第三話:血に渇く短剣と物静かな目撃者
エルリックの骨董品店が開店してから、一週間が過ぎた。
店の評判は、まだ無に等しい。それでも、先日訪れた老婆が、友人たちに「あそこの店の主は、品物に込められた想いを読み取ってくれる、不思議な優しい人だ」と話してくれているらしく、時折、古い農具や曰く付きの装飾品を持った村人が訪れるようになった。
エルリックは、その一つ一つに丁寧に対応した。亡き夫が遺したパイプに残る穏やかな記憶を伝えたり、先祖代々の櫛に込められた嫁ぐ娘への祝福を読み解いたりした。どれも金になる仕事ではなかったが、彼の心は穏やかだった。王都で感じていた息苦しさは、オークヘイブンの澄んだ空気の中に溶けて消えていくようだった。
その日も、エルリックはカウンターで古書の修復をしながら、静かな昼下がりを過ごしていた。そんな時、店のドアベルが、これまでになく荒々しい音を立てて鳴った。
入ってきたのは、いかにも冒険者といった風体の男だった。使い込まれた革鎧を身に着け、顔には生々しい傷跡が残っている。屈強な体つきとは裏腹に、その表情はひどく憔悴しきっており、目の下には深い隈が刻まれていた。
「……あんたが、ここの主人か」
低く、かすれた声だった。エルリックは静かに頷く。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
「探し物じゃねえ。……鑑定を、頼みたい」
冒険者の男はそう言うと、ごとり、と重い音を立てて腰の鞘から抜き身の短剣をカウンターに置いた。
それは、明らかにゴブリンを殺すためだけに作られた、無骨で実用的な一振りだった。刃は何度も研がれた痕があり、柄には黒ずんだ血の染みがこびりついている。そして何より、その短剣は、まるで生き物のように禍々しいオーラを放っていた。部屋の温度が数度下がったかのような、肌を刺す冷気。それは、先日のオルゴールが発していた悲しみの気配とは質の違う、明確な「害意」だった。
「こいつは『ゴブリンスレイヤー』の二つ名で知られた、高名な冒険者の遺品でな。ダンジョンの奥で偶然見つけたんだ。切れ味は抜群で、ゴブリン相手なら面白いように刃が通る。だが……」
男はそこで言葉を切り、苦々しげに顔を歪めた。
「こいつを握って戦うと、頭に血が上って、我を忘れちまうんだ。敵を皆殺しにしても、まだ血への渇きが収まらねえ。この前は、危うくパーティーの仲間を斬り捨てるところだった。もう、怖くて抜けねえんだよ」
エルリックは黙って男の話を聞いていた。無理もないだろう。短剣から放たれる殺意の波動は、常人であれば正気を保つことすら難しいほどに強烈だ。
「この呪いを、解くことはできるか? 金なら、いくらでも払う」
切実な響きだった。エルリックは静かに短剣を見つめ、そして口を開いた。
「これは、呪いとは少し違います。……これは、執念です」
「執念、だと?」
エルリックは男の許可を得ると、深呼吸を一つして、短剣の柄にそっと指を触れた。
瞬間、凄まじい感覚の奔流が彼を襲う。
ゴブリンの甲高い悲鳴、血飛沫の生温かさ、骨を断つ感触、そして、己の血が流れる痛み。視界が真っ赤に染まるほどの、純粋な闘争心と怒り。
――『まだだ、まだ殺り足りない』
――『一匹たりとも、生かして返すな』
脳裏に響くのは、元の持ち主の絶叫。
彼は、ゴブリンの群れに囲まれ、仲間を全て殺され、たった一人で絶望的な最後の抵抗を試みていた。その凄まじいまでの闘志と、ゴブリンへの憎悪が、死してなおこの短剣に残留思念として焼き付いているのだ。この短剣を握る者は、その持ち主の最後の戦いを、追体験させられることになる。
「……ひどい、戦いだったんですね」
エルリックは、額に滲んだ汗を拭いながら呟いた。あまりに強烈な感応に、立っているのがやっとだった。
その時、店のドアベルが、今度は静かに「カラン」と鳴った。
エルリックも冒険者の男も、そちらに注意を払う余裕はなかった。入ってきたのは、旅商人風の質素なローブをまとった、背の高い男だった。しかし、その簡素な装いでは隠しきれないほど、男の立ち姿には隙がなく、その眼光は剃刀のように鋭かった。歴戦の武人だけが持つ、独特の威圧感が滲み出ている。
男――王国騎士団隊長、ヴァレリウス――は、正体を隠してこの辺境の町を視察に訪れていた。彼は、ギルドが密かに関わるという遺物の密輸ルートの噂を追っていたのだ。何の気なしに立ち寄った骨董品店。しかし、店内に一歩足を踏み入れた瞬間、彼は己の感覚を疑った。
(なんだ……このおぞましいまでの殺気は!?)
彼の目に映ったのは、カウンターに置かれた一本の短剣。騎士団が保有する伝説級の魔剣にも匹敵するほどの、凶悪な呪いの気配。そして、その呪物に、何の防御障壁もなしに素手で触れている、物静かな店主の姿だった。
(馬鹿な! 正気か!? あのような呪物に直接触れれば、達人の騎士ですら一瞬で精神を汚染されるというのに!)
ヴァレリウスは息を呑み、警戒レベルを最大に引き上げた。この店主、一体何者だ。見た目はただの線の細い青年だが、あれがハッタリでないとすれば、とんでもない実力者であることに疑いの余地はない。
エルリックは、新たな客の存在に気づいてはいたが、今は目の前の「患者」に集中していた。彼は冒険者の男に向き直る。
「この短剣は、もう戦いたくないと叫んでいます。元の持ち主の魂は、あまりにも長く、この刃の中に囚われ続けてきた。彼を、解放してあげなければなりません」
そう言うと、エルリックは柔らかな布を取り出し、短剣の刀身を、まるで赤子の体を拭うかのように優しく磨き始めた。そして、語りかける。その声は、ヴァレリウスがいることなど意にも介さず、ただひたすらに静かで、穏やかだった。
「あなたの戦いは、もう終わりました。あなたは、最後まで勇敢に戦い抜いた。その勇気は、決して無駄にはならなかった」
ヴァレリウスは、その光景を信じられないものを見る目で凝視していた。
(な……!? あの呪物と、対話しているというのか!?)
彼の目には、エルリックの行動が全く別の意味に映っていた。
店主は、呪われた魂を慰めているのではない。圧倒的な力量差をもって、その怨念を鎮め、支配下に置こうとしているのだ。優しく刀身を磨く行為は、呪いを浄化する、何らかの高度な儀式に違いなかった。
「もう、安らかにお眠りください。その剣技も、その怒りも、全て私が引き受けます。だから、もう、大丈夫です」
エルリックの言葉は、短剣に残る残留思念に向けられた、心からの鎮魂の祈りだった。
しかし、それを聞いたヴァレリウスは、全身に鳥肌が立つのを感じた。
(全て、引き受けるだと……!? あの凄まじい殺意と怨念を、己の身に受け止めるというのか! なんという精神力……いや、もはや神域の所業だ!)
エルリックがそう囁き終えた瞬間、短剣から立ち上っていた禍々しいオーラが、ふっと霧が晴れるように消え失せた。後に残ったのは、使い古された、ただの鉄の短剣だけだった。
「……うそ、だろ……」
持ち主だった冒険者の男が、呆然と呟く。あれほど彼を苦しめていた、血への渇望が、綺麗さっぱり消えているのが分かった。
「……終わりました。もう、この短剣があなたを狂わせることはありません。ですが、どうか、これからはこの剣を、仲間を守るためだけに使ってあげてください。それが、彼への何よりの供養になります」
エルリックは、にっこりと微笑んで短剣を返した。
冒険者の男は、しばらく言葉を失っていたが、やがてカウンターに金貨の詰まった袋を叩きつけるように置くと、何度も、何度も頭を下げて嵐のように去っていった。
店内に再び静寂が戻る。
エルリックは、ふぅ、と息をついて椅子に座った。さすがに今回は、精神的な消耗が激しかった。
(さて、少し早いけど、夕食の準備でもしようかな……)
彼がそんなことを考えていると、店の隅で全てのやり取りを見ていた、旅商人風の男が、静かに一礼して店を出ていったことに、彼は気づかなかった。
店の外に出たヴァレリウスは、オークヘイブンの夕陽を見上げながら、まだ高鳴る胸を押さえていた。
(間違いない。あの男、ただの骨董品屋ではない。あれほどの呪物を、まるで埃を払うかのようにたやすく浄化するとは……。おそらくは、宮廷魔術師の長や聖教会の枢機卿すらも凌駕する、隠遁した大賢者)
彼は確信した。自分がこの辺境の町で、とんでもない人物を発見してしまったのだと。
「賢者……エルリック……」
ヴァレリウスはその名を、確かに記憶に刻み込んだ。
これは、王国にとって吉兆か、あるいは――。いずれにせよ、関わらぬままには済まされない。彼は自身の直感が、そう強く告げているのを感じていた。
こうして、エルリックが全く意図しないところで、「勘違い」の最初の、そして最も大きな種が蒔かれたのだった。




