消えた記憶と愛する人の嘘 88 「静かな気遣い」
ロビーのベンチから立ち上がると、橘は隣に立つ篤志に向き直り、少し柔らかい口調で言った。
「篤志、ここからはもういいぞ。帰っても。」
篤志は一瞬、驚いたように橘の顔を見た。
「……大丈夫です。最後まで付き合いますよ。」
そう答えたが、橘は軽く首を振り、少し笑みを浮かべた。
「いいから。今日は帰って、彼女と会ってこい。」
その言葉に、篤志はますます驚いた。ついさっきまで、鋭い目をして事件について考え込んでいた橘が、急に優しい表情を見せたからだ。
「橘さん……どうしたんですか?」
何かあったのかと問いかけると、橘は少し遠くを見つめるようにして、低い声で呟いた。
「このヤマ、複雑すぎて……後味が悪くなりそうなんだよな。」
篤志はその言葉の意味をすぐには飲み込めなかったが、橘の表情を見て悟った。
(相当厄介なことになってるんだな……)
橘は小さく息を吐き、続けた。
「だから、一人で頭を整理したいんだ。」
その言葉を聞いた篤志は、一瞬考え込んだ後、軽く笑った。
「橘さんがそんなこと言うなんて……マジでやばいヤマですね。」
そう冗談めかして言うと、軽く肩をすくめて続ける。
「わかりました。じゃあ今日は、遠慮なくデート行ってきます。」
橘はその返事を聞くと、口元に微笑を浮かべた。
「おぅ。……最後に、お前の演技、今日最高に冴えてたぞ。よくやった。」
そう言って軽く肩を叩くと、篤志は嬉しそうに笑い、ぺこりと頭を下げた。
「では、失礼します!」
明るい声を残し、足取り軽くロビーを後にする篤志。
橘はその後ろ姿を見送ると、ふっと表情を引き締め、もう一度スマホを手に取った。
──考えるべきことは、まだ山ほどある。




