闇仕合③
書籍版1巻、絶賛発売中です。
よろしくお願いいたしりす。
5/13:さすがにアレだったので序盤を書き直しました。
二人が激しく動くたびに床が揺れ、軋む。
汗が飛び散り、熱気が霧のように立ち込めていく。
「うぐっ!」
相手のたくましい腕に組み伏せられ、上からのしかかられる。それを振り払おうともがくコウイチの身体の上を、クレは荒波を乗りこなすように滑り回る。
絡み合う二人の体位はめまぐるしく変わっていき――気づけば鼻先が触れ合うほどの距離に、不敵に笑うクレの顔がある。
「さあ、おしまいだ……観念しな」
「ぐっ、ううっ……アッー!」
コウイチの断末魔のさけびとともに、花瓶に生けられた薔薇の花びらがはらりと落ちる。
やがて部屋の中は風船がはじけたように静まり返る。
床に這いつくばったまま呼吸を荒らげるコウイチを尻目に、クレはすくっと立ち上がる。岩のように盛り上がった筋肉質な上体に浮かぶ汗をタオルで拭う。
「はい、お疲れ様。休憩にしようか」
「う、うっす……」
コウイチはごろりと仰向けになる。クレからタオルと水筒を受けとるが、すぐには起き上がれそうにない。
ここはハマダ邸の敷地内にある離れだ。組員や食客などが寝床として使用しており、一階には板張りの稽古場がある。普段ならダゴあたりが暇を持て余して下っ端を可愛がっている頃合いだが、ここ数日はほとんどクレ(とその稽古の相手をするコウイチ)の貸し切りになっている。
「さっきの腕ひしぎ、肘だいじょぶだった?」
「へ、平気っす。折れる前にタップしたんで」
極まる寸前に高速タップする技術も板についたものだ。自慢できることでもないが。
「んじゃ、次の十本先取いこうか」
「お、おっす……」
先取というか、クレに十本とられるまでにコウイチがどれだけ粘れるかの勝負でしかない。ここでの稽古を始めて三日目になるが、未だに一本もとれていない、どころか――。
「しゃあっ!」
休憩を挟んだことで最初の数本はコウイチの動きもキレている。身体が軽い、視界がクリアだ。繰り出す拳や蹴りの鋭さを自覚する。
(なのに)
(くそっ!)
――それでもなお、クレには当たらない。攻撃の九割は捌かれ、残り一割はかたくガードされる。最初は稽古で顔面を狙うことに躊躇していたが、今では拳を振り抜くことに遠慮などなくなっている。
「はいはい、ステップ遅いよ」
コウイチの突進をいなしたクレが、軽やかなステップで距離をとる。こうしてダメ出しをされているとどちらのための稽古なのかわからなくなってくる。
「しっ!」
短く息を吐きながら追撃、踏み込みと同時に拳を伸ばす左の刻み突き。それも手を振っただけではじかれる。
ならばと鼻先がぶつかる距離まで密着しての連続ボディーブロー。これも肘を畳んできっちりガードされ、肩でどんと突き放される。
(なんで)
(一発も――)
前蹴り、回し蹴り、ショートフックと見せた肘打ち――闇仕合の先輩方から教わった対人技が、まるで子どもの遊びのように軽くあしらわれる。
菌糸武器(硬菌糸)の菌能を持たない〝闘士〟の場合、別の得物を用意することもあるが、大抵はコストパフォーマンスが合わない(コウイチのような初級狩人ならなおさらだ)。なので必然的に、自身の肉体を武器とする戦闘技術を磨くことになる。
コウイチは手足の打撃をバランスよく使うオーソドックスなタイプだ(俗に言う〝カラテスタイル〟というやつだ)。その技術は先輩からの教授や「ステゴロルール」の闇仕合の中で磨いてきた。まだまだ実力不足だという自覚はあるが、同年代・同レベル帯の狩人には負けないだけの場数は踏んできたという自負も同時にあった。
だが、今は――。
もう一度繰り出した左の刻み突き。その手首を掴まれた瞬間、
(ここだ)
コウイチは脇をぎゅっと締めるように腕をねじって引き寄せ、無理やり拘束を剥がす。
(からの)
体勢を崩して目を見開くクレの、その顔面めがけて追撃の右フック。
ドンピシャのタイミング、半円を描く拳がクレの眉間に吸い込まれ――空を切る。
「あっ」
一瞬のうちに懐に潜り込まれ、片足をとられ、床に叩きつけられ。
「あっあっ」
ぐるんと回されてうつ伏せにされ、両足の裏が後頭部につきそうなほど海老反りさせられる。
「アアッー……」
たまらず床板を高速タップ。どうにか腰椎を折られる前に放してもらえる。
けれど――こっそり抱えていたちっぽけな自信がベキッとへし折られるのも、これで何度目か。
「うん、まあ……普通か普通よりちょい上とか、そんくらいかな」
さりげなく自分の評価を尋ねてみたコウイチだが、返ってきたのは清々しいほどに遠慮のない答えだ。クレはそんなことよりという風に右手首をグーパーすることに没頭している。
「あの、なら……俺なんかでよかったんすか? クレさんの相手、ダゴのアニキとかのほうが……」
「いや、問題ないよ。あくまで身体のキレを戻す作業だから、君くらいの相手でもじゅうぶんさ」
「そっすか」
明け透けすぎる言われようだが、今は役目を果たせていることだけに満足しておくしかない。
「というわけで、スパーリングは今日でおしまい。本番に向けて、明日から近場のメトロに潜ってくる」
「え、あ、それはちょっと……」
ハマダからは「この街から出すな」とかたく言いつけられている。敵前逃亡やドタキャンの心配はないだろうが、クレになにかあれば組の存亡に関わる。
「本番に向けてっつーなら、ダゴのアニキたちのほうがよくないっすか? このへんのメトロはそんなにメトロ獣のレベル高くないし……」
クレは口元に手を当てて笑みを隠すような仕草をする。
「まあ……人間相手には試せない技もあるからね」
思わずぞっとして返事できない。逆に言えば、その技を次の仕合で使うつもりなのか――。
「さっきの話に戻るけどさ、君は決して筋は悪くない。このまま順調に経験を詰めば、それなりに優秀な狩人になれると思うよ」
「あ……あざっす」
自信がちょっぴり回復しないでもないが、よく考えればクレとは四・五歳程度しか違わないのだ。そしてレベルは約30の差――これがほんの一握りの天才との差というやつか、現実とはなんと厳しいものか。
「だからさ……まあほんとは君の事情に立ち入るつもりはなかったんだけど、ちょっと気になるよね。君みたいな前途有望な若者が、どうしてヤクザ者なんかとつるんでるのか。まだ若いんだし、自分の食い扶持くらいなら自分で稼げるでしょ?」
三日目にして初めてだ、彼のほうから踏み込んだ質問が飛んでくるのは。
どう答えたものかとコウイチは迷う。体力回復のためにもう少し話を長引かせたほうがいいかもしれない。
「えっと……金が要るんす。俺の育った施設を維持すんのに」
「へえ」
クレの表情を見るに、手持ち無沙汰の世間話程度の質問だったわけではなさそうだ。
そうしてコウイチは、堰を切ったように話しはじめる。自分の育ったよしもと園について、親代わりの園長先生について、そこで暮らす弟や妹たちについて。それらをとり巻く事情について。
「園の運営にも、親分とかお偉いさんが関わってるんで。今度の仕合で負けて組がなくなったら……園がどうなるかわかんねえし……だから、園長先生やあそこのガキどものためにも、負けるわけにはいかねえっていうか……」
「……なるほどね、そういうことか。面白い」
そんな愉快な話でもないのに、というコウイチのむっとした表情を察して、クレは「ごめんごめん」と慌てて首を振る。
「そういう意味じゃなくて。ヤクザ者同士のゴタゴタなんてどうでもよかったんだけど、興味深いことが二つほど見つかったもんでね」
「二つ?」
「今回の件ってさ、要は『どっちがどっちの下につくかはっきりさせようぜ』って話だよね。闇仕合で白黒って発想はともかく、なんでこの時期だったんだろうってのはちょっと疑問だったんだよね。てっきりこないだの生誕祭が中止になったことが影響してんのかなって思ってたけど」
先日のスガモ生誕祭は、前夜祭の御前試合での「テロリストの侵入」の一件を受けて、それ以降の日程はすべて中止になった。
近隣都市には速やかな連絡が行ったらしいが、それでも事情を知らない大勢の来訪者が押し寄せるのを止めることはできず、また街の人々もこの日のために準備してきたものをみすみす捨てるわけにもいかず、結局初日だけは「市民たちの自主的なお祭り騒ぎ」という形で盛り上がることになった。
あとの日程は市民を中心にしたどんちゃん騒ぎで消費された。大半の店々は当初見込んでいた売上の半分にも満たなかったらしいが(今は市議会と各組合が「補償」や「賠償」について協議中だという)、それもハマダ組のような裏街の住民たちにとっては羨ましい話なのだ。
元々、今回の祭りはかなり厳重な警備が行なわれていた。荷物検査や身分証明の提示、自由民であれば住所の申告や入市税の増額など、入市には徹底した検査が行なわれたが、それでも結果的にテロリストや市長邸を襲った賊の侵入を防げなかった。
そのため、前夜祭以後は検問がさらに強化され、自由民も犯罪歴を示す刻印を持つ者もすべて入市を禁止されることになった。裏街の店々やハマダたちの企画していた催しなどは完全に閑古鳥が鳴く形になってしまった。ハマダは期待していたアガリの三割も確保できなかったとぼやいていたし、〝奇米裸〟もおそらく似たようなものだろう。
「おおかた資金繰りに困って縄張りの食い合い仕掛けてきたーみたいな展開を想像してたんだけど、それだと君んとこの親分がそれに応じる理由がないよね。そこまで困ってる感じでもなかったし、元から狙ってたぜって話なら別だけど」
「そういうのは……聞いたことなかったっすね」
ハマダはカタギにも平気で手を出す〝奇米裸〟の連中を「任侠道の風上にも置けねえハイエナ野郎ども」と嫌悪していた。そんな彼らを傘下に入れようという心積もりがあるとは到底思えないが、事を荒立てることなく彼らを抑え込んで裏街に古きよき秩序をとり戻そうという魂胆ならハマダらしいとも言える。
「特に根拠もなにもないんだけど、君のいう『お偉いさん』とやらが一枚噛んでるっぽい気がするよね。まあ、僕には関係ないことだけど」
そのあたりの経緯についてはコウイチも聞かされていない。仮にこの一件にオオサキの指示や関与があるとしたら――どういうことなのだろう。コウイチには見当もつかない。ハマダに尋ねてみたい気もするが、それを知ってもやるべきことは変わらないだろう。
「あ、えっと……もう一つは?」
「ん? ……ああ、君のことさ」
「え、あ、俺?」
「実はさ……最初に会ったときからなんとなく思ってたんだ。君はどことなく、僕のよく知る人に似てるって」
まったく予期していなかった話の流れに戸惑うコウイチ。
「その感じは一緒にスパーしていくにつれて濃くなっていって、さっきの話で確信に変わった。君は――ほんの少しだけだけど、似てるんだ。僕が今この世で最も愛する人に」
「それはー……」
あの人だよな、と当たりはついても口に出すのはなんだか躊躇われる。
「うん、そう。シュウくんだよ」
「そっすよね」
真顔で言葉にされるとガツンとくるものがある。
「彼もね――生まれ持ったセンスという面では、周囲の評価ほど恵まれているようには僕には見えないんだ」
「マジすか? あんなつええのに……」
「まあ、ある程度非凡であることは疑ってないけどね。それでも……ハクオウ・マリアやカン・ヨシツネのような頂点の舞台に立つ天才たちと肩を並べるほどのセンスを持ち合わせているかと言われると、ね」
意外にもシビアな評価だが、クレがこういうことに関しては世辞も誹謗も言わないことはコウイチも理解している。アベ・シュウに対しても例外ではないということか。
「じゃあ……アベニキが鬼つええのは、菌職とか菌能に恵まれたからってことっすか?」
「それは否定できないし、一方でそれもまた才能の一つとも言える。ただ……本質はそこじゃない」
「本質?」
クレは縁側のほうに向かい、ガラス帯の入った障子戸を開く。稽古中は騒音が漏れないように締め切っていたので(近所に住む夜のお仕事の人々からのクレーム対策だ)、入ってくる風が多少ぬるくても涼しく感じられる。
「彼は自分の弱さや凡庸さを知っている。だからこそ必死に考え続ける、試行錯誤し続ける、どうすれば勝てるか、どうすれば生き抜けるか。どんなに苦しい状況でも、絶望したくなるほど強大な敵が相手でも。何度怯んで折れて膝をついても、再び立ち上がってあがき続けられる。そしてそこには、自分と、自分の大切な誰かのためにという覚悟と願いがある。それが彼の強さの本質なんだと僕は思う」
振り返るクレの横顔は、差し込む西日のせいか、それまでにない類の表情に見える。
「たった三日だけど、君にも稽古の中でほんの少しそういう輝きを見た気がした。何度極められて何度ギブアップしても、それで何度自信を砕かれても、また立ち上がって向かってこられる。力量差を知っていてなお、それでも一矢報いようと考え続け、工夫し続ける。さっきもここぞで僕の弱点をついてきたね、ほんとはもっと前から気づいてただろうに」
「まあ……はい」
「君も大切なもののために強くなろうとしている一人なんだと知って、腑に落ちたよ。それは僕の中にはなかった輝きだから……このままそうあり続けられるなら、君はきっと強くなれる、もっといい男になれる。僕が保証するよ」
「あ、あざっす……」
最上級の褒め言葉なのだろうが――尻のあたりがむずむずするのは自意識過剰だろうか。
「……ああ、勘違いしないでもらいたいな。別にそういう意味で言ったんじゃない、よく誤解されるんだけどね」
「は、はあ」
「自分でも最近気づいたんだけどね、自分の中にはないそういう類の資質を持つ人に、僕は無意識に惹かれてしまうみたいなんだ。性別も種族も関係なくね」
種族というのが気になるが、とにかくなんでもアリのようだ。
「……あるいはそこに、僕の一番大切だった人の面影を――……いや、それはいいか。忘れてくれ」
もう一度、先ほどと同じ表情が垣間見える。羨むような、あるいは儚むような――。
「けれど、そういった憧憬や羨望と、愛とはまた別なんだ。僕には心に決めた人がいる。今の僕には彼のしr――背中しか目に映らない」
「尻って言おうとしたっすよね今」
「君も本当の愛を知ればわかるさ。たった一人でいい……推尻の存在が人を強くするんだ」
「そこは言い直さないんすね」
その翌日。
ハマダの制止を振り切るようにして、クレはメトロへと出かけてしまう。しかたなくコウイチも同伴することになる。
スガモの西門を出てしばらく歩いた先にある小規模なメトロ、通称スガモ西メトロ。そこで二人は三日をすごすことになるが――。
クレの言っていた、「人間には試せない技」。
その実験台となった緑ゴブリンの悲惨な末路を目の当たりにして、コウイチはチビる。
これをくらったのが自分やダゴでなくてよかったと心底思うと同時に――これまで封印していたその技を解禁せざるを得ないという「クレもよく知る」その相手の強さに、同じくらい不安もよぎる。
〝トーキョー地下格闘倶楽部〟スガモリングは北門を出た工業区のはずれ、古びて廃屋になった工場の地下にある。
武道館とはくらべものにならないほど粗末な舞台だ。石造りの床や壁はじめじめしていて空気はカビくさく、二百人も入れば寿司詰めになるほどの狭い会場。中央にあるのは錆だらけの金網に囲まれた八角形のリング。
会場には筋者から資産家、政治家まで幅広い人種が近隣都市から集まっている。素性を知られたくない者は大抵仮面や覆面をつけている、まるで仮装パーティーのようなノリだ。
「あの人たち、趣味の悪いマスクつけてるねえ」
「はあ? はあ」
大会のときと同じくゴブリンマスクをかぶったクレが、「頼んだぞ!」というハマダの檄とビンタを背中に受けて、リングに向かう。金網を乗り越え、中央に立つと、観客から歓声が沸き起こる。
***
床はコンクリート、その上にかための砂が敷き詰められている。武道館の土俵と似た感触だ。
リングに入ったクレ・イズホは、その広さや金網に背を預けたときの感触、照明の角度などを確認しつつ、相手がやってくるのを待つ。
やがてピエロマスクをかぶったレフェリー――格闘倶楽部の構成員であるプロの審判だ――が手を広げて指し示す。ちょうどその男が金網から降りてくるところだ。
「――待たせたな」
再び歓声が会場に充満する、その中でクレは冷静に観察する。
クレと同じく上半身は裸、下には派手な色合いのトランクス。両手両足に白のバンテージを巻いている。
記憶のとおりなら、現在四十六歳。傷痕だらけの褐色の肌には年齢以上にハリがあるように見える、髪の毛も黒く若々しいままだ。
身長は百七十八センチほど。上背の差は二・三センチ程度だが、リーチの差は明らかにそれ以上だ。まるで虫のように四肢がひょろりと長い。
逆に筋肉は全体的に薄めだ、クレのほうが七・八キロ重いだろう。もっともウェートの差はここではそれほど有利にはならないだろうが。
昔と体型が違うように見えるのは記憶違いではないだろう。おそらく今のこの体型こそが、彼の戦闘スタイルをそのまま表しているのだ。
事前の公開情報ではレベル63。通常菌職としてはほぼ限界値だ。つまり全〝闘士〟の中でトップクラスに位置しているのは間違いない。
「久しぶりだな、イズホ」
傷痕はその顔にも無数に刻み込まれている。にやりとすると目尻から走るその筋が涙のようにも見える。
「けったいなもんかぶってやがって。変わりもんなのは相変わらずか?」
「お久しぶりです――叔父さん」
今はカザマ・トミーと名乗っているが、本名はクレ・トミー。
クレ・イズホの父ヒジキの義弟、クレ式格闘術の二代目当主になるはずだった男だ。
次回、たぶん完結。
5/13:完結できる自信がなくなってきた。




