消えた記憶と愛する人の嘘 86 「明かされる片鱗」
謙との無言の意思疎通が成立した、まさにその瞬間——橘のスマホが小さく振動した。
画面を見ると、篤志からのLINEだった。
【先輩、今トイレの個室にいます。さっき後から誰か入ってきて、電話をし始めました。まとめると、
『今、刑事たちが人事部に来てる。たまたまそこに例の高木がいる。やつは記憶喪失だから問題ないと思う。また後ほど連絡する』
って内容でした。……山口、俺の存在に気づかずに話してましたよ。】
橘はLINEの文面を読み、唇をわずかに緩んだ
「ビンゴだな……」
小さな声でつぶやく。
山口の動揺、そしてこの電話の内容——すべてが繋がりつつあった。
しかし、考えを整理する間もなく、佐藤が改めて向かいの席に座り、橘に向かって尋ねた。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
橘はスマホをポケットに戻し、落ち着いた口調で答える。
「約1か月前に発生した交通事故について、お話を伺いたくて参りました。」
その瞬間——佐藤の表情がわずかに強張った。
「……偶然ですね。」
そう言うと、彼は隣に座っている謙の方を指した。
「この横にいるのが、まさにその事故の当事者である高木です。」
佐藤は驚きを隠さずにそう告げたが、橘も謙も互いに事情を知っている。それでも、あくまで「偶然を装う」形で話を進めるしかなかった。
橘は表情を変えずに、用意していた質問を続ける。
「では、もう一つお尋ねします。この女性をご存知ですか?」
そう言って、一枚の写真をテーブルに差し出した。
謙がそれを横目で見る。
だが、謙は軽く首を振り、申し訳なさそうに言った。
「すみません……分かりません。」
橘は続けて佐藤に向き直る。
「では、高木さんと特に親しくされていた同僚の方はいらっしゃいますか?」
佐藤は少し考えるそぶりを見せた後、軽く頷いた。
「彼は基本的に部署全員と仲が良かったですよ。後輩たちには特に慕われていました。」
そう言って、少し微笑んだ後、続ける。
「……まあ、上司にはよく反抗してましたけどね。」
佐藤は冗談めかして笑った。
だが、その言葉を聞いた橘は、ふと感じ取るものがあった。
(この上司——謙の味方だな。)
橘の経験上、人を庇う時の話し方には独特のニュアンスがある。佐藤の態度は、ただの職場の上司というよりも、明らかに「高木謙太郎を守ろうとしている」ものに思えた。
橘はさらに核心に迫る質問を投げかける。
「高木さん、ご自身が誰かに恨まれるようなことをした覚えはありますか?」
謙は一瞬考えたが、首を振る。
「……覚えていないです。」
その時、佐藤がふと何かを思い出したように言った。
「そういえば……昨年の3月、突然『辞めたい』と言い出したことがありましたね。」
その言葉に、謙は驚いたように佐藤を見つめる。
「え……?」
初めて聞く話だったらしく、謙の表情には困惑が浮かんでいた。
橘はすかさず佐藤に問いかける。
「なぜですか?」
「……細かいことは分かりません。ただ、それ以降の高木くんはどんどんやつれていきましたね。正直、何かの病気を患っているのかと思ったくらいですよ。」
謙はますます戸惑ったような表情を浮かべた。
自分がそんな状態だったことすら、記憶がないのだ。
橘は佐藤の証言を頭の中で整理しながら、静かに頷いた。
「佐藤さん、大変参考になりました。ありがとうございます。」
そして、念のためにもう一つ確認を取る。
「同僚の方々にも改めてお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
佐藤は少し考えた後、快く頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。いつでも協力します。」
その言葉に橘が礼を言おうとした時——佐藤がふと、真剣な表情で尋ねてきた。
「最後に……これは、事件なんですか?」
橘は一瞬言葉を選び、ゆっくりと答えた。
「今の時点では、まだ分かりかねます。」
だが、確信に近いものがある。
橘は静かに、しかし確かな思いを込めて言葉を続けた。
「……でも、佐藤さんのおかげで、何かが繋がりそうな気がします。」




