対峙
ギイ、と重い音を立てて、蔵の扉が開いた。
後ろから勢いよく押されて、小萩はつんのめるように中へと足を踏み入れた。力を入れて踏みとどまり、顔を上げる。
よく見えないのは、頭がくらくらするせいばかりではないようだ。まだ午前中だというのに、扉の上部にある鉄格子付きの小窓しかない蔵の内部は、開いた扉から明るい陽射しが入ってもなお、暗かった。
埃っぽい匂いと、ひんやりと肌寒い空気が充満している。
そればかりではなく、ピリピリと突き刺さるような不穏さも感じる。
「なんだい、暗いねえ。これじゃあ何があるのかよく判らないじゃないか」
「どこかに明かりがあるはずだ。それを探して──」
養父の言葉は最後まで続かなかった。
バタン! と大きな音と同時に蔵の扉が閉じたからだ。
その場をふつっと闇が支配する。
「な、なんだ! おい、どうして扉を閉めた?!」
「あたしじゃないよ! どうして──外には誰もいなかったのに!」
養父と養母が驚いて、互いを責めるように怒鳴り合った。
声が半分裏返っているのは、彼らも困惑が大きいからだろう。分厚くて重量もある観音開きの蔵の扉が、あんなにも勢いよく両側から閉じられるなんて、どう考えてもおかしい。
人の力では、そんなことはできない。
「小萩……」
小萩の傍らに立つ新之輔の声は緊張で張り詰めている。一緒に蔵に入ってきた彼もまた、ここに閉じ込められてしまった。
小萩は前方に視線を据えて、頷いた。
「──います」
後ろでぎゃあぎゃあ騒ぐ養い親たちのことは頭から抜け落ちた。
ここには、あの二人よりも恐ろしくて悪意に満ちたモノがいる。
「黒い靄か? それとも、誰かの姿になっているのか?」
「今は……」
言葉を濁したことで、新之輔には答えが判ってしまったらしい。苦笑して「あいつか」とひとりごちた。
蔵の中には、新之輔の幼馴染で、錠之助の婚約者がいた。
短い髪でワンピースを着た若い娘は、暗闇の中に咲く一輪の花のように立って、にっこりと笑っている。
暗すぎて周りに置いてあるものは輪郭すらはっきりと判らないくらいだというのに、なぜかその娘の姿は細かいところまではっきりと見える。小萩の目には、そのワンピースの柄が白い花であることさえ見て取れた。
娘はうふふと笑って軽やかにくるりと廻り、スカートの裾をひるがえした。
「よく来たわね」
口から出た声は、以前座敷で聞いた本妻のものとはまったく違っていた。
もとは同じ黒い靄でも、変じた姿によって声音や話し方まで使い分けることができるらしい。
……この声で、錠之助の耳に何を囁いたのか。
「あら、新之輔さんじゃないの。あたしの姿が見えないのかしら、残念ね。せっかくの再会なのだから、手を取り合って喜びたかったのに」
娘が目を向けている新之輔は、厳しい表情のまま小萩から離れない。その視線は幼馴染がいる方向とは微妙にずれている。
彼にはこの姿は見えていないし、声も聞こえていないのだ。
「本当はあたし、子どもの頃から新之輔さんのほうが好きだったのよ。あんな冴えない男、話をしてもつまらないし、退屈でしょうがなかったわ。ねえ、新之輔さんもお兄さんのこと、目障りでしょうがなかったんでしょ? たった一年先に生まれたからって次の当主の座が約束されているなんてひどい話よ、あんな能のない男に」
「……黙ってください」
くすくす笑いながら娘が垂れ流す毒を、小萩は強い口調で撥ねつけた。
新之輔には見ることも聞くこともできなくて幸いだ。幼馴染の記憶と思い出を、こんな言葉で汚されたくはないだろう。
「新之輔さまはあなたの言葉に惑わされたりしません。どんな姿をしていたって『本物』とは違う。あなたの虚言は新之輔さまには通じません、決して」
小萩が言い返すと、新之輔は指先でこりこりと頬を掻く仕草をした。
「まあ、ずいぶん肩入れすること。もしかしてあなた、新之輔さんに気があるの? そうね、あの男よりはずっといい男ですものね」
「そんなことありません、新之輔さまより司朗さんのほうがずっといい男です!」
「小萩……おまえ一体、悪霊となんの話をしてるんだ? なぜか俺に流れ弾が飛んできてるんだが」
小萩の声しか聞こえていない新之輔は、ちょっと傷つく顔になった。
「おい小萩、てめえさっきから何を一人でぶつぶつ喋ってやがるんだ?! 早くこっちを手伝え!」
「扉が開かないんだよ! 一体どうなってるんだい!」
養い親たちは、二人で扉に張りついて喚いていた。
勝手に閉じられた蔵の扉は、鍵もかかっていないのに押しても引いてもびくともしないようだ。
「……鬱陶しいわねえ」
娘の顔から笑みが引っ込んだ。
虫を見るような目を二人に向けて低い声を出し、さっと何かを払うように片手を動かす。
養父と養母の周りの闇が、ふわりと揺れた。と思ったら、彼らを取り囲むように三人分の人影が出現した。
花音子、りくの、錠之助だ。
養い親たちに三人の姿は見えないはずだが、彼らは揃って周章狼狽し、ひいっと掠れた悲鳴を上げた。
座敷での一件のように、見えなくとも異様な圧は感じるのだろう。それぞれ耳と頭を押さえているので、霊障も出ているらしい。
二人は床の黒板に倒れ込み、ゴロゴロと転がりながら痛い痛いと呻いた。着物の裾を乱し、泡を吹きそうなほどの苦しみようだ。
錠之助たちの姿は新之輔にも見えているのだろうが、「あれは自業自得だな」と醒めた口ぶりで言って、止めようともしなかった。
「い、いいんでしょうか」
「放っておけ。死にゃしないさ、たぶん。それよりもこちらだ」
「そうよ、あんな雑魚なんて興味はないわ。少し黙らせただけよ」
また笑いを取り戻した娘も不遜に言い放つ。
この悪霊は今までもこんな風に錠之助たち三人の霊を手下のように使っていたのかと思うと、小萩の胸になんともいえない不快感が湧いた。
「あたしたちだけでお話ししましょうよ。あんたの変な力で新之輔さんにもあたしを見せてあげるといいわ。この姿を見た時、その男がどれほど動揺してぶざまな顔を見せるか、楽しみね」
「その必要はありません」
わざわざ悪霊の言葉を新之輔の耳に入れることはない。見えなければそれでいい。
「あたしを見たら、その男も兄のようになるんじゃないかと心配なんでしょ? いくら口では正義ぶったことを言ったって、人は簡単に本性を曝け出すものよ。そいつが幼馴染に邪まな気持ちを一切持っていなかったと、あんたは本当に言いきれるの? 自分の兄に対してこれっぽっちも苛立ちを覚えなかったと? 人間なんてそんなお綺麗なものじゃないのよ。いくら上っ面を嘘で塗り固めても、少しヒビを入れれば、中から醜悪な本音が滲み出てくるんだから」
ふふふと朗らかに笑いながら、娘の顔がどろりと溶けるようにして崩れた。
「……!」
小萩はなんとか悲鳴を吞み込んだ。
そもそもこれは仮の姿、実体がないのだから、どんな形状になっても不思議はない。
「人の内面はいつだって、欲望と嫉妬で溢れているのさ。それをちょいと突いてやれば、誰でも簡単にボロを出す」
今度は、本妻の姿になった。
小袿の長い袖先から手を出して、小萩の胸のあたりを指差してくる。
「おまえだってそうなんだろう? おまえの中にはいつだって、おのれの境遇に対する不満と怒りがぐるぐると渦を巻いていたはずだ。同じ年頃の娘を見て、羨望を抱いたことがなかったとは言わせない。あかぎれだらけの手をして、あちこちに痣をつくり、いつも空腹を抱えていたおまえだ。親に大事にされ、いい着物に身を包み、不自由なく暮らす娘に対して、何を思った? 羨ましい、妬ましい、悔しい、腹立たしい──そうだろう? 呆気なく死んだ実の親を、朝から晩までこき使う養い親を、のうのうと笑う周りの連中を、そして運命というものを、心の底から恨んだだろう? 自分ばかりがどうしてこうも不幸なのかと。他のやつもみんな不幸になればいいのにと」
小萩は唇を噛みしめた。ぐっと握った拳が小さく震えている。
けたたましい笑い声を立てる本妻の顔がぐにゃりと崩れた。
今度変化した顔は若い男だった。
育ちの良さそうな洋装の男。……たぶんこれが美音子の婚約者で、花音子の片恋の相手だ。
このまろやかな声が、病弱な花音子をどんどん追い詰めていったのだろう。
「醜く、浅ましく、欲深い。それが人の本質だ。裏側に隠されたそれを、私は表に引っ張り出してやっているに過ぎない。私の姿はあの三人の嫉妬、憎悪、未練を形にしただけ。耳に囁いたのは、あいつらの疑心、憤怒、執着を言葉にしただけ。それらはもともとあいつらが持っていたものだ。おまえも目を背けないでちゃんと見てごらん。さあ、何がある? 養い親への憎しみか、この先への不安か、司朗への不信か」
もう我慢ならない。
小萩はきっと男を睨みつけ、片足で床を乱暴に踏み鳴らした。
どん! という威勢のいい音がして、新之輔が目を丸くする。
「ありますよ!」
大声で怒鳴りつけると、男の顔から笑みが消えた。
「そんなの、あるに決まってるじゃないですか! わたしは聖人君子じゃないんだから、すべてを笑って許すことなんてできません! 羨ましいとも妬ましいとも思ったことはたくさんあります! どうして自分だけが不幸なのかと自己憐憫に浸ったことも数えきれません! 醜く、浅ましく、欲深いなんて、そんなことはあなたに言われるまでもなく、自分でよく知っています!」
おまけに臆病で、鈍くさくて、うじうじとすぐ落ち込んで、今みたいに突然切れ散らかす。小萩はそういう困った娘なのだ。
そんなことは判っている。前から知っていた。
「それでも、そういうところを少しでもなくしたいと思う気持ちだってあります! そのままの自分でいいなんて思っていません! 悪いところはいっぱいあるけど、少しでも良いところを見つけたいと考えているんです! こうでありたいと望む自分に近づきたいと思うんです! それが人の素晴らしいところでもあるんじゃないですか?!」
いつだって自信がなかった。自分の良いところなんて、どこにあるのかさっぱり判らなかった。何もできない役立たず、小萩は自分自身にそういう呪いをかけ続けていた。
……でも司朗は、こんな小萩を認めてくれて、少しずつ「良いところ」を掬い上げて教えてくれた。
美音子も、陸も、新之輔も、いつも背中を押してくれていた。
だから小萩も、自分で自分を褒められるところを、頑張って探したい。
彼らが受け入れてくれた「小萩」を自ら貶めるのは、相手に対する侮辱だと思うから。
そうやって人はいくらでも変わっていける。
過ちを犯したら正せばいい。失敗したらやり直せばいい。間違えたなら次はどうすればいいか必死になって考えればいい。
最初から完璧なものなんてないのだから、理想を目指して努力することがなによりも大事なのではないか。
「真っ白か真っ黒でなければいけないんですか? そんなこと、あるわけない。人の本質はそんなに薄っぺらいものじゃない。嫉妬や疑念は、誰だって持っています。未来なんて誰にも判らないのだから、不安になるのは当たり前。そんなの、どっこも、何一つ、悪いことじゃありません。真に悪いのは、そういうものを歪めて増幅させる行為のほうです。あなたがずっとやっていたことです。あなたに人の心なんて判るはずがない。優しさも愛情も理解しようとしない、ただの『邪念の塊』だからです!」
「うるさい!!」
表情を歪めて怒鳴る男の顔が、奇妙にだぶり始めた。
端正な若い男の顔の上に、もう一つ別の顔がぼんやりと重なって見える。
ぼうぼうに乱れた髪を後ろで無造作に括った、さながら荒武者のような容貌の男──吊り上がったその眼は怒りに満ち、歯を剥き出して小萩を睨みつけている。
これが、冬雪。悪霊の本来の姿。
「おまえなどに何が判る! おれは南条のやつらに陥れられたんだ! 裏切られ、見下され、挙句に捨てられた! おれの努力と苦労で築いたものを、すべて掠め取られた! 家を追われたおれがどれほど惨めな思いをしたと思う?! おまえもいつか同じ目に遭うぞ。あの男もまた、自分のことしか考えてはおらぬのだ。家族を亡くしても平然としていただろう、あれはそういう人間だ。おまえがいなくなったところで、すぐにまた植物を眺めることに気を取られるだろうよ!」
「あなたこそ、司朗さんの何が判るんですか。人の醜さ、浅ましさ、欲深さは隠されていると言っていたのに、悲哀や、慈愛や、死を悼む気持ちだって、胸の奥に隠されて表に出ないことがあると、なぜ判らないんですか?」
屋敷の仏壇には、毎日いつの間にか、必ず綺麗な花が供えられていた。
誰も見ていないところで、一人そこに座る司朗が、両親と兄たちに何を思っていたのか、何を語らっていたのか、小萩は知らない。
知らなくてもいいことだと思っている。
「わたしはあなたの言葉よりも、今まで司朗さんと過ごしてきた時間のほうを信じます。司朗さんがどういう人かは、ずっと見てきました。言葉を交わして、触れ合いました。わたしは、司朗さんが信じてくれた自分の目と心を信じます!」




