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第十二話:賢者の診断と外科医のメス

「浄化作戦……」 リアナが、呆然とヴァレリウスの書状の言葉を繰り返した。エルリックは、床に落ちた羊皮紙を拾い上げる気力もなく、ただその場に立ち尽くしていた。 頭の中で、最悪の光景がぐるぐると渦巻いている。王国騎士団が鑑定士ギルドの本部に突入し、罪のない職員たちまで巻き込まれていく。ギデオンは抵抗し、ギルドは血の海に沈む。その全ての引き金を引いたのは、自分の一通の、軽率な手紙。


「だめだ……止めなければ!」 エルリックは、ほとんどパニック状態で叫んでいた。 「今すぐ、ヴァレリウス隊長に、もう一度手紙を書きます! これは私の早とちりだった、と! ただの地域的な問題で、騎士団が出張るような大事ではない、と!」 「待ちなさい、エルリック」


冷静なリアナの声が、彼の焦燥を制した。彼女は床から書状を拾い上げると、その短い文面をもう一度、注意深く読み返した。 「もう、矢は放たれてしまったのよ。ヴァレリウス隊長は、王国騎士団隊長という己の立場と名誉の全てを懸けて、この『作戦』の決断を下したはず。今になってあなたが『あれは間違いでした』と伝えれば、どうなると思う?」


リアナの問いに、エルリックは言葉を詰まらせた。 「彼の面子は丸潰れになり、ギルドへの不当な介入を企てたとして、逆に彼が弾劾されるかもしれない。そして何より、私たちの立場が極めて怪しいものになるわ。『賢者』が、気まぐれに国家組織を振り回した、とね。そうなれば、ギデオンの思う壺よ」


リアナの指摘は、どこまでも正しく、そして残酷だった。もう、後戻りはできない。彼らが望むと望まざるとにかかわらず、ヴァレリウスという名の、忠誠心に溢れすぎた巨大な歯車は、ギデオンを粉砕するために、もう回転を始めてしまっているのだ。


「……じゃあ、どうすれば……。私はただ、座して惨劇を待つしかないというのですか……」 エルリックの肩が、がっくりと落ちた。彼のスキルは、呪いを癒し、物語を読み解く力だ。人を動かし、争いを止めるような力は、どこにもない。無力感が、ずしりと彼の全身にのしかかった。


その時だった。 カラン、と店のドアベルが、場違いに軽やかな音を立てた。 エルリックとリアーナが、はっとして入り口を見ると、そこには一人の老人が、所在なげに立っていた。オークヘイブンで長く暮らしている、顔なじみの木工職人だった。 「……すまんのう、もう店じまいかい? 実は、困ったことがあってのう……」


エルリックは、一瞬、断ろうかと思った。今の自分に、人の相談に乗るような精神的余裕はない。だが、老人の困りきった、助けを求めるような目を見てしまうと、無下にはできなかった。それが、彼の性分だった。 「……いえ、どうぞ。どうなさいましたか?」


老人は、ほっとしたように息をつくと、懐から古びた真鍮の羅針盤を取り出した。 「これは、若い頃、先に逝った婆さんからもらったもんでな。どんな時も、ちゃんと我が家の方角を示してくれる、お守りのようなもんだったんじゃ。じゃが、ひと月ほど前から、どうにも針の動きがおかしくてな。くるくると回るばかりで、どっちが家か、さっぱり示してくれんのじゃよ」


老人は、寂しそうに付け加えた。 「まるで、わし自身が、道に迷ってしまったようで……気味が悪くてのう」


リアーナは、黙ってエルリックの横顔を見ていた。国家の危機を前に、彼はこの老人の、小さな羅針盤の悩みを聞くのだろうか、と。


エルリックは、何も言わずに羅針盤を受け取ると、そっと指を触れた。 【呪物鑑定】。


流れ込んできたのは、呪いではなかった。 それは、深い愛情と、そして、突然訪れた別れに対する、途方もない『戸惑い』の感情だった。


――羅針盤を贈った妻は、夫が森で仕事をしている最中に、心臓の病で、あっけなく亡くなってしまった。最期の言葉を交わすことも、感謝を伝えることもできなかった。その彼女の魂は、逝くべき場所が分からず、現世とあの世の狭間で、ただ道に迷っていた。その魂の混乱が、彼女が最も愛した夫へ贈った、この羅針盤の針を狂わせていたのだ。


これは、呪いではない。愛する人を遺してしまった、魂の迷子だった。


感応を終えたエルリックは、静かに目を開けると、老人に優しく語りかけた。 「……奥様は、あなたに、さよならが言えなかったことを、とても悔やんでおられるようです。突然のことで、ご自身も、どこへ向かえばいいのか、分からなくなってしまっている」


老人の皺だらけの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。 「……そうか。あいつも、迷っておったのか……」


「ええ」とエルリックは頷いた。「ですから、あなたが、道を示してあげてください。奥様のお墓の前で、この羅針盤を手に、あなたが伝えたかった感謝の言葉を、全て伝えてあげてください。そして、『もう大丈夫だよ、安らかにお眠り』と、あなたが、彼女の魂を導いてあげるのです」


それは、魔法でも奇跡でもない。ただ、残された者が、逝く者へ贈る、最後の道標だった。 老人は、何度も、何度も頭を下げ、震える手で羅針盤を大切そうに受け取ると、静かに店を去っていった。


店内に、再び沈黙が戻る。 リアーナは、目の前で起きた、静かで、しかし深い魂の救済を、じっと見つめていた。 そして、その沈黙を破ったのは、エルリック自身だった。


「……そうか」 彼は、何かを掴んだように、ぽつりと呟いた。 「僕は、間違っていたのかもしれない」


彼は、リアーナに向き直った。その瞳には、先ほどまでの絶望の色はなく、鑑定士としての、澄んだ光が宿っていた。 「僕は、ヴァレリウス隊長の『浄化作戦』という、大きな軍事行動を止めようとしていました。でも、それは僕の仕事じゃない。僕は、軍師でも政治家でもない。僕は、医者や……そう、診断技師のようなものです」


リアーナは、彼の言葉の意図を測りかねて、静かに耳を傾ける。


「僕にできるのは、争いを止めることじゃない。その争いの原因となっている『病巣』の正体を、正確に診断し、外科医に『メス』を渡してあげることだ」


エルリックの頭の中では、新しい計画が、急速に形を結び始めていた。 「ヴァレリウス隊長は今、ギデオン派という巨大な敵を前に、斧を振りかざそうとしています。それでは、関係のない者まで傷つけてしまうかもしれない。ですが、もし、僕が彼に、病巣だけを的確に、そして誰の目にも明らかな形で切り取れる、精密なメスを渡すことができたなら?」


「メス……?」 「ギデオンたちが作った『人工の呪物』。あれには、必ず、製作者の魔力の『癖』のようなものが残っているはずです。いわば、魔術的な指紋。僕なら、その特徴を正確に特定できる」


エルリックは、地下室へと駆け下りていくと、数種類の鉱石と、錬金術用の器具を持ってきた。 「この魔術指紋にだけ、特殊な反応を示す、鑑定用の触媒を作ります。この触媒液を一滴垂らせば、本物の古代遺物と、ギデオンたちが作った偽物とを、誰でも一目で見分けられるようになる。これこそが、ヴァレリウス隊長が、ギデオンの罪を立証するための、動かぬ証拠……彼の振るうべき、精密なメスになるはずです!」


それは、まさにエルリックにしかできない、彼の能力を最大限に活かした、完璧な解決策だった。 リアーナは、その発想に目を見張った。彼は、絶望的な状況の中で、自分自身の本質を見つめ直し、自分にしかできない最善の道を見つけ出したのだ。


エルリックは、もう迷っていなかった。彼は再び羊皮紙に向かうと、今度は確信に満ちた、力強い筆致で、新たな書状を書き始めた。 それは、作戦中止を求める嘆願書ではない。 外科医である騎士隊長に、最高のメスを提供する、最高の診断技師からの、技術協力の申し出だった。


スローライフは、また少し遠のいた。 だが、目の前の『患者』を見捨てるわけにはいかない。それが、骨董品屋エルリックの、唯一の矜持だった。

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