別れ
「おのれ……」
真っ向から小萩に反論されて、今や完全に冬雪の顔に戻った悪霊が低く唸った。
「小娘め……弱々しいくせに、どうしてそう揺るがぬのか。なぜ、おまえごときつまらない者が、我が悲願の妨げとなる? そうだ、おまえだ。おまえが来てから、何もかもが上手く運ばなくなった。あと少しで、南条は滅びるというのに……おまえさえいなければ、司朗は自身のことを何も知らず気づかず、南条家を終わらせていただろうに。封じられかけてから数百年、少しずつ補給し蓄えてきた力がようやく再び満ちるというこの時になって、あの男と同じ色をした魂の持ち主が生まれるとは……!」
ぎりぎりと歯噛みしながら悔しげに絞り出された言葉に、小萩は眉を寄せた。
あの男?
「同じ色をした魂の持ち主って……」
「よりにもよって南条の最後の一人に宿るとはな。しかしあやつはまだ、完全には目覚めていない。せっかくの力も、眠っているのならばただの宝の持ち腐れよ。早いうちに始末してしまいたかったのに」
目を怒らせてぶつぶつと呟く男は、もう小萩の声も耳に入っていないらしかった。
その時、
「小萩さん!」
外から大きな声が自分の名を呼んだ。
蔵の重い扉が開いて、眩しい光が射し込んでくる。
すぐ近くの床には養い親たちが倒れているが、花音子、りくの、錠之助の姿はなかった。
光を背にした司朗は、神職が着るような白衣と浅黄色の袴を身にまとっていた。
弓を構え、矢をつがえた姿勢でまっすぐ立ち、眼鏡を外した鋭い眼がこちらを向いている。
鏃の先端が赤く染まっていた。
「その破魔の矢でおれを射ようというのか? このおれを? 未熟なおまえごときが」
矢を向けられてもまったく動じることなく、悪霊がひひひと笑う。
顔だけは猛々しい冬雪のものに戻っても、首から下は若い男の洋装のままなので、そのちぐはぐさが余計に不気味さを増していた。
司朗は無言のままだった。表情は固く、唇が一文字に結ばれている。
「小萩!」
「小萩、大丈夫か?!」
美音子と陸がやって来て、小萩を守るように取り囲んだ。彼らが司朗をここに連れてきてくれたのだろう。
しかし──
「おや、あの男には、おれの声さえ聞こえていないようだ。だとしたらこの姿も見えていないのだろう? これは傑作だ、それでどうやっておれを狙うというのだろうなあ!」
そのとおりだ。司朗はこちらに鏃を向けているが、それは小萩のいる方向に悪霊もいると推測しているに過ぎない。標的を定められてはいない。
あの状態で放っても、矢は見当違いのほうへ飛んでいくだけだろう。
小萩が手で触れれば、彼にも悪霊の姿が見える。
「おれに触れるか、娘? そうすればあの矢も当たるかもしれないぞ」
冬雪がにやにやと笑って挑発してくる。その顔に乗っている余裕は崩れない。
たとえ姿が見えたとしても、司朗の矢が当たるはずがないと高を括っているのか。それとも矢を放つと同時にまた黒い靄に戻るつもりか。
いや──いいや、違う。
小萩は口元をぐっと引き締めた。
悪霊はさっきも、新之輔に自分を見せてやれと言っていた。今も、これみよがしに小萩に向けて手を出している。
触れてほしいのだ。
おそらく、まだ力の戻っていない冬雪では、小萩に痛手を負わせることはできないのだろう。だから以前は錠之助を利用し、今はこちらから動くように誘導している。
落ち着いて考えないと。小萩が掌で触れればその姿は司朗にも見えるだろうが、反動で小萩は倒れて使い物にならなくなる。それではなんの意味もない。
破魔の矢で射貫くべきは、黒い靄ではなく、依り代のほうなのだから。
そうだ、司朗が言っていたはず。悪霊は小萩を脅威だと思っていると。
小萩の力は、「見える」「見せる」のたった二つ。
それが脅威だということは、それだけ依り代を見つけられたら困るということだ。その前に小萩を──この「目」を潰しておきたいと考えるほどに。
今こそ確信した。
依り代を破魔の矢で射貫けば、悪霊は消滅する。
「…………」
小萩は息を深く吸い込んだ。
そろりと一歩、悪霊へと寄っていく。ゆっくり手を持ち上げると、冬雪の口の角度がさらに上がった。
「小萩さん、ダメだ……!」
何をしようとしているのか察して、司朗が弓を構えたまま焦った声を出す。
が、触れる寸前で、小萩はぴたりと動きを止めた。相手の目が訝しげに眇められる。
その刹那、懐にしのばせていた反対の手で、南天の小枝を取り出した。
そのまま力いっぱい、冬雪の顔に向かって押し当てる。
「ギャアアアアッ!!」
司朗の血で萩の文字が書かれた紙を結びつけた南天の枝は、今回も悪霊に打撃を与えた。獣のような叫び声が、蔵の中に反響する。
冬雪の顔に、緑の葉をつけた南天の枝がぴったりと張りついて、そこからじゅわっと蒸気のような白い気体が勢いよく噴出した。
同時に、小萩を守るという役割を果たした紙が、ぱあっと粉々に飛散する。
冬雪の両手が顔を掻きむしるように動いたが、なぜか南天は決して剥がれない。
のたうち回る身体が収縮した。膨らんで細くなり、小さく縮んで輪郭を失う。
人の形から、黒い靄となる。
黒い靄は、南天をくっつけたまま床を這うようにして逃げ出した。小萩は一瞬も逸らさず目を凝らしてその動きを追った。弱った悪霊が行くところ──そこに必ず。
靄は床を這い、壁を伝って上へと向かっていく。
天井近く、建物の梁が垂直に交差している場所に、同じく黒い靄に覆われた何かがあるのを小萩は捉えた。
小萩には見えるが、他の人には見えないもの。
あれだ。
「司朗さん、あそこ!」
小萩はぴんと伸ばした人差し指で、その場所を指し示した。
すぐさま司朗が矢を上方へ向ける。
不思議なことに、キリキリと音をさせて弦を引き絞っていくにつれて、弓と矢が淡く発光し始めた。
司朗の構えはぴくりとも揺るがない。輝きを帯びる迷いのない顔はどこか気高く厳かで、今この瞬間、何か別の大きな力が彼を動かしているようだった。
もがくように移動する黒い靄は、梁の上にある靄のもとに辿り着くと、その中にひゅっと潜り込むように隠れてしまった。
しかし南天は消えていない。
「あれが依り代、南天めがけて射って!」
その瞬間、シュッと音がして、矢が放たれた。
空気を鋭く切り裂き、煌めく軌跡を描いて一条の線となる。まるで吸い込まれるがごとく、破魔の矢は依り代へと一直線に向かっていった。
バシン! という大きな音とともに、矢が南天ごと依り代を射貫いて打ち砕く。
瞬間、白光が激しく弾けた。
暗闇に眩い輝きが迸り、小萩は目を瞑って自分の顔の前に手をかざした。
悪霊の絶叫が轟くと同時に光が消える。暗がりの中、粉々になった欠片がバラバラと下に降り注いだ。
床に落ちたそれは、黒ずんだ石にしか見えなかった。もとはおそらく、一枚の石板だったのだろう。
「お……のれ、な、んじょ……め」
粉砕された石から、小さな呻き声が漏れてきて、小萩はぞっとした。
こんな状態になってまで、まだ黒い思念が完全には消えない。なんという恨みの強さ深さだろう。
「……おの、れ……」
これほどの妄執には、もはや言葉も祈りも無意味だとしか思えない。
長い間南条家の人々を苦しめた存在ではあるが、本当に「救われない」とはこういうことなのだろうと思うと、小萩はやるせない気分になった。
──と。
石の欠片の周りに、ふうっと人の姿が現れた。
まさかまだ悪霊に力が残っているのか、と咄嗟に小萩は身構えた。弓を下ろし、近くにまで来ていた司朗に肩を抱かれ、ぐっと引き寄せられる。
しかし、それは悪霊ではなかった。
現れたのは三人──花音子、りくの、錠之助だ。
「……この悪しき魂は、俺たちがともに地獄へと連れていこう」
錠之助が小萩のほうを向いてそう言った。
先日に見た凶暴な光はもうその瞳にはない。本来の彼はそうだったのだろうと思わせる、穏やかな顔つきをしていた。
静かな眼差しが小萩から弟の新之輔へと移って、錠之助はほんの少しだけ微笑んだ。
もう小萩が触れなくても、彼には弟の姿が見えている。
囚われていた魂が、ようやく自由になったのだ。
「すまなかった、新之輔」
「……兄さん」
新之輔は茫然としている。
「そこのお嬢さんの啖呵を聞いたよ。嫉妬や疑念は誰でも持っている、それは悪いことではない、と。……俺も、そう思ったらよかったんだな。俺はおまえが羨ましくて妬ましかったのに、自分でそれを認められなかった。恥だと思い込んでいた。無理に押さえつけたから、余計に歪に膨らんだ。胸の片隅で否定する声は小さすぎて、もう一つの声のほうに負けてしまった」
──弱いというのは罪ではない。大事なのは、自分がその弱さを受け入れられるかどうかじゃないですか。
司朗もそう言っていた。
大事なのは自分の弱さを受け入れて、乗り越えて、その上で前へと進むこと。
「──遅いんだよ、馬鹿兄貴。阿呆。間抜け。堅物。このトンチキ」
新之輔が口をへの字にする。拗ねた「弟」の顔で子どものような悪態をつかれ、錠之助は苦笑した。
「陸」
りくのが優しい声で呼びかける。
陸が震えながら一歩ずつ近づいて、そっと手を伸ばした。
我が子を抱きしめるように、りくのは両手を広げた。今度こそ、その腕がふわりと陸を包み込む。
実際に触れ合うことはなくとも、母子は喜びに満ちた顔で目を閉じた。
「かかさまは、犯した罪を償ってから天へとまいります。時間がかかるかもしれないけれど、お許しが出ましたら、すぐにおまえのところに行きますからね」
「うん……うん、かかさま。おれ、いつまでも待ってるよ。かかさまが来てくれるまで、ずっとずっと、待ってるから」
陸は甘えるように母親にくっついて、そう言った。
「……ねえさま、ごめ」
「言っておくけど、謝罪は結構よ」
目を伏せる花音子に対して、美音子はつんと顎を上げた。
その強い口調に花音子がますますうな垂れる。
美音子は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「──謝らなくていいのよ。そんなことされたら、私まで謝りたくなっちゃうじゃない。この私に頭を下げさせる気? 花音子は笑っていればいいの。そうしたら私だって笑えるわ。何があったって、これから先もずっと、花音子は誰より大切な、私の可愛い妹なんだから」
「ねえさま……」
花音子も、双子の姉とそっくりな表情になった。
「──すまなかった。ありがとう」
そう言い残して、三人の姿が足元から徐々に消えていく。
それとともに、散らばった石の破片が塵のようになって浮き上がり、空中に消失していった。
南条を呪う声も、もう聞こえない。
しばらく、沈黙が落ちた。
「……終わったな」
ややあって、新之輔がぽつりと言った。
「これでもう、心残りはないわ」
美音子が清々した顔で笑う。
「ほっとしたら、気が抜けたなあ」
陸が少しだけ寂しそうに呟いた。
「皆さん……」
よかったですね、と単純には言えなくて、小萩は言葉に詰まった。
悪霊に使役されることはなくなったとはいえ、彼らの兄、妹、母は、これからまた試練の道のりがあるのだろうから。
「いいんだ。喜んでくれ、小萩。俺たちはやるべきことをやった。もうこの現世に留まる必要もない。本当にありがとう。すべて、おまえたちのおかげだ」
「えっ……」
新之輔に微笑まれて、小萩は目を見開いた。
──そんな、まるで別れの言葉のような。
「なに今さら驚いてるのよ。こうなることは最初から判ってたじゃない。私たちは幽霊よ? いつまでも彷徨っているのは正常じゃないの。責任は果たしたんだから、さっさとあの世に行かないと」
さっさと買い物に行かないと、というような気軽な口調で言われて、小萩はさらにうろたえた。
美音子の言うことはもっともだと思うし、成仏できるのなら彼らのためにはそれが良いことなのだろうとも思う。でも、でも。
こんなにもすぐ? こんなにもあっさりと?
「もしもいつか生まれ変わったら、来世はおれの姉ちゃんになってくれよ、小萩。その時は一緒に飯を食べよう。な?」
陸は頑是ない子どもを宥めるような顔をしている。
「ま、待って。待ってください。だって」
小萩はおろおろしながら引き留めた。
だってまだ心の準備ができていない。まったく、できていない。こんな唐突な別れになるとは、思ってもいなかった。
というか、なんとなく三人はこれからも近くにいてくれるような気がしていた。
「……小萩さん」
肩に置かれた手が小さく動き、ぽんぽんと軽く叩かれた。
小萩の顔を見て、眼鏡をかけていない司朗の目が柔らかく細められる。
「つらいかもしれませんが、ここは笑顔で見送ってあげましょう。この場所に留めるのはかえって酷ですよ」
小萩は眉尻を下げ、口の形を曲げた。強く結んだ唇が、小さく震えている。
三人と向かい合い、姿勢を正した。
喉が塞がって、なかなか言葉が出てこない。それでもなんとか、つっかえながら声を絞り出した。
「み……皆さん、い、今まで、お世話に」
「いや世話になったのは俺たちのほうだから」
「あんた、すぐに頭を下げるその癖、いい加減に直しなさいよ」
「おれ、小萩の泣き顔には弱いんだ。司朗の言うとおり、笑ってくれよ」
こんな時まで、三人はいつもと変わらなかった。
ずけずけと言いたい放題で、勝手なことばかり言って、小萩に押しつけるだけ押しつけて、消えてしまう幽霊。
でもいつでも率直で、頼もしくて、優しかった。
大好きだった。
笑おうと思って口を無理やり上げたら、逆に目からは涙がぽろっとこぼれた。
「うっ……し、新之輔さま、美音子さま、陸ちゃん……ど、どうか、いつまでも、おっ、お元気で……」
「悪い、俺たち死んでるんだ」
「まったく最後までしまらない子ね!」
「鼻水出てるから拭いたほうがいいぞ」
もう自分ではどうにもならず、ぼろぼろ涙を落とし始める。
三人はそれを見て、揃って呆れる顔をした。
それがますます悲しくて切ない。別れを受け入れなければと思う反面、もうこんなやり取りはできないのだと思うと、たまらなく寂しくなってしまう自分が情けない。
すっきりした気持ちで旅立ってもらわなければいけないのに。
「わ……わたし、これからも、がん、頑張ります……皆さんに、叱られない、ように、もっとしっかりします、から……あ、安心して……ください」
意思表明するそばからべそべそ泣いている。
三人は顔を見合わせて、しょうがないなというように笑った。
「──さっきの凛々しい姿は見惚れるくらい恰好よかったぞ。これからも司朗と仲良くな」
「南条家の嫁らしくね。小萩なら大丈夫よ。ちゃんと見ていてあげるから」
「今度小萩を苛めるやつがいたら、おれが罰を当ててやるからな!」
三人分の手が伸びてきて、撫でるように小萩の頭に触れた。
冷たくて温かい感触に、また泣けた。
「じゃあな」
優しげな声と笑顔を残して、陸が、美音子が、そして新之輔の姿が、ゆっくりと消えていった。
小さな光の粒子が三人を包み込み、空へと昇っていく。
一瞬後、そこにはもう何もなかった。あの三人がいたことを示す痕跡は一つとしてない。彼らなどまるで最初から存在しなかったように。
扉から射し入る陽の光が、舞い上がった埃をきらきらと輝かせている。
がらんとして、他には誰もいない。いなくなった。
──行ってしまった。
うわあん、と声を上げた小萩の身体を、司朗の両手がそっと包み込む。その胸に取り縋って思いきり泣いた。
司朗は何も言わず、黙って抱きしめてくれていた。
小萩が泣き止むまで、ずっと。




