9. セレーンの憧れ
※ タイトル変更しました。
※ 2025/12/11 修正済み
◇ ◇ ◇ ◇
湖畔に着く前、車中に少し遡ります──。
東京からキャラバンに乗車して1時間くらい。
車窓から見える高速道路がどうにも単調だったせいか、私はウトウトと浅い眠りに陥りました。
※ ※
深い 余りにも深い古代の湖底。
深い 余りにも深淵世界が私の棲み家。
長い時間を私はじっと泥沼の底で生きてきた。
ここは静かで心地よいけど、どうにも退屈でたまらない。
ただでされ泥沼底の冬はとても冷える。
ほら、ベントスたちがワラワラと寄って来た。
私の巨大な腹に蹲る。
この子らのいつもの日課だ。
セレーンのお腹はあったかいな。 あったかいなあ。
ぬくぬく ぬくぬく ああ、あったかい。
ぬくぬく ぬくぬく 気持がいいから眠くなるよ。
ふふふ、安心おし弱き小さな友よ。
私はプランクトンしか食べないからね。
お前たちが眠っても突然ガブリと食べたりはしない。
※
時々、湖上と湖底を行き来するネクトン叔父さんが遊びに来てくれた。
私は叔父さんの湖上の話がとても好き。
湖上の話を沢山教えてくれる物知り叔父さん。
「叔父さん、湖上には人間がいるんだって?」
「ああ、人間は水中では生きられない。湖上の湖畔の廻りを歩いて暮らしている」
私は初めての言葉がわからず訊ねた。
「ネクトン叔父さん、歩くってなあに?」
ネクトンは応えた。
「人間は鰭がない。だから腰から出てる二本足で左右交互に前進するんだ」
「二本足?」
「そうだ、水中では生きれないから、鰭が日本の足になって地上へ出て歩くんだ」
わからない わからないわ。
わからないけど、ワクワクする!
「ネクトン叔父さん、地上ってなあに?」
「セレーン可愛い娘や、君もその内、すぐにわかる時がくるさ」
ネクトンは笑っていった。
だがすぐさま、真顔になって答えた。
「けれど人間にはくれぐれも気を付けるんだよ。人間は弱そうに見えるがとても怖いぞ」
「怖い?」
「ああ人間は魚を食べる。すぐやみくもに殺して食う」
「あら、大嫌いながっつき亀たちみたい」。
「もっと凶暴だ、いいなセレーン、湖底とは違う。湖上に出たら気をつけろ!」
「あら湖上はとても美しい場所だと姉さまたちがいってたわ」
姉さまというのは大人になった私の姉たちだ。湖底から湖上にいった姉たちは、湖底に寝に帰るのだ。
「いや、そうではない。湖上の人間は僕らを知らない。特に御霊の奴らには気をつけろ!」
ネクトン叔父さの眼が鋭く光った。
「御霊の人間は危険だ、もしも飲み込んだらやつらに飲み込まれるぞ!御霊には湖底の力も 僕らの魔力も効かない」
「そうなの?」
「そうだ──」
「でも逢ってみたいな 姉さまに良く似た美しい顔の人間」
そうよ、先に湖上へ出た姉さまたちが、綺麗な人間がいると私に教えてくれた。
「そうそう、一番下の姉さまが言ってたわ。、ある日、とても可愛い人間をひとり見つけて、自分のものにしたくて湖中に引きずり込んだそうよ」
「ああ、お前の姉は馬鹿で愚かだ、人間は湖中では死んでしまうというのに……」
「あら叔父さん、私はそんな残酷なことはしないわ。だって私の憧れ、ずっと夢見てた人間ですもの。
絶対に殺すもんですか!」
セレーンはうっとりと夢心地で呟いた。
「ああ、一目でいいから逢ってみたいな」
ネクトン叔父さんは哀しげに呟いた。
「セレーン、お前も馬鹿だ。俺はお前がとても心配だよ」
※
ネクトン叔父さんが湖上へ戻って行った後──。
ベントスたちがようやく眠りから目覚めて、私の周りに輪になって念じて教えてくれた。
大丈夫さ、僕らのセレーン。
もう少しだよ。もう少しの辛抱だよ。
長い間、よく辛抱したね。
うふ、ベントスは優しい。とても愛らしい生物だ。
それに何て微小なんだろう。
まるでいつぞや、姉さまが見せてくれた人間が描いた絵本の、碧い空に煌めく星座の屑みたい!
それでも良く良く見ると顔にはひとつ、ふたつ、目も口もある。
フフ、とってもちっちゃくて可愛い……。
私はベントスたちに訊ねた。
「ねえ、もう少しってどれくらい?」
もう少しだよ、もう少しの辛抱だから。
もう少しだよ、もう少しの辛抱だから。
もう少しだよ、もう少しの辛抱だから。
ベントスたちが一斉に集まりだして、ワチャワチャと合唱し始めた。
「分かった、もう少しね」
そうだよ、ももとせの月見月に、水神様が家来のレイクフイッシュたちに天空に狂飆を起こす夜がもうすぐやってくる。
その時セレーン、貴方は湖面に渦巻と共に浮上する!
その時セレーン、貴方は乙女の涙で変身して目覚める!
その時セレーン、貴方は僕らの湖の精霊姫となる!
おめでとう、おめでとう!
おめでとう、おめでとう!
ベントスたちが大勢やってきて賛辞しあう。
よくぞ100年待ったね!
新しい精霊姫が誕生するよ!
待ってて 待ってて! その日は、もうすぐだから……
ほら、そこまで来てる! 君の未来が僕らは視える!
愛しのセレーン……。
※
「ガタン!」
と高速道路の出口からUターンした折、私たちを乗せたバンが大きく揺れた。
──おっと、と!
私は夢から覚めました。
顔は見えないけど、瞼をパチパチ瞬きしたような感覚でした。
──奇怪な夢だったわ。
何よ、あれ?
プランクトンだらけの泥水中に、ミジンコみたいに小さい虫や、蝉の幼虫みたいな虫たちがわじゃわじゃ水底にいて大熊くらいの巨大なアンコウと楽しそうに話してたわ。
あのアンコウはなんて橙色で悍ましかったのでしょう。
ピカピカ光って輝いてはいたけれど、体中凸凹してて気味が悪かったわ。
私はおかしな湖底の大魚たちを思い出してぶるっと身震いしました。
そのまま私は、湖畔沿いのドライブを楽しんでいる内に、その奇妙な夢を忘れたくて首をぶるんぶるんと振りました。
それほどまでに夢で見た巨大アンコウはグロテスクだったのです。
それから湖畔沿いの美しい道を眺めてる内に、すっかり不思議な夢を忘れてしまった矢先、突然襲ってきた野鳥の一羽。
その鳥が私を見つめて念じた鳴き声。
(おかえり、おかえり セレーン)
──あれ?
そうだった、さっき夢の中で、アンコウがミジンコたちに呼ばれたのもセレーン。
この野鳥が私に念じたのもセレーンって?
それは、夢の中の湖底にいた橙色のアンコウの古代魚は“セレーン”と呼ばれていた。
あ、もしかしてセレーンって?
ええ、まさか……私?
やめてよ、いくら幽霊でもそれはないわ……。
私はゾッとしました。
先ほど見た水底のグロテスクなアンコウの夢を、すぐに忘れようと努めました。




