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クラリスの妊娠

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37.俺は絶望しない

 一週間後。


「えー!王妃様に会いに行けるのー!?」


 ヴォルテーヌ領内の、パンケーキ屋にて。


 リディと教え子たちはそう驚嘆の声を揃えた。


 クラリスは微笑む。


「そうよ。王妃様のスケジュールが整ったら、我々を王宮に招待してくれるらしいわ」

「私、王宮に行くの初めて!」

「クラリス先生、凄い!」


 褒め奉られ、クラリスは胸を張る。


「だからみんな、よりエレガントに動けるように練習しましょう。あなた方が、よりあなたらしさを発揮出来るように」


 少女たちは、揃って虚空に王宮を夢見た。


「じゃ、じゃあ先生。美味しいものもあるのかしら?」

「きっとあるわ」

「いい匂いもする?」

「ええ、いっつも王妃様は素敵な香水をお召しなのよ」

「頑張って、また招待されるようにならなくっちゃ」

「ふふふ。頑張ってね、リディ」


 王宮に子どもが招待されること自体、珍しいことだ。


 ベルナデッタの〝見えない富〟への執着は、とてもいい循環を生んで行くだろう。


(見えない富、か……)


 クラリスは、慈しむように下腹部を静かにさすった。




 クラリスがサミュエル屋敷に帰ると、ロランはじっとガラス製の目玉と対峙していた。


「ああ、お帰り……早かったな」

「ただいま戻りました」


 夕陽が差し込んで来て、クラリスの瞳にどっと眠気がこみ上げて来た。


 彼女はロランのベッドを探り当て、寝そべって問う。


「……今日のアネッサ様はどうだった?」

「何度も修正しているが、駄目だ。やっぱりリディはこの色の目じゃない、って怒られた。もっとアネッサ様似の瞳なんだと」

「瞳の記憶はしっかりしているのね」

「シリル様が言うに、どうもリディを産んだ時は覚えているらしいんだ。しかし、あとは記憶を喪失したようになっているらしい」

「なぜなのかしら」

「よくは分からない。けど、あんまりこういうことは言うべきじゃないだろうが──ちょっと当時のシリル様に問題があった気がする」

「そうなの?」

「うーん。色々聞いてても、対処が後手後手過ぎるんだ。ちょうど必要な時にちょうど不在、みたいな失敗を無自覚に重ね過ぎている。しかも事象を受け止め切れず、ちょっとばかし他人に流して来る。俺たちに手紙を寄越したように、あの人は他人を頼りがちなんだよ。恐らく昔の貴族の悪い癖が残っているようだな」


 言いながら、ロランがベッドの中に入って来た。


 クラリスはそんな彼の首筋にいつものように腕を回したが、ふとあることに気づく。


「あっ、ちょっと待って」

「どうしたクラリス?」

「実は最近、ちょっと気になっていることがあって……」


 ロランが体を離すと、クラリスも改まるように体を起こして言った。


「私、月のものが遅れているのよ」


 ロランはぽかんとしてから、少し赤くなって頬を掻く。


「……ほ、本当か……?」

「ええ。このことを話したのは、今日、ロランが初めてよ」


 ロランはクラリスのぺたんこの腹を見つめた。


「だからもしものことがあったら困るから、しばらくはそういうことはしないでおきましょう」

「そうだな。大事には大事を取って……」


 言いながら、ロランにじわじわと言い知れぬ感情がこみ上げて来る。


「子ども、かぁ」

「私、リディたちをとっても可愛いと思ってるの。あんな子に恵まれたら、とても素敵なことよね」

「ああ、そうだな……」


 しかし、しばらくすると少し重たい空気がやって来る。


「でもアネッサ様はそう思えなかったんだ」

「……そうね」

「かなり遅くに出来た子どもだったから、余計に」

「……」


 クラリスは静かに何事か考えている。


「でも、私、今ならちょっとアネッサ様の気持ちが分かる気がするの」


 ロランはじっと、悩ましげに顔をしかめるクラリスを見つめた。


「もしかしたら妊娠しているかも、って思った時、やっぱりこう願ってしまったわ……〝健康な子ども〟を産みたいって」


 ロランは慎重に押し黙る。


「妊娠の可能性が出るまでは、そんなことひとつも考えなかったの。私は目が見えないけど、何だってやれる。そう信じて生きて来たわ。けれどそれが自分の子であったらと思うと、別だったの。子どもには、私みたいな思いをなるべくして欲しくない。もし子どもが盲目だったら、私も絶望してしまうかもしれない……」


 ロランは妻を抱き寄せると、自身にも言い聞かせるようにこう告げた。


「俺は絶望しない」


 クラリスは顔を上げる。


「どんな子が産まれても、俺は全力で可愛がる。彼らが〝生を受ける〟っていうのは、そういうことだろ。俺たちが生み出した生だ。親が愛してやらなくてどうする」


 クラリスはその言葉を心の深いところで咀嚼してから、何度か頷いた。


「そ、そうよね」


 そして彼女自身の下腹部を撫でた。


「私達がまず愛してあげなきゃ駄目ね」

「そうだ。健康どうこう言うのは究極を言えば〝条件つきの愛〟だからな。掛け値なしの愛さえ与えられれば、ある意味あとはどうとでもなるんじゃないか。例えクラリスが絶望するようなことがあっても、俺が頑張るから大丈夫」

「……ありがとう、ロラン」


 クラリスはロランの楽観論に心を救われ、うっとりと夫にもたれた。


 けれど、こうも思う。


(そうは言っても、お腹で育てて産み出すのは私なんだけどな……)


 励ましてもらってありがたく思う反面、健康に産んでやるまでの責任は、やはり世間一般的には女にのみ課せられるものなのだ。


 クラリスはアネッサの抱く病理はどんな女性でも抱き得るということに気づいてしまい、彼の腕の中密かに戦慄していた。

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[一言] >クラリスはアネッサの抱く病理はどんな女性でも抱き得るということに気づいてしまい、彼の腕の中密かに戦慄していた。 そこに気づくとは……やはり天才か( ˘ω˘ )
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