新世界の歌 13話 オルゴール
『だんなさま』
はい、俺の奥さん。なんでしょうか?
『できましたっ』
こ、これは……
『ピピちゃんですっ♪』
クレヨンで描いたウサギの絵って、俺の似顔絵か。でも体色白じゃなくてピンクなんだね。かわいいねえ。
『レティは、ピンク色が好きなの』
だよねえ。俺につくってくれたリボンもピンクだもんね。首輪もピンクだもんね。その絵のウサギが持ってるのって、もしかしてニンジン?
『うん。ニンジンをすんごい握力で握りつぶしてね、ニンジン嫌いの子供にね、ぶしゃーってニンジンジュースをかけるの』
なんかどこかで聞いたことある設定だなぁ。
『それでね、ニンジン食べようね♪ っていって、ぎゅむうってね、抱きしめてくれるの。レティもだんなさまにぎゅうってしてもらったら、ニンジン食べられるようになったでしょ? あれ、すごいおまじないよ』
そうだったね。俺のもふもふんパワーで、奥さんの好き嫌い直ったもんね。
それに秘蔵アイテムのおかげで、乱暴にはたいてきたりとか俺の耳をひっぱるのとか、そういうのも全部直ったもんね。ほんと、はーれくいんな少女マンガってすごいよね!
何冊も読んだら、好きな人のためにかわいくきれいになって、でもやる時にはしっかり馬力出せる素敵なお姫様になりたいって自然に思っちゃうもんなぁ。ちょっとドジっ子成分も加味されるのが実にいい。女の子向けのあのマンガ、統一王国時代の記録箱からほっくりかえして見つけたんだよ。「淑女の教本」カテゴリに入ってたけど、貴族の令嬢ってみんなこれを手本にしてたのかな。
『あらこんな時間。だんなさま、今日のおやつは何がいい? レティが作ってあげる』
ああああもう! かわいいなぁ。女の子がパティシエになるマンガをちろっと読んだだけでこの効果だよ。目尻下がっちゃうよ。
俺の渾身の未来の奥さん改造計画、しごく順調!
『ニンジンパイ? それともニンジンゼリー?』
どっちにしようかな。迷っちゃうな。うーんとねえ……。
『ピピ様』
ひ。ソートくん? なによ。何の用なのよ。
『ウサギのお姿で幼女とのおままごとのまっ最中に悪いんですけど』
すっげーわるいわ。今最高に盛り上がってたのに。
エアおやつだってうまいんだぞ。気持ちがこもってるんだぞ。はいどうぞっていわれてありがとうむしゃむしゃおいしいーって返す、あのクライマックスの幸福感は何にも代えがたいんだぞ。それ済むまで待っといてくれたらいいのに。あ。わざと水差したなこいつ。目がそうですってうなずいてるわ。ちょっと、奥さんの前に出て羊皮紙突き出さないでよ。かわいい顔が全然見えないじゃないか。ほんとソートくんて、意地悪だよな。
『この振動箱の装置……すなわち次元複製システムですけど。これだと複製された次元は針の穴ぐらいの大きさにしかなりませんよ?』
え? 俺の試算だと直系一パッススにはなるはずだよ?
『大陸中の小動物に歌わせても、折り返しの周波数受信機能が貧弱では、新しい空間は生まれません。もっと吸収力のあるものを使用しないと』
うーん。電波吸収体に問題ありってこと?
『そうです。つまり馬力を出さないといけません。磁性材料で吸収体を作った方がいいですよ』
でもそれだとすごく重くなっちゃうよ。俺に持てるかな?
『お望みの範囲の次元複製を成し遂げるには、吸収体は最低3キンタルぐらいになりますかね』
俺、そんなに持てないな。ちっちゃくてふわふわのかよわいウサギだから。
『どこがか弱いのかよくわかりませんが、ダンベルで筋肉を鍛えることをお勧めします』
持てってことかよ。ソートくん軽量化してくれ。君ならできる!
『そんなに都合よく新素材の金属なんて見つかるはずないでしょう。はい、ダンベル』
鬼!
『それにしても中に入れている歌はすばらしいですね』
そうだろ。俺が編んだんだ。それこそ韻律をああでもないこうでもないって何度も組み換えて試して――
『声がすばらしいです。歌詞も。このお声はもしかして……』
あ、そっちね。うん……そうだね。俺もすばらしいって思う。竜王が恋したっていう歌姫よりもいい声じゃないかなぁ。
でも……そうだよな。後ろ足だけでなく前足も鍛えるべきか。
うん、俺がやりたいことはいっぱいある。特にこの手足をじかに使ってやりたいと思っていることはかなり特殊だ。両足だけでなく、両手でもやってやりたい。そのためには、日頃から鍛えておいた方がいいよね。
やっぱり、痛いって感じてもらわないと……涙が出るぐらいにさ。
少しでも、感じてもらいたい。みんなの痛みを、ほんの少しでいいから知ってほしい。
それが。あいつに対する俺の望みだから――
――「後ろ足キィーックッ!!」
唸る轟音。回転するわが後ろ足。
入った! 入ったよな? きりもみ三十六回転、優雅にブラックスワンして威力を上げて、敵の胸にめりこんだよな?
――「前足パーンチ!!」
唸る轟音。回転するわが前足。
入った! 入ったよな? 3キンタルの振動箱をここまで運んだ威力を見よ! 気合ためて優雅にぶるんぶるんふり回して打ち込んで、敵の背中にめりこんだよな?
『効カヌゾ!』
うう、だめか。なんなんだこの肌が黒い魔天使アイテリオン。硬すぎる。
まぶしすぎてほとんど視界が白一色につぶれている。大精霊が暴れているのだ。この日輪の力がずいぶんと障害になっていて、近づく隙がなかなかできない。振動箱から生じた世界はまだまだ広がり続けている。もうこの広間を埋めつくさんばかりだ。
「ウェシ・プトリ、お師匠様を背負って外へ逃げろ!」
叫んだけれど間に合わなかった。魔天使が風を出して鉄兜娘と我が師をわざと引き寄せる。
『マサカ私ガ何ノ警戒モシテイナイト?』
おまえのことは前々から気づいていた。我を封じようとすることも察していた。よくも時間停止機能で護衛長たちを止めたものだ、と肌の黒い天使が喋る。
『シカシワタシニハキカヌ。時間停止ヲ妨ゲルモノ。ソレガ、コノ日輪ノイスタールダ』
イスタールの防御壁は時間流の影響を受けない裏次元にまで達している。そこから触手を伸ばして、この次元の結界外に侵入。流れる時間流を取り込んでこの次元の結界内に注入する――らしい。
それで予想より凍結解除が早かったわけか。つまりアイテリオンは俺に攻撃されることを想定して、事前に大精霊を顕現させていた、ということだ。
もう一度義眼を突き出して時間停止波動を照射するも。
「うそ! ほとんど停止しないなんてっ」
イスタールの代謝が急速に高められたせいで、凍結するそばから固まった時間の流れが溶かされていく。まずいことに時間流停止攻撃を封じられてしまった。
忌々しい大精霊め。こいつをとりのぞくには同程度の大精霊を召喚して相殺するか、この太陽系の太陽を吹き飛ばすかしなければならないが、そんなことは不可能だ。
悲鳴が俺の口からほとばしる。腹に天使の拳が深くめり込んできた衝撃で、赤い義眼が両手からすっ飛んだ。
俺の体がふっとんでいる……白いふわふわの毛が周りに飛び散っている。銀色の血も大量に。
俺も。ピンクのウサギ頭の我が師も鉄兜娘も。魔人の棺ふたつもすっかり、振動箱が生み出す新次元に飲み込まれた。
広がりゆく世界の質量は重い。大広間の床を弾力ある膜のように長く垂れ伸ばしてずぶずぶ下へ沈んで行く。地の底へ落ちながら、ゆっくり膨張して深さを増していく。振動箱は世界の外に押し出され、大広間の床があったところに浮いている。
宙に飛ばされた赤い義眼が翼ある魔天使アイテリオンの手中に収まる。奴がにやりとしたとたん。赤い義眼がその左右の手に包み込まれ、ぱきりと――
「ちくしょう割られた!万事休すか?!
奴の翼がはばたく。魔人が封じられた二つの棺に降り立ち、蓋をあけて二人の魔人を抱え出し、華麗に上昇する。振動箱を一直線にめざしているということは、次元開闢のからくりに気づかれたか。あれを壊されたら、俺たちは新次元に閉じ込められてしまう……!
「ウェシ・プトリ! 逃げろ!」
おじいちゃん?! と目を見張る鉄兜娘を、俺は後ろ足で思いっきり蹴り上げて新次元の外へなんとか出した。ウサギ頭の我が師は……いちばん垂れ下がって深いところにすべり落ちてる。早く助け上げないと。
魔天使が振動箱に手を伸ばしかけている。
まずい。まずい。まにあわな――
『だからどうして、俺様を呼ばないのよ?』
その時まっ白な羽毛とまばゆい光が、頭上からさあっと挿しこんできた。
『ひとりでケリつけようとか、なにカッコつけてるんだ? このバカウサギ』
兄弟子様!! いや、この光と飛び散る羽毛は……六翼の女王ルーセルフラウレン!
変身術で顕現してくれたのか。全身まっ白な六翼の半鳥人が、黒肌の天使を振動箱から吹き飛ばす。美しい神獣は鉄兜娘の腕を取り、しっかと抱きかかえてくれた。
『大精霊の照射がきついわっ。アタシのお肌焼けちゃうじゃない』
ああもう……こんな状況なのに、あんまり喋らないでくれと願っちゃう俺。でも姿かたちは絶世の美女なのに精神はむさいおっさんって、やっぱりかなりきついものがあったりする。
ホッとしたのも束の間、魔天使が救い出した二人の魔人が目を覚ました。しかも。
『ちっ! 加勢がきやがったか』
六翼の女王が舌打ちして翼をすべて固めて防御体制をとった。とたんに真横から魔力弾のようなものを受け、宙空にとどめられる。
「リオン! わが君! 変な波動を感じたから様子見に来たよ! なんなのこれっ」
ひっ。頭上から聞こえるあの甘ったるい声は、聞くもおぞましいアイテ家の魔人ニオスの声じゃないか。俺がかつてポチ一号で四肢を吹き飛ばしちゃった人だ。
さすがのアイテリオンとて、たったひとりでこの島に来ているはずがない。天幕は見当たらなかったから、お付きの者たちは白胡蝶の空間を作って、地中か上空にいたのだろう。取引場所のここからだいぶ離れた所にいたはずだけど、さすがに異変を感じ取られたか。
「中立地点で戦闘行為?! なんて奴らだ。わが君、今助けるからね!」
すみません、仕掛けたのはこの俺です、ごめんなさい。でもニオスにこんなまともなこと言われるなんて、なんだか心中とっても複雑。
ちらちらと赤い粉のようなものが頭上から降り注いでいる。砕かれた赤い義眼の破片だ。
新しい次元に落ちて行く光。その中に虹色の玉がひとつ。我が師の魂だ……!
玉が新次元の奥底にいる我が師のもとへひょろひょろ飛んでいく。
思わずホッと安堵の息が出る。魂は元の場所に戻ってくれそうだ。だがウサギ頭の肉体は、次元の広がりと共にどんどん深みに落ちている。兄弟子様がふんばってくれているうちに、追いつかなければ。
「おじいちゃん! ポチを起動させるからね!!」
六翼の女王に抱かれている鉄兜娘が叫ぶと同時に、兄弟子様が神風を呼ぶ翼を開いて反撃する。放射状にうち放たれるいくつもの光の波紋。その光輪の波状攻撃に、ニオスも魔人たちも、そして魔天使もその場に釘づけになる。
――「あ。におにお!」
と、そのとき。ふぬけた声が頭上から鳴り響いた……。
「なにしてるのぉにおにお? うわあ、きれいな鳥さん!」
「う。こっちくんな!」
ヴィオだ。六翼の女王の攻撃に耐えているニオスがたじろいでいる。どうやらヴィオのことは苦手らしい。
「あ、おとうさまあ。うさぎさんいっぱいつれてきたんだよ。ねえ、ヴィオのうさぎさん、見てえ」
やっぱりヴィオはただ者じゃない。みんながただならぬ状況にあるこの場で、魔天使化しているアイテリオンにころころ笑って無邪気に話しかけるとは……。
『ヴィオ。ソコニアル箱ヲ壊シナサイ』
「えーっ。どうしようかなぁ。ちょっとピピちゃんと相談するねえ。ピピちゃーん、どこぉ?」
「ここだ! 下にいる! ヴィオ、たのむ! その振動箱には触るな! とても危険だ!」
「わかったぁ。ひ? ひぎいいいっ!」
ヴィオ?!
『言ウコトヲキケ!』
「ひいいいっ。ふああああん!」
ちくしょうアイテリオン! ヴィオに何した? 激しく泣き出したじゃないか。
『こらそこの魔天使! 自分の子に手を上げるな!』
あ。かわりに兄弟子様が叱ってくれたぞ。
『常々思ってたがおまえはひどすぎるぞ! 天にかわってこの俺様がお仕置きしてやるわ! 覚悟しやがれ!』
いやだから、その麗しいお姿でそのおっさんくさいセリフは……
『黙レ! 機械有機体風情ガ!』
「ヴィオ、こっちきて!」
六翼の女王に抱かれているウェシ・プトリが手を伸ばして、ヴィオの腕をつかみあげる。兄弟子様が再び波状攻撃を繰り出し、敵たちの動きを止めてくれている間に――。
『プトリサマ・ピピサマ・オヨビデスカ』
キシャア、という雄たけびを上げ、鉄兜娘が呼んだポチ2号が乱入してきた。
『竜王メルドルーク!!』
さしもの魔天使もさすがに驚いたようだ。さもあらん。伝説のそれとそっくりにしたんだもん。しかも性能だって本物にひけをとらないぐらいすごいんだから。
いけ、ポチ! やってしまえ!
「ハヤト! ハヤト!!」
俺は必死に後ろ足を蹴って広がる次元の先に落ちゆく我が師を追いかけた。
「ハヤトぉおおおっ!!!!」
我が師の魂はその体に戻ったはず。もう目を覚ましてくれていいはずなのに反応がない。その精神はまだ、おかしいままなんだろうかと不安になる。まだぺぺのままだったらどうしよう……
『うぐうううう!』
はるか上から、建物の破片と六翼の女王の白い羽毛が落ちてくる。ギシャギシャとポチ二号がきしんだ音をあげている。魔人たちと魔天使アイテリオンの魔力に押されているようだ。
ポチ二号は真空波を放って韻律波動を封じ込められるはずだが、あの忌々しい日輪の大精霊がそれを邪魔しているのだろう。見上げれば、神殿のごとき建造物の屋根がすっかり崩されていて――。
「ぐあ!!!!!」
あ……やばい。流れ弾がこっちに……なにこれ、魔天使の羽が剣のようにいくつも飛んできたぞ。か、体に大穴があいちゃったよ。
こ、これまずい。ちょっと動けなくなっちゃう。意識が保てない。
落ちる……!
ハ……ハヤト!
たのむから目を覚まして!
ハヤト! ハヤト!
ハ……ヤ……
『ピピさんおつかれさま。進渉はどうです? 韻律は編みあがりましたか?』
『コーヒーありがとうございます、アイダさん。ええ、ほとんどできたんですけど、すごく不安です。これで理論上は次元を剥離して複製できると思うんですけど……』
『やってみないとわからないですよねえ。しかしなんて美しいメロディーなんでしょう』
手回しの取っ手がついたオルゴールから音楽が流れている。俺が手ずからまわしているこれは、振動箱の雛形だ。
『動物たちに歌わせるので、音程だけです。歌詞は好きなものでいいんです』
『歌いだしの音で締めて無限ループですか。でも最後は……こちらの音の方がよいのでは?』
アイダさんが澄んだ声でほんのり高い音を口ずさむ。
『あ、そっちと悩んだんですよ。やっぱりそっちの方がいいかな。複製速度が速くなりすぎるかなって思ったんだけど。それにしても韻律、よく知ってますねえ』
『メニスの里でみっちり教えられましたからね。どんなに歌っても、何も起こりませんでしたけど』
魔力無し……でもアイダさんの声はとてもきれいだよ?
次元複製の歌の基本部分が編みあがったのは、7103年。アイダさんが島を去るほんの少し前だった。俺が編んだその歌がとても気に入ったようで、アイダさんはしょっちゅう口ずさんでた。勝手に好きな歌詞をつけて。
ひと目見ればそれと分かりぬ
その子がそうだと魂が気づく
心をば焦がす恋の炎
その身をば焦がす聖なる炎
灰と成り果てしその身こそ、
肺を潰した死に子の寝床
とこしえの波が両の腕
とわに揺れる水の揺り籠
泣いて沈みし眠りの子
名を失いし炎の子
『最近その歌詞でよく歌ってますね。なんか恋愛系の歌っぽい……』
『ロマンチックな悲恋歌にしてみました。きれいな歌詞で歌ってみたいと思ったものですから。恋人が死んだのを悲しんで、後追いする感じですねえ』
『水の揺りかごとか、沈みしとかって、後追いする人は水の中に身投げするんですか?』
『そうしてくださるほど悲しんでくださったらうれしい……なんて一瞬思いました。私の願望というか妄想ですよ。乙女心というものです』
『乙女……なるほど。それで優美な雰囲気なんですね』
『きっと叶いませんけどね。でも、私は探します』
『え? 何を探すんですか?』
『私、死んでも忘れません。たぶん、ひと目みたらわかると思いますよ』
『???』
『さて、ご飯にいたしましょうか』
『あ。えっと、その歌詞でいいのでもう一度、歌ってくれませんか?』
『あら、お気に召しました?』
うん。だってアイダさんの声は、ほんとにきれいなんだよ……だから……
『記録します。アイダさんの声を、振動箱に入れたいんです』
『……魔力がないのに?』
魔力は俺が込めるよ。歌ってくれる動物たちが、その力を増幅して高めてくれる。
『そうですか……これで私も、あの人を倒す戦いに参加できますね』
いや、そんな泣くほど嬉しがらなくとも。
『ありがとう、ピピさん』
「ひと目みれば……それとわかる……」
あ……
「その子がそうだと……魂が気づく……」
アイダさんの、声だ。
「心をば焦がす恋の炎……その身をば焦がす聖なる炎……」
こんな近くで聞こえるなんて。振動箱、まさか新次元に落とされたのか?
いや……
これは、肉声、だ。
「灰と成り果てしその身こそ……肺を潰した死に子の寝床……」
歌……ってる? 俺が作った歌を、アイダさんの歌詞でだれかが歌ってる?!
だれ、だ?! この歌詞は、俺とアイダさんしか知らないんだぞ? 振動箱は今回初めて起動させたんだ。箱のごくごく近くでしか歌詞は聞こえないはず。
あ……
俺、抱っこされてる。ピンクの、ウサギの頭の奴に。目覚めて俺を助けてくれたのか? で、でもっ。この歌、我が師が、歌ってるのか?!
「とこしえの波が両の腕……とわに揺れる水の揺り籠……」
ち、ちょっとやめてよ……冗談きついよ! つまり、俺のお師匠様は。お師匠様はやっぱり……?
歌い続ける我が師の体がすうと色あせて、新次元の奥底の闇に溶けた。それからすぐに、俺を抱っこしている腕が再び目に見えてくる。聞いたことのある韻律――俺がウサギになるために再三唱えてきた韻律がウサギ頭の奥でつぶやかれると同時に、我が師の体がほんのり光を帯びてくる。
前よりも白い肌。前よりも細い足。
スネ毛が……消えた。ウサギ頭からはみ出している黒い髪は、まっ白に変わっていく。
「うそ……でしょ……?」
うろたえて、ウサギ頭の人を見上げれば。
ふしばったおっさんの手ではなく、細い白魚のような手が動いて、ピンクのウサギ頭を取った。
着ぐるみの下からあらわれたのは……あらわれたのは……
「やだ……やだ……うそ……」
「ピピちゃん……会いたかった」
その人は美しい紫の瞳で俺に微笑みかけてぎゅうと抱きしめるなり。その人では決して使えないはずの韻律を唱え、あっという間に宙に舞い上がって――
「顕現が遅れてすみません」
長い銀の髪をなびかせながら、優雅に降り立った。
俺たちの世界と、新しい次元とのちょうど狭間に。
「振動箱の歌を聞いたら私が顕現するようわが魂に細工をしていたのですが、今生のハヤトが少々ややこしいことになっていて」
「あの……あの……」
「われわれの魂の中でだだをこねるものですから、手間取りました。平手一発かまして脅して、無理やり変身術を唱えさせましたよ」
「あ……あい……あい……」
「私、あなたが心配でたまらなくて。それにやっぱり、生身の体で一緒に戦いたいと思ったんです。この姿でね」
白魚のような手が、ろくに口もきけない俺の頭を優しく撫でてくる。その人は紫色の目を細めて俺に笑いかけるや、スッと右手を高く突き出した。今や六翼の女王の目前に迫り、かの神獣の翼をもぎとろうとしているアイテリオンにむかって。
「さあ、新しい次元に入れるべきものを入れましょう」
刹那。その人の手からどっと黒い波がほとばしった。凄まじい勢いの、闇色の奔流が。
そうして――
その場は一瞬にして、暗闇に包まれた。
静謐なる、夜の吐息に。




