輪廻の歌 7話 変若玉(オチダマ)
「なれます。あなたの奴隷に」
迷うことなく僕が答えたとたん。
銀の髪の人はまるであざけるように声をあげて笑いました。
「そんなに簡単に承諾してしまっていいのか? 奴隷の意味も解らずに?」
「たとえ手足をよこせといわれても、生贄になれといわれても、」
僕はきっぱり答えました。
「僕はそうします。それで我が師が、この世に戻ってこれるなら」
「ほう?」
すると灰色の導師の笑い声がすっと止まり。
暗い深淵のような紫紺の瞳が、僕をじっと見つめてきました。
心の奥底まで穿ってくるような視線。そして。
あたりに充満する甘い香り……。
頭がくらくらしてきて、僕はぶるぶる首を振りました。
純血のメニスの芳香は、メニスの少女よりもさらに甘く強烈なものでした。
鳥の女王との混血であるフィリアとは、甘露の濃度が違う?
この人は、僕たち人間とは根っから体の組成が違うようです……。
「ペペ、だめだ! アミーケから離れろ」
兄弟子さまは僕の背中を引っ張り寄せようとしたのですが。
その手はすかっと空を斬り、僕は灰色の導師に腕をぐいと引っ張られ、芳香立ちのぼる胸に抱かれました。
ほんのりふくらんでいる胸はとてもやわらかく。頬に触れたそれはとても熱く。
僕の脳髄は一瞬のうちに麻痺して、天と地がわからぬほどの心地よさに包まれました。
「まずは、そなたの体を持ってこなければな」
耳元をくすぐる甘い囁きに、僕の――我が師の体はぶるっと反応しました。
愛の告白でも受けたかのように。
「アミーケ! 冗談はよせ!」
「冗談? このウサギは本気だぞ? 裏切り者のそなたより、よっぽど真面目だ」
灰色の導師は楽しそうに目を細めました。
「本物のウサギはいくつだ? フィリアから少年だと聞いたが」
「じ、十六、です」
「もう少し小さい方が好みだったが、まあよかろう。そのゆるぎない意志。気に入ったぞ」
「よくねえ! そいつのほっぺた撫で撫ですんじゃねえ!」
兄弟子さまが僕らを指さして憤慨している姿が、ゆらゆら揺れています。
酒でも飲んだ時のごとく、ものの形がはっきり見えません。
まるでかげろうか蜃気楼のようにゆらめいています……
「ペペを放せ! いじくるな!」
「我が妻の成れの果てよ、もしかして嫉妬しているのか?」
「するわけねえだろ!」
「……。ならば黙っていろ」
「ぐわっ?!」
兄弟子さま? あれ? どこに……
まさか寝台から蹴り落とされた?
あ……あれ……視界が暗く……意識が遠く……
「ウサギよ。そなたに我が恩恵を与えようぞ」
とろけるように甘い魅惑の囁きと。
「ぺぺ! ぺぺー!!」
兄弟子さまの声が交錯しながら遠のいていきました。
あっという間に。はるか彼方へ。
ごんごん
ごんごん
なんだか聞いたこともない音で僕は目覚めました。
何かが回転しているような。金属がこすれあっているような。
目を開ければ、一面びっしり水晶が生えている天井。
まっ白透明で、キラキラきらめきを放っています。寝かされている台にも、床にも、壁にも、水晶がいたるところにニョキニョキ生えています。
足の踏み場がないほどひしめきあう水晶の空間のなかに、ぽっかり開いた円い穴がひとつ。
その窓から見えるのは、白雲浮かぶ蒼い空。
「飛んでる?!」
どうやらここは、空を飛ぶ乗り物の中。足元に気をつけながらそろそろと窓にはりついてみれば、ごんごんというのは、乗り物についている巨大な金属の飛行翼が動く音でした。
乗り物の外観は大きな鳥の形をしているらしく、前方にくちばしらしき形の大きな船首が見えます。乗り物のかたわらに、鉄の鳥がぴったりついて飛んでいます。
目を凝らしてその鳥の背中を見れば、手綱を持つメニスの少女フィリアの姿があり、何か必死に叫んでいます。
「……めて! お母様! やめて!」
白いスカートがひるがえり、スカートの中が見えそうで見えなくてもどかし――っていやいや、そんなことを思っている場合ではないような。
おそらくこの乗り物は灰色の導師のもので、僕の体を復活させるのを止めにきている?
兄弟子さまだけでなく、フィリアも血相を変えるような反応をするなんて。
灰色の導師の奴隷になるということは、もしかしたら相当にまずいことなのかも……。
――「目を覚ましたか。よく眠っていたな」
背後から美しい人の声がかかり。僕は腕をぐいと引っ張られて窓から引き離されました。
「おまえの体の居場所を我が妻に吐かせ、ついさきほど北五州の洞窟から回収したぞ。全身そっくりそのまま、彫像のように凍っていた」
――「母様! お願い! 思い直して!」
窓から聞こえる少女の叫びを、灰色の導師は完全に無視しています。
「隣の船室に寝かせている。来るがいい」
「……はい」
ごくりと息を飲みながら、僕は灰色の衣をまとった美しい人のあとに続きました。
この空飛ぶ乗り物の中は、どこかの洞窟をそっくりくり抜いたような様相です。
通路も隣の部屋もびっしりと水晶の結晶が生えており、よく見ればその壁面はごつごつした岩。
歩くとすぐにけつまずきそうなぐらい、床はでこぼこ。
「この船は、普段は雲の間に隠している。統一王国時代に作られた小型の飛空艇だ」
「統一王国? ということはこれ、千年以上も前のものですか? すごい水晶ですね」
「水晶ではない。浮遊石の結晶だ。この船は飛空挺の初期型で、浮遊石の鉱脈をそっくり内包している。つまり、天空に浮かぶ島の一部を削りとって作られたのだ」
「天空の島? それって本当にあったんですか?」
「今もあるぞ。人間がそこへ行く術を忘れただけで、いまだにいくつもの島が空に浮かんでいる」
灰色の導師は一瞬すうっと遠い目をしました。
この人にとっては「なつかしい」と感じる、神代の時代に思いを馳せたのでしょう。
「ウサギよ、この体で間違いないな?」
灰色の導師は船室の真ん中にそそり立つ台座を指差しました。
血の気の抜けたまっしろい少年の体。
間違いなく。僕の体がそこに置かれています。
「あの、兄弟子さまは?」
「ああ、あのむさい奴は我が家に鎖で縛って置いてきた」
「そ、そうですか」
「しかしおまえは、なかなか可愛い顔をしているな」
――「母様! やめて! 魔人を作るなんて!」
円く削られた船窓から、フィリアの声が舞い込んできます。しかし灰色の導師はまるで何も聞こえぬかのよう。ちらとも目を向けようとしません。
「あの、フィリアさんが何か叫んでますけど」
「気にせずともよい。それとも、決心が鈍ったか?」
いいえ、と僕は自分の顔を見下ろしながら首を横に振りました。
実はフィリアの声を聞いて少し怖気づいたのですが。目の前の美しい人の紫紺の視線に睨まれると、僕の迷いはパッと消え散りました。
「お願いします」
「では、始めるぞ」
美しい人はうなずくなり。身にまとう灰色の衣をはだけ、おのが胸に両手を押し当てました。
「え……?」
次の瞬間。
白魚のような手が、白い真珠の肌の中に入っていきました。
ずぶずぶと。深く。深く。その体を穿つように――。
僕の肌はざわつき、粟立ちました。
灰色の導師の胸には深く白い手が埋まっているのに、一滴の血も流れてこないのです。
美しい人の銀の髪がざわりと揺れ。一瞬、紫紺の瞳に苦痛が浮かぶや、胸に埋まった手がするりと
出されました。その手の上には、丸い小さな珠が乗っていました。
真珠のように光沢のある、真っ白い珠。
これは?
息をつめて見つめる僕の前で、灰色の導師は横たわる本物の僕の口元にその珠を近づけました。
「これは変若玉。純血のメニスにだけ作ることのできる、命の珠。飲んだ者はたちまち不老不死の体となる」
その小さな珠が体内に入るだけで、不老不死に?
灰色の導師は刺すような視線で僕を見据えました。
「これを飲めば、おまえは永遠に死ねなくなる。輪廻の輪からはずれてしまう」
え……? 生まれ変われなくなる?
「そしてこの珠は、私そのもの。おまえの中でおまえを支配するのだ」
それでもよいのだな、と灰色の導師は問うてきました。
「だめ!」
フィリアの声が船窓の向こうから響いてきます。
「ぺぺ! たとえ主人を亡くしても、魔人は主人のしもべとして、永遠に生きなきゃならないのよ!」
「フィリアの言う通りだ。おまえは自由にはなれぬ。おまえはわがしもべのまま、生き続けねばならぬ。永遠に」
それでもよいのだな、と灰色の導師は再度問うてきました。
「僕は……」
僕はおののきながらも、目を大きく開いて灰色の導師を見つめました。
これは、代償。
人智を越えた破格の効果を得るための、代償。
でもそれで我が師が生き返るなら。あの人が、戻ってこれるなら……
「僕はアスパシオンの弟子です。我が師のためなら、どんなことだってできます」
僕がこの世に生まれて一番はじめにみたものは。
黒い髪の男の子――。
「よくぞ言った、アスパシオンのペペ。揺るぎないおまえに、メニスの大いなる呪いを与えよう」
台座の上に横たわる僕の口の中に、白い珠がねじ入れられました。
僕の魂が低い韻律の調べに導かれ、我が師の体から引きはがされると。
とたんに僕はおのれの体に引き寄せられ、体内へ入り込みました。
どしりと落ち着くように自分の体の中にはまった感触がした瞬間――
「くはっ……!」
すさまじい閉塞感と激痛が襲いかかってきました。
「なっ……ぐっ……あぐっ!」
「胸の傷は相当深いようだな。呼吸もまだ止まっている」
目を見開き、胸を抑えて激しく七転八倒する僕を、美しいメニスの人は冷たく見下ろしました。
「大丈夫だ。どんなに苦しかろうが、死なぬ」
「がっ……がはっ……はぐっ……!」
僕の体から、じわじわどす黒い液体が染み出してきました。
口や鼻や耳の穴からだらだらと大量に液体が流れ落ち、結晶がびっしりついた台座を黒く染めました。
息ができず。言葉を出すことができず。僕は激しく痙攣して台座の上でもんどり打ちました。
苦しい。苦しい。苦しい。
痛い。痛い。痛い。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。
だれか。だれか。だれか。たすけ……!
「おろかなウサギ」
悪魔のような笑みを浮かべる灰色の導師が僕の顎をつかみ。顔を近づけて口元を引き上げました。
「おまえには、一分の救いもなくなった」
カッと紫の双眸が輝いた刹那――
「うわああっ!」
僕はがばりと起き上がりました。
ごんごん
ごんごん
飛空艇の翼の音が聞こえます。
見れば僕は、結晶がびっしりついた床の上に寝かされています。でも体は……
「え? ゆ、夢?」
ぺたぺた触って確かめた顔と体は、我が師のもの。
「夢ではない」
冷たい声が降りかかってきました。
「私が送った幻覚を見て、おまえは気絶したのだ」
目の前の台座には、本当の僕の体。背後には、真っ白い珠を手に乗せた灰色の導師。
「これでは本番にはとても耐えられまい。やめた方がよかろう」
「いいえっ!」
がくがく震えながら、僕は美しい人の灰色の衣のすそをつかみました。
「大丈夫です! お願いします!」
そのときガンッと強い衝撃が飛空挺の横っ腹を襲ってきました。
船窓にびたっと白い手がかかり、フィリアの顔がぬっと現れました。
フィリアは窓からそのまま船室に滑り込んできました。
少女は突進して母親から白い珠を取りあげようとしましたが。
「邪魔をしないでください!!」
僕はとっさに少女を押しのけ、灰色の導師の手から白い珠を奪い。
自分の体に飛びついて、その口を無理やりこじ開けて……
「ペペ! ダメ!!」
喉の奥に白い珠を押し込みました。
たちまち僕の体から、どす黒い液体がじわじわ染み出してきました。
魂が入っていないのにその体は弓なりにのけぞり。びくびくと痙攣しました。
「導師さま、僕の魂を早くこの体に戻してください!」
「今入れば傷の痛みに耐えられず気が狂うぞ。しばし待て」
灰色の導師が痙攣する僕の体を押さえつけました。
フィリアが眼に真っ白い涙を浮かべています。
「ぺぺ! なんてことを……!」
「無茶をする奴だ。だが、気に入ったぞ。見上げたやつめ」
「お母様! 感心してる場合じゃないわ! こんな状態の子を生き返らせるなんてひどい!」
フィリアが叫んだ通り。僕の体はお話にならない状態でした。
ほとんど血液が残っていなくて、胸は深く裂けて、解凍されかかっている肌はふやふやのボロボロ。
ところどころまだ霜がこびりついていて、体全体が黒ずんでいます。
でも。一刻も早く、我が師を天上から引き戻さなければ。
すでに三日以上経っているのです。
もう間に合わないかも……!
「ぺぺ!」
気づくと。僕の魂は自らすぽりと抜けて、自分の体に勢いよく飛び込んでいました。
「なんてやつだ」
灰色の導師はさすがに目を丸くしました。
「ウサギよ。おまえにとって師とはそんなに大事なものなのか」
「う……う……」
返事しようとしても、まともな声が出ませんでした。
僕の体はぴくとも動かせず、猛烈な痛みに苛まれて、勝手に痙攣し続けています。
まぶたや鼻からはどろどろと濁った体液が流れています。
フィリアは僕のかたわらで涙をこぼし、なぜ変若玉を出したのかとしばし母親を責めました。
でもこれは……僕が望んだこと。
いいのです。
これで、いいのです。
「勇敢なウサギ。おまえに免じて、おまえの師の魂をおろしてやろう」
視界は霞み。導師の声もフィリアの泣き声も、どこか遠くで聞こえるこだまのよう。
魂を呼ぶために灰色の導師が凄まじい魔力を放っているのが感じられました。
あたりに降りた魔法の気配はまるで鉛のように重く、僕の体をぺしゃりと押しつぶしてしまいそうでした。
苦しくて。痛くて。体液と一緒に涙がとめどなく流れました。
ああ、でも。
それからほどなくして、すぐかたわらで聞こえたとある声だけは。
はっきり聞こえて。
とても懐かしくて。
暖かくて……。
「ちょ……何ここ! ふわふわ雲のテーブルなんで消えた! 俺の超霜降り雲肉入りスキヤキ、どこいったぁあああ!」
ああ……よかった……。
おかえりなさい。
おかえりなさい。
俺のお師匠さま。
俺のハヤト。
……大好きだ。




