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第一話:役立たずの鑑定士

王都が誇る鑑定士ギルドの地下、埃と古いインクの匂いが満ちる資料室の片隅こそが、エルリックの仕事場であり、聖域だった。


彼の指先が、錆びついた銀のロケットにそっと触れる。派手な魔力の輝きも、歴史的価値を示すオーラもない。他の鑑定士なら一瞥もくれずに「ガラクタ」と断じるであろう、ただの古物だ。


しかし、エルリックの瞳には、違う世界が映っていた。


『――どうか、彼をお守りください』


指先から流れ込んでくるのは、ゲームのステータス画面のような無機質な情報ではない。それは、祈りだった。百年以上前、戦地へ赴く恋人のために、名もなき少女が捧げた切なる想い。ロケットに込められたのは、魔法ではなく、純粋な感情の残滓。これが、エルリックの持つユニークスキル、【呪物鑑定】の本質だった。


物品に宿る「物語」と「痛み」を、まるで自分のことのように感じ取る力。彼は、この力を使い、忘れ去られた品々の声なき声に耳を傾けることに、静かな喜びを見出していた。


「おい、エルリック。またそんな薄気味悪いガラクタと戯れているのか」


不躾な声が、穏やかな感応を乱暴に引き裂いた。エルリックが顔を上げると、そこには腕を組み、彼を見下すように立つ同僚の姿があった。ギルドマスターの息子、ギデオンだ。


「これはガラクタじゃない。大切な想いが込められた品だ」

「想い、だと? そんなもので腹が膨れるか。俺が今日鑑定した『炎魔の腕輪』は、攻撃力+30、火属性魔法効果20%増だ。王国騎士団が金貨三百枚で買い取っていったぞ。それに比べてお前のスキルは何だ? 不運を呼び込む呪われた品ばかり引き寄せる、役立たずの【呪物鑑定】。ギルドのお荷物め」


ギデオンのスキルは【魔法鑑定】。物品に付与された魔法効果を数値として正確に読み取る、華々しく実利的な力だ。彼には、エルリックが感じ取る繊細な感情の機微など、理解もできなければ、理解しようとも思わなかった。むしろ、自分にはない直感的な才覚を持つエルリックに対し、苛立ちと嫉妬を募らせているようだった。


エルリックは言い返さなかった。ここで何を言っても、彼には届かないことを知っていたからだ。彼はただ、ロケットを丁寧に布で包み、小さな木箱に収めた。その所有者の子孫を見つけ、この想いを届けるのが、彼の仕事の仕上げだ。金にはならない。誰に褒められるわけでもない。だが、それでよかった。


その時だった。


「緊急警報! 緊急警報! 中央鑑定室で制御不能アーティファクトが発生!」


ギルド内にけたたましい鐘の音が鳴り響き、緊張した声が響き渡った。エルリックとギデオンの間に、張り詰めた空気が流れる。


「制御不能だと?馬鹿な、今日の目玉は公爵家が持ち込んだ『静寂の宝珠』のはず…!」


ギデオンが顔色を変えて駆け出す。エルリックも、胸騒ぎを覚えて彼の後に続いた。


中央鑑定室は、パニックの坩堝と化していた。ギルドが誇るベテラン鑑定士たちが青ざめた顔で後ずさり、頑丈なガラスケースの中で、黒曜石のような宝珠が禍々しい紫の光を明滅させている。


「ダメだ!【魔法鑑定】が弾かれる!」

「魔力障壁が侵食されていくぞ!」


悲鳴が上がる中、ギデオンが一歩前に出た。

「どけ、役立たずどもめ! 俺の【魔法鑑定】なら…!」


傲慢な宣言と共に、ギデオンが宝珠に手をかざす。彼の目から放たれた青い光が宝珠に触れた瞬間、凄まじい衝撃波が彼を吹き飛ばした。


「ぐっ…! なんだ、この怨念は…!?」


壁に叩きつけられ、呻くギデオン。その様子を見ていたエルリックには、宝珠が発する「声」が聞こえていた。


違う。これは怨念じゃない。これは――悲嘆だ。


持ち主を失い、誰にも理解されず、永い孤独の果てに絶望した魂の慟哭。それは助けを求める悲鳴にも似ていた。


「落ち着かせるんだ…! 無理に力をこじ開けようとすれば、自壊する…!」


エルリックは思わず叫んでいた。彼は宝珠の痛みを自分のことのように感じ、手を差し伸べずにはいられなかったのだ。彼がゆっくりと一歩、また一歩とガラスケースに近づいていく。


「やめろエルリック! お前の不吉なスキルが触れたら、何が起こるか分からんぞ!」


同僚の制止も、彼の耳には届かなかった。彼はただ、宝珠を憐れに思っていた。その悲しみを、少しでも和らげてやりたい。そう思っただけだった。


彼がガラスケースに指を触れようとした、その刹那。


宝珠の明滅が頂点に達し、甲高い音と共に、凄まじい負のエネルギーが爆発した。ガラスケースは粉々に砕け散り、衝撃波が鑑定室全体を襲う。棚から貴重な魔法アイテムが落下し、壁には深い亀裂が走り、数人の鑑定士が吹き飛ばされて倒れた。


幸い死者は出なかったが、ギルド創設以来の大惨事だった。


静寂が戻った部屋で、最初に口を開いたのは、瓦礫の中から身を起こしたギデオンだった。彼は腕の切り傷を抑えながら、憎悪に満ちた目で、呆然と立ち尽くすエルリックを指差した。


「…見たか! 皆、見たな! あいつだ! エルリックの【呪物鑑定】が、アーティファクトの呪いを暴走させたんだ!」


その一言が、決定打だった。

混乱していた鑑定士たちは、責任の所在を求め、疑心暗鬼の目を一斉にエルリックに向ける。


「そういえば、エルリックが近づいた途端に…」

「やはり、奴のスキルは呪われているんだ…」


違う。俺はただ、助けようと…。


エルリックの弁明は、誰の耳にも届かなかった。すぐにギルドマスターが呼び出され、即席の査問会が開かれた。証言台に立ったギデオンは、エルリックが日頃から不気味な呪物を集め、ギルドの品位を貶めていたと、声高に糾弾した。誰もエルリックを庇おうとはしなかった。


そして、ギルドマスター――ギデオンの父親――は、冷酷な声で判決を言い渡した。


「鑑定士エルリック。貴様のスキルはギルド、ひいては王国にとって災厄をもたらす危険なものと判断する。よって、本日をもって貴様をギルドから追放処分とする。鑑定士ライセンスも剥奪だ。二度と王都の土を踏むな」


それは、あまりにも一方的で、理不尽な宣告だった。

エルリックは、何も言えなかった。彼の誠実な仕事は、彼の優しさは、誰にも理解されなかった。結局、この場所には、彼の居場所など最初からなかったのだ。


ギデオンが、勝利を確信した歪んだ笑みを浮かべているのが見えた。


その日の夕暮れ、エルリックは最低限の着替えと、数冊の古書だけを詰めた鞄を肩に、西門から王都を後にした。振り返ることはしなかった。華やかなギルドも、彼を蔑んだ者たちの顔も、もう見たくはなかった。


これからどこへ行こうか。あてもない。

だが、一つだけ決めていることがあった。


もう、誰かのための鑑定はしない。権力や金が絡む面倒は、こりごりだ。

世界の片隅でいい。誰にも邪魔されず、静かに、忘れられた品々と対話しながら生きていける場所。


――辺境の町で、小さな骨董品屋でも開こう。


夕陽に染まる道を一人歩きながら、エルリックはそう心に誓うのだった。

これが、後に「呪いの賢者」と「骨董品の魔王」という、全く不本意な二つ名で呼ばれることになる男の、新たな人生の始まりであった。

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