消えた記憶と愛する人の嘘 87 「静かな約束」
「本日はありがとうございました。またご意見を伺いたい際にはご連絡いたしますので、その際はご協力をお願いいたします。」
橘がそう丁寧に挨拶を交わしていると、部屋のドアが開いた。
「すみません、遅くなりました。」
栗原が息を整えながら戻ってきた。
橘は軽く眉を上げ、少し呆れたように言う。
「遅いぞ、お前。……何サボってるんだよ。」
その口調には、演技には見えない感じで栗原は慌てた様子で何度も頭を下げる。
「すみません、すみません!」
わざとらしく連呼するその態度に、橘も軽く息をついた。場の空気は、栗原の演技で少し和らいだようだった。
しかし、部屋を出てエレベーターへと向かう道すがら、篤志、うまかったぞ。よくやったと褒めてくれた。その後、橘は急に口を閉ざした。
栗原は、隣で歩く橘の横顔をちらりと見る。
(……無言だ。)
何かを考え込んでいるのは明らかだった。橘は、会話のひとつも挟むことなく、ただ黙々と歩いている。
その沈黙が、篤志にはどこか重苦しく、少し怖く感じられた。
エレベーターが一階へと降りる間も、橘はじっと一点を見つめ、考えを巡らせているようだった。
──カンッ。
小さな振動とともに、エレベーターがロビーに到着し、扉が開く。
橘は無言のままエレベーターを降りると、足を止めて軽く息を吐いた。
「篤志、ちょっと待ってくれ。」
そう言うと、ロビーの片隅にあるベンチへと向かい、ポケットからスマホを取り出した。
橘の指が素早く画面を滑り、メッセージを打ち始める。
──謙、これから合流しよう。
駅前の「フラワー」って喫茶店で待つ。
お前も上司に用事があってここに来たんだろ?用事が済んでからで構わない。
とりあえず、俺はそこで待ってるから。
送信ボタンを押し、画面を見つめながら短く息をつく。
しばらくして、スマホが小さく振動した。
──「了解」
短い返信だったが、それだけで十分だった。
橘はスマホをポケットに戻し、ゆっくりと立ち上がる。
篤志はそんな橘の姿を見ながら、ふと改めて思った。
(先輩、絶対何か掴んだな……)
言葉にはしなかったが、橘の目の奥には、確かな手応えを感じた者の静かな光が宿っていた。




