となった一行が次に向かう地は(次回予告感)




