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 十九時近くなったころ、先輩がテーブルの上の課題を確認する。


「少しは進んだな」


 先輩は数学の問題集一冊を埋め、歌の練習表も埋め、私がちんぷんかんぷんの隣国の言語のエッセイをさらっと書いてくれた。


 私は静物画のデッサンを終わらせ、今は読書感想文を半分くらい書き終えた。

 指定図書の長編小説を読んでいないのでどうしようかと思っていたけれど、先輩が去年読んでいたので、話をかいつまんで教えてくれたのだ。


 残りは読書感想文の半分と歴史のレポートだけだ。これなら明日一日で終わる気がしてきた。


「わかってると思うが、全くお前のためになってないから時間あるときにやり直せよ」

「はい!」


 先輩にやってもらったり教えてもらったりというズルをしたことをきちんと反省して、時間がかかってもちゃんとやり直そうと思う。


 先輩は私が完成させた花瓶のデッサンを感心したように眺めた。


「絵も上手いんだな」

「えへへへ」


 先輩が頭を撫でてくれる予感がしたので椅子ごと少しずれて近づいた。

 するとやっぱり手が伸びてきて、私の頭のてっぺんをぽんぽん撫でてくれる。


「お前思ったより集中力あるな。偉いぞ」


 誉められて嬉しいけれど、半分、いや八割は先輩のおかげだ。笑顔のまま胸を張る。


「先輩がいてくれるだけで、私っていくらでも頑張れるんですよ」

「俺がいなくても夏季休暇の課題は計画的に頑張ってくれ」


 呆れたように笑ってから、先輩が傍らに置いていたリュックを持って立ち上がった。


「じゃ、俺は帰るわ」

「ありがとうございました! 先輩、夕食食べていきませんか?」

「いや、いきなり押しかけといてご馳走になるのも悪いだろ」


 リュックを背負って歩いていく先輩を追いかける。


 けれど、扉を開けて部屋を一歩出た瞬間、私たちの耳は謎の轟音を捉えた。


 先輩が最寄りの窓に近寄り、顔を引きつらせて外の様子を窺う。


「嘘だろ……」

「すごい雨ですねぇ」


 隣に並んで窓の外を覗き込み、私も驚いた。


 外は真っ暗で、大粒の雨が窓ガラスを叩いていた。さらにお屋敷全体が軋むような暴風。

 まさにバケツをひっくり返したような雨、プラス風だ。つまり嵐である。


 先輩は眉を寄せて私の部屋を振り返った。


「なんで音がしなかったんだ?」

「あ! 私の部屋防音なんですよ。私小さい頃ずっと歌ってたみたいで、部屋は防音で作ったみたいです」


 私の説明で先輩は納得したようだったけれど、私は「なんで使用人のみんなは天気が酷くなる前に教えてくれなかったんだろう」と一瞬不思議に思った。


「お嬢様、ランデール様」


 廊下の先からジョンとラミが歩いてきた。二人ともほとほと困ったような顔をしている。


「暴風雨で十メートル先も見えない状態です。これでは馬車が出せませんし、お帰りになるのは難しいかと……」

「問題ないです。歩いて帰りますから」


 先輩がきっぱりと言い、私は窓の外の光景をもう一度確認した。

 こんな天気で外出したら事故に遭うかもしれない。先輩に何かあったらと思うと、考えるだけで胸が軋む。


「先輩……」

「トゥロック家としましても、お客さまを、それもお嬢様の恩人をこの悪天候の中お帰しするわけには参りません。どうかお考え直しを」


 私に泣きそうな顔で見られ、ジョンとラミに深々と頭を下げられ、先輩はぐっと言葉に詰まった。

 そして数秒の沈黙の後、細く長く息を吐き出した。


「では一晩、お世話になります」

「承知しました」


 先輩が吹っ切れたように言い、私は先輩が無理に帰らないことに安心して顔をほころばせた。


「じゃあ一緒にご飯食べましょう! スミスのご飯は美味しいんですよ! 私の料理のお師匠です!」

「それは楽しみだな」

「ランデール様、お部屋をご案内いたします」

「お願いします」


 控えていた別の執事が先輩を促した。


「じゃあ私も――」


 当たり前についていこうとした私だったけれど、さりげなくラミとジョンに止められた。大人しく先輩の後ろ姿を見送る。


 先輩が客室に姿を消して扉がしまった瞬間、ジョンが口を開いた。


「お嬢様、旦那様と奥様は旅先で宿を取り、ご帰宅は明日の昼以降になるとのことです」

「そっか、その方が安心だね。わかった」


 私が頷くと、今度はラミが私の正面に回った。


「馬車が出せないのは本当ですが、我々はわざと馬車が出せなくなる状況まで静観しておりました」

「? つまり?」


 頭の上に疑問符を浮かべる。

 ラミが何かを懺悔するような芝居がかった口調になるときは、大体何かを楽しんでいるときである。


「つまり! お嬢様、この機会を活かして、ランデール様との距離をさらに縮めるのです!」


 熱が入ったラミが私の手を握りしめる。


 私は首を傾げた。もちろん先輩との距離を縮められたら嬉しいけれど、わからないことがある。


「ど、どうやって?」

「……それは今から考えます!」


 グッと拳を握ったラミを、ジョンが胡乱な目で見ている。


「まあ、とりあえずお食事を」


 どう行動すればいいか見当がつかない私とラミだけれど、ジョンがとりなした。


「アンドリュー様とアラン様はご在宅ですが、お二人ともお食事は既にとられました」

「そっか。さすがに挨拶に行かなきゃダメかな」


 アンドリューは長兄の名前、アランは次兄の名前だ。

 トゥロック家の夕飯は大体十八時だし、そもそも来客を伝えてないので先に食べてしまったようだ。


 個人的には無視したい。でも先輩は「一泊するならきちんと挨拶しないと」と言う気がする。


「会わせたくないなぁ」


 長兄は先輩が私にふさわしい人か見極めようとしそうだし、次兄は私の小っ恥ずかしい昔話を嬉々として伝えそうだ。


「うーん……ちょっと考えるから、お兄ちゃんたちには先輩が客室に泊まることだけ伝えておいてくれる?」

「承知しました。お食事は食堂でよろしいですか?」

「うん」

「ではお嬢様は先に食堂へどうぞ」

「? わかった」


 ジョンに促されるまま、私は階段を降りて一階の食堂に向かった。普段も家族が食事をとる際使われているこの部屋は、来客にも対応できるおしゃれ仕様だ。


 食堂に向かうと、すでに壁際に使用人が待機していた。

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