消えた記憶と愛する人の嘘 85 「沈黙の中の交信」
佐藤が応接室のドアを開けながら、「どうぞ、先に中でお待ちください」とうながした。
「少しお待ちくださいね」と軽く会釈すると、彼はそのまま部屋の外へと姿を消す。
橘は栗原が戻るまでの間、一人で待つことになるのかと思いながら部屋へ足を踏み入れた。
——だが、そこで思いがけない人物を目にすることになる。
応接室の中、テーブルを挟んだ向かいの椅子に、一人の男性が座っていた。
謙だった。
橘が入ってきた瞬間、謙もこちらに気づいたようで、目を大きく見開いて驚いた表情を見せた。
一瞬、時間が止まる。
橘は咄嗟に「まずい」と直感した。
この状況で、謙が自分を知っていると悟られるのは避けなければならない。
(……誤魔化せ)
橘は瞬時に判断し、間をおかす即行動にでた。
「はじめまして。今回はご対応いただきありがとうございます」
すぐさま丁寧な口調で挨拶をする。
「お忙しい中、お時間をいただきすみません。部長さんですか?」
あえて無関係の人間を装い、当たり障りのない話を振る。
しかし、言葉とは裏腹に——橘は謙に向かって微細な合図を送っていた。
ほんのわずかに顔を左右に振る。
ゆっくりと瞬きを繰り返し、わずかに目を細める。
(バレるな)
(俺を知ってると思うな)
そんなメッセージを込めながら、佐藤の死角で必死にアピールする。
謙は一瞬、戸惑ったような表情を見せた。
だが、すぐに橘の意図を理解したらしく、わずかに視線を落としながら自然な口調で答えた。
「私は違います。ただ、たまたまこちらにお邪魔しているだけですので」
穏やかに、しかし明確にそう言い切る。
橘はその言葉を聞きながら、ゆっくりと笑みを浮かべた。
謙も軽く息を吐き、何事もなかったかのように視線を逸らす。
沈黙の中、確かな意思疎通が成立した瞬間だった。




