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新之輔

 


 宣言どおり、司朗はそれからあっという間に支度を済ませて屋敷を出ていってしまった。

 以前も思ったが、彼は一度決めたら非常に腰が軽い。おっとりしているように見えて、実はかなり行動的な性格なのかもしれなかった。

 どんなに急いでも帰るのは明日の夜だという。無理はしてほしくないが、なるべく早く戻ってきてもらいたい。小萩の考えも大概矛盾している。

 待っていると時間が長く感じるもので、あれこれ仕事を見つけて忙しく働いていても、時計の針の進みはいつもよりずいぶんとゆっくりだった。

 美音子と陸は、司朗に請け負った手前か、日中ずっと小萩の傍にぴったりついていてくれたが、夜になると二人とも「もう限界」と言い残して消えてしまった。いつもよりも長いこと姿を見せていたから疲れたのだろう。最後のほうは半分くらい身体が透き通っていた。


 一人になると、なおさら静寂が身に染みる。このまま眠る気にもなれず、小萩は縁側に出た。


 ここで司朗と話した時、舟のようだと自分が評した月は、今日がちょうど満ちる日だったようだ。

 輝く真円が皓々とした明かりを地上に届けて、庭の植物たちの輪郭を白く浮かび上がらせていた。

 季節はもう冬に入り、冷たい風がひゅうっと吹きつけてくる。

 司朗も寒い思いをしているのだろうか。風邪を引かないといいのだが。


「……あ」


 この空の下のどこかにいる司朗の身を案じていた小萩は、暗闇の中、コブシの木のところに軍服姿の人影があることに気がついた。

 幽霊はそれぞれ好きな場所というものがあるのかなと思いつつ、そちらに向かって呼びかける。


「新之輔さま」


 腕を組み、幹にもたれるようにして立っていた新之輔は、少し笑って「眠れないのか?」と返事をした。しかしその笑い方はいつもと比べて陽気さに欠ける。

 沓脱石の上に置いてあった草履を履いて、コブシの木のほうへ歩いていった。


「身体が冷えるぞ、小萩」

「丈夫なので平気です。新之輔さま……も、平気そう、ですね」

「おかげさまで」


 肉体を持たない新之輔がおどけるように言って軽い笑い声を立てる。

 小萩は笑っていいかどうか判らなかったので、曖昧な表情しかできなかった。


「……ここで何を考えてらっしゃったんですか?」

「まあ、いろいろとね。冬雪ってのはどういう人間だったんだろうとか……夏雲ってやつは、自分の兄貴のことをどう思ってたんだろう、とか」


 新之輔の視線が横へと逸れた。


「そりゃ、腹を立てただろうし、許せないとも思っただろうさ。信じられない気持ちも、悔しさも、嘆きもあったはずだ。──でも、どうしようもない罪悪感も抱いていたんじゃないかな」

「罪悪感、ですか。兄を止められなかったことに対しての?」

「そうだな、もちろんそれもあるだろうが……」


 新之輔は小さな声で言って、顔を上に向けた。

 闇の中にある美しい月も、彼の目にはあまり映っていないらしかった。


「これはあくまで想像だがね……夏雲ってのは、呪詛を返したり、答えに辿り着けそうな子孫のために手がかりを示してやれるようなやつなんだろう? それこそ、『人にはない力』の持ち主だ。だとしたら陰陽師として、兄の冬雪よりよほど才能があったということじゃないか? もしも本当にそうだったなら、冬雪は焦っていただろうな。いつ、自分の立場をそいつに奪われるか判らないんだから。……案外、冬雪が人の道を外れるようなことをしたのは、それが理由だったんじゃないのかねえ」


 頭上に視線を向けながら訥々と語る。

 新之輔は無表情だったが、その声には隠しきれない苦さがあった。

 小萩は少し迷ったが、思いきって訊ねることにした。


「……魂を囚われているもう一人の方は、新之輔さまのお兄さまですか」


 新之輔は夜空から小萩へと目を移して、苦笑を浮かべた。


「さすがに小萩でも判るか」

「小萩でも、は余計ですよ」


 むくれてみせると、新之輔が笑った。今度はいつもの彼の笑い方だったので、小萩はほっとした。


「司朗ももうとっくに気づいているんだろうがな。二人とも、今まで触れないようにそっとしておいてくれたんだろ? 事情を知っておきたい気持ちはあっただろうに、そういうところ、おまえたちは似たもの夫婦だよなあ」

「そ、そうですか?」

「……俺、今、そんな恥じらうようなこと言ったっけ」


 夫婦、という言葉に反応してぽっと赤くなった頬を両手で押さえたら、新之輔は呆れる顔をしてから、からかうように口の端を上げた。


「まったく、小萩は健気なくらい司朗に一途だな。普通、こんないい男が近くにいたら目移りしそうなもんだが」


 不意に、その笑みが歪んだ。

 俯きがちになり、顔の半分が見えなくなる。


「──小萩みたいな娘が俺の傍にいたら、結果は違ったのかねえ」


 独り言のようにぽつりと呟いた言葉は、以前司朗が言っていたことと似ていた。

 眩い月はすべてのものに等しく光を分け与えるが、幽霊である新之輔の身体はその恩恵にあずかれない。明るい輝きを反射させる周囲から彼だけが弾かれているようで、それはひどく寂しく哀しい光景に思えた。


「兄は……錠之助(じょうのすけ)というんだが、俺とは一つ違いだった。子どもの頃はそれなりに仲が良かったし、面倒見のいいしっかり者の兄のことを、俺は好いていたよ」


 しかし兄弟はその性質がまったく異なっていた。兄は真面目で弟は要領がいい。兄は無口で弟はよく舌が廻る。兄はコツコツと地道に物事に取り組むが、弟は一度やると大概のことはすぐに呑み込んでしまう。

 幼い頃の兄は「勤勉」と言われ、弟は「お調子もの」として揶揄と叱言の対象だったが、その評価は二人が成長すると逆の形に変化した。

 一方は不愛想で一方は社交的、一方は鈍重だがもう一方には才覚がある、というように。


「兄は確かに不器用だった。だが少しずつ時間をかけてしっかりと自分のものにする堅実さがあった。俺は器用に一通りこなせるがすぐ飽きる。ただの性格の違いだ、どちらが良くてどちらが悪いということじゃない」


 それでも周りは優劣をつけたがる。この場合、「劣っている」とされた兄のほうは、次第に自分の内側に閉じこもるようになっていった。

 兄弟の間に壁が生じて、話をしようとしても避けられ、弟を見る目には疎ましさが混じった。


「今になって考えてみたら、その頃から兄の耳には『姿なき声』が聞こえていたのかもしれない。だが当時の俺はどうしたらいいのか判らなくてね、手をつけかねていた。兄と対決する気はさらさらなかったし、だからといって自分を変えられるものでもない。ただ、これ以上近くにいるのは、おもに兄にとってよくないということだけは判った。それで軍に入って家を離れることにしたんだ」


 軍での生活はそれなりに大変だったが、馴染んでしまえばそう苦痛でもなかった。

 華族の特権で多少の融通はきくし、坊主頭にならなくても屁理屈で切り抜けられる、と新之輔は皮肉っぽく笑って自分の短髪を指差した。


「兄とはもう一生会わなくてもいい、と思っていた。あちらも俺の顔なんざ見たくないだろうからな。だが、兄の婚約が決まったという連絡が来て」


 婚約の相手は、兄弟の幼馴染でもあった娘で、子どもの頃は三人でよく遊んだ仲だった。

 良家のお嬢さんで苦労を知らず、朗らかで明るい女の子。新之輔にとっても可愛い妹のような存在だった。


「親にうるさく言われたこともあるし、そういう相手じゃさすがに俺も手紙一つで済ませるわけにはいかない。二人を祝うため、里帰りした」


 実家の庭で久しぶりに再会した幼馴染は、もうすっかり年頃の娘へと様変わりしていた。

 長く伸ばしていた髪を短く切り揃え、昔は窮屈だとこぼしていた着物は、流行りのワンピースになっている。

 新之輔は彼女に挨拶をして、以前よりも軽やかになった姿を褒めた。彼女は数年ぶりに会った新之輔を見て驚いたような顔をしたが、にこやかに礼を言った。

 新之輔さんも素敵になった、見違えた、と返した彼女は、弟を見るような目をしていた。それが判ったから、新之輔も笑って受けた。年齢はあちらのほうが下だが、実際もう少しで本当の弟になるのだし。

 幼馴染も最初からこの婚約に乗り気だったということは聞いている。兄弟を表面的に見比べて勝手なことを言う連中とは違い、どちらのこともよく知る彼女は、きちんと一人ずつの良い点悪い点を把握して、その上で兄を選んだ、ということだ。


 ──こんなに立派になるなら、婚約相手が新之輔さんでもよかったかもね。


 だから幼馴染が出したその言葉は、笑い話にすることが前提の、単なる軽口に過ぎなかったのだろう。

 結婚という人生の転機を迎えて、つい口が滑るくらい気持ちが浮き立っていた彼女を、責めることはできない。

 間が悪かったのだ、何もかも。

 婚約を寿ごうと新之輔が口を開こうとした時、ガシャン、という音が耳に入った。


「……そちらを見たら、兄が幽鬼のようにひっそりと立っていた。俺と幼馴染を見る目には、はっきり判るほどの殺意があったよ。俺への憎悪に加えて、婚約者にも裏切られたと思ったんだろう。離れていたって意味はなかった。いつの間にか、兄の内側で育っていたものは、もう自分でもどうしようもないほど膨れ上がっていたんだ」


 兄もなんとかそれを抑えようと努力はしていたのかもしれない。

 しかしその努力は、自分の婚約者の言葉を聞いた瞬間、無残にも弾け飛んでしまった。


「兄の手には、日本刀があった。父親が収集して飾っていたものだ。俺はそれを見た時、急になにもかもが虚しくなってさ」


 これでも新之輔は軍人だ。本気でやり合えば余裕で勝てた。

 しかしこちらの言い分にまったく耳を貸さず、自分の婚約者も信じようとしない兄を見たら、何もかもがどうでもよくなった。

 諦めが早いのは、昔兄にも指摘された、新之輔の大きな欠点である。


「ただでさえその頃の俺はちょっと厭世的になっていてね……軍内部の嫌なところも散々目にしたし、退廃的な華族のあり方にもうんざりしていた。女も男も俺の見た目や肩書のほうにしか興味を示さないし、世界戦争のおかげで景気がよくなったと喜ぶようなやつらばっかりだ。その上、実の兄とも何一つ判り合えない。意義が見いだせないこんな生ならもう手離してもいいかな、と思って」


 刀を振り上げる兄に、なんの抵抗もしなかった。

 血飛沫が舞って、幼馴染が悲鳴を上げた。

 兄はそちらを鬼気迫る顔で睨みつけたが、腰を抜かしてへたり込む自分の婚約者に刀を向けることはなかった。

 震える手が兄の逡巡を物語っていて、ああ本当に彼女のことが好きだったんだなと、血だまりの中で新之輔は思った。

 兄は昔から年下の幼馴染に優しかった。不器用なりに、懸命に好意を伝えようとしていた。それをからかう弟に拳骨を落として、どうしたら彼女が喜ぶかと相談を持ちかけてきたりした。

 兄と彼女が幸せな家庭を築くのを、心から願っていた。

 三人で笑い合った時間も確かにあったのに、どうしてこうなってしまったのか。


「その後、兄も同じ刀で自害したらしい。そして魂を喰われた、ということかな。まったくどこまで俺に迷惑をかけりゃ気が済むんだか」


 新之輔は肩を竦めたが、その表情は翳りを帯びている。

 美音子と陸同様、彼にとってもまた、兄は大事な人なのだ。


「……お兄さまを救ってさしあげましょう、新之輔さま」


 ぐっと拳を固めて小萩が言うと、新之輔は目元を緩めた。





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