来訪者
そして翌日。
朝から緊張で強張った顔つきをしていた小萩に、司朗は「これを持っていてください」と、一枚の紙を手渡した。
「なんでしょう?」
目を瞬いて受け取り、折り畳まれたそれを開く。
真っ白な紙の真ん中には、赤い文字で「萩」と書かれてあった。
「萩の押し花の代わりです。梵字でも記したほうが魔除けとして効果があるかもしれないんですが、そちら方面には詳しくないもので。今度もまた野守草に小萩さんの身を守ってもらおうかと」
「あ、ありがとうございます……あの、司朗さん、もしかしてこの赤い色……」
心配げな顔をする小萩に、司朗はバツが悪そうに頭をこりこりと掻いた。
その指先には包帯が巻きつけてある。
「すみません、血文字なんて気味が悪いと思いますが、少しだけ我慢してもらえますか。たぶん悪霊がいちばんイヤがるのはそれだと思うので」
「何をおっしゃってるんですか、もう! そのためにご自分の指を切ったんですね?! こんなに血を出して痛かったでしょうに……傷は大丈夫なんですか?!」
小萩に叱られて、なぜか司朗は嬉しそうに目尻を下げた。
「大丈夫です。どちらにしろ、破魔矢の鏃には僕の血を塗っておく予定なんです。確実な方法が判らない以上、やれることはすべてやってみようと思って」
依り代がちゃんと見つかるのか、いや見つかったとしても、本当に破魔矢でそれを射貫けば悪霊は消滅するのか、そこからして定かではない。
司朗が「たぶん」を連呼するのは、彼も確証がなくて不安だからだろう。
もしも見つからなかったら? 失敗したら? あちらから反撃してきたら?
心配事は限りなくある。しかしのんびりしている暇はない。司朗の身に何かあったらと思うと小萩だって怖くてたまらないが、今はこれで進んでいく他にないのだ。
「僕はこれから身を清めて、衣服を改めます」
「身を清める?」
「一度は神に捧げたものを借りるんですから、こちらも相応の敬意を払わなければね。大体僕は弓矢なんて持ったこともないので、人ならざる力に頼るしかありません。こういう時こそ、先祖にツケを払ってもらわないと」
夏雲のことを言っているらしい。
司朗はあくまで悪霊退治の主役は破魔矢で、自分はその補助役、と考えているようだった。
「お手伝いしましょうか」
「いえ、気持ちを落ち着けないといけないのに、小萩さんが近くにいると平常心を保てませんから」
そんなにうるさく話しかけたりはしないのだが。
「しばらく待ってもらうことになりますが……その間、これを預かっていてもらえますか」
着物の袂から出したのは、先端が輪になった真鍮の鍵だった。
「蔵の鍵です。あちらが邪魔をしないよう、それにも少し血をつけておきました。そうしておけばそうそう手出しはできない……と思います」
これも小萩の身を守るためのものなのだろう。
相変わらず自身のことは気にしない司朗がもどかしい気もするが、昨夜の彼の狼狽ぶりを思い出し、黙って受け取ることにした。
「判りました。お預かりします」
紙と鍵を胸に抱いて、しっかりと握りしめる。司朗はほっと目元を緩めた。
「僕が戻るまで、一人で蔵に入ろうとしたらダメですよ」
「そ、そんなことしません……」
当たり前のことを注意されて、さすがに赤くなる。司朗は小萩のことを、「目を離すと何をするか判らない危険人物」だとでも思っているらしい。
「子どもじゃないんですから」
「? もちろん」
少し唇を尖らせて言い返したら、司朗は何を言っているのかというような、不思議そうな顔をした。
「僕は、結婚した時から小萩さんを子どもだと思ったことは一度もありません。だからこそ早くこの件を解決したいというのもあるんですよ。僕の忍耐にも限りがあるので」
意味ありげなことを言って、微笑する。
小萩はさらに赤くなった。
***
念入りに身を清めるため、支度が済むまで一時間ほどかかるという。
たかが一時間、されど一時間だ。ここからが正念場だと思うと、何かをする気にはなれず、かといって何もしないでいるのも落ち着かない。
庭に出て南天の様子を見にいくと、ほぼ枯れた姿が目に入って胸が苦しくなった。
まるであの靄が発する黒々とした思念に食い尽くされようとしているかのようだ。残るわずかな緑の葉が、必死に抵抗しているように見えていじらしい。
「……わたし、頑張りますから」
小さく呟き、幹を撫でるため、そっと手を出す。
すると突然、枝の先端がぽきんと折れて、掌の上に落ちた。
「えっ?!」
小萩は慌てふためいた。
まだ触れてもいないのに、どうして折れたのか。しかも水気が抜けて完全に枯れてしまったところではなく、まだ緑の葉がついている枝である。
枝を握っておろおろしたが、一度離れたものがまたくっつくはずもない。自分が話しかけたせいだろうか、とんでもないことをしてしまった、と青くなっていたら、風も吹いていないのに、南天の葉がカサッと小さな音を立てて揺れた。
その様子を見て、不意に思いついた。
「も、もしかして、わたしに、くれた、の……?」
南天に意志というものがあるのかは判らないが、これはまるで、「持っていけ」と言っているようではないか。
ただの偶然かもしれない。しかし実際のところはどうあれ、小萩はそう思うことにした。
深々と頭を下げ、「ありがとうございます」と礼を述べる。
戦うのは小萩と司朗と三人の幽霊たちだけではない。この家のみんなで、悪霊に立ち向かうのだ。
南天の枝に、司朗からもらった萩の文字が書かれた紙を細く折って結びつけた。蔵の鍵とともに大事に懐にしまい、上からぽんと軽く叩く。
司朗の愛する植物も、彼を守ってくれますように。
それからまた屋敷のほうに戻ろうとしたら、視界の端をふわりと横切る人影が見えた。
──新之輔だ。
彼が向かっているのは蔵のほうだった。
今朝がた三人に依り代と蔵について説明した際、その時は自分たちも絶対に一緒に行くと勇み立っていたので、やはりじっとしていられないのだろう。
小萩は小走りで彼を追いかけた。
「新之輔さま」
蔵に続く飛び石の手前で声をかけると、振り返った新之輔は気まずそうに苦笑した。
「見つかっちまったな」
「今はまだ、あまり蔵には……」
近寄らないほうがいい、と言いかけたのを手で遮って、新之輔は頷いた。
「判ってる。すまん、どうしても落ち着かなくてな。遠目に眺めるだけにしようと思ったんだよ」
いかにも言い訳じみているが、気持ちは理解できる。それ以上咎めるようなことは言わずに、話の方向を変えた。
「美音子さまと陸ちゃんは?」
「あいつらもそのあたりをフラフラしてるよ。俺と同じで居ても立ってもいられないんだろう。ずっと長いこと、なすすべもなく見ているしかなかったんだから、無理もないさ。……ようやくだ。ようやく尻尾を掴めた。今まではそこに尻尾があることさえ判らなかったんだから、大前進だよ」
いつも余裕のある態度でいることが多い新之輔が、興奮の抑えられない顔つきをしている。それほどまでにじれったい気分でい続けたということだろう。
新之輔はまっすぐ小萩のほうを向いて、真面目な表情になった。
「──ありがとう、小萩」
真情のこもった声音で言われて、うろたえてしまった。新之輔はからかうように笑っていないと、対応に困る。
「あの、いえ、わたしよりも司朗さんが」
「もちろん司朗にも礼を言う。しかし小萩は俺たちが勝手に巻き込んで、振り回してしまったからな。最初のうちは、便利なやつが来たと思ったくらいだったんだが──」
「そんなことを思ってたんですか」
冗談交じりに膨れてみせたら、新之輔もやっと笑顔になった。
「いや、でも、今は本当に感謝してるんだ。小萩がこの家に来たのが何かの導きによるものだとしても、そこから考えて動いたのは小萩自身の意志だ。俺たちはみんな、おまえの優しさに救われた。ここにいるのが小萩でよかった。司朗の嫁になったのが小萩でよかったよ」
率直な物言いに、少し赤くなる。
新之輔は微笑んでから、蔵のあるほうへと視線を向けた。
「……昨夜のおまえたちの言い争いを見ていて痛感した。俺も生きていた頃、こんな風に兄と喧嘩をしていればよかったんだなあ、ってさ。兄弟だからって俺と兄は違う人間だ、言わなきゃ伝わらないものがあるに決まってる。俺たちは互いに、もっと言葉を尽くして話し合うべきだったんだ」
閉じこもる前に、勝手に決めつける前に、諦める前に。
「たぶん美音子と陸も同じことを思っただろう。双子の妹を同一視せず喧嘩をしてでも腹を割って話していればよかった、もっと素直に母親に甘えて弱いところを見せていればよかったと。……俺はあの時、兄を叩きのめしてでも止めて、馬鹿野郎ふざけんなって怒鳴りつければよかったんだ」
小萩から見える横顔は寂しげだった。いや、たぶん本当に寂しいのだろう。
「だが、いくら悔やんだところで、俺たちはもう、改めることはできないからな」
そこまで言うと、新之輔は顔を戻し、小萩と目を合わせた。
「生きている間なら何度でもやり直せるし、新しく始めることもできる。……だから小萩、おまえは諦めるな。絶対に死ぬんじゃないぞ」
「……はい。肝に銘じます」
人間である以上いつかは死ぬのだろうが、少なくともそれは今ではない。
小萩は神妙に返事をした。
「黒い靄なんかに負けるなよ」
「はい、精一杯やります。わたしは司朗さんと違って、自分の目以外、なんの武器もないけれど」
そう言うと、新之輔は面白そうに笑った。
「何言ってるんだ。今の小萩には、それよりももっと大きな武器があるじゃないか」
「わたしにですか?」
「そうさ。その武器を携えて、司朗とともに戦うんだろう?」
「それって……」
どういう意味ですか、と聞こうとした時だ。
「おやまあ小萩、またそんな何もないところをじっと見て。おまえのその悪い癖はまだ直ってなかったのかい?」
聞き覚えのあるその声に、ぎくりと硬直した。
条件反射のように身が竦む。長い間に渡って心と身体に刻みつけられた記憶はそう簡単に薄れはしない。自分ではどうにもならない恐怖心が蘇って、足元から震えがきた。
「久しぶりだねえ、小萩」
自分の後ろから養い親の二人が笑みを浮かべて向かってくるのを目にして、小萩の顔からざあっと血の気が引いた。




