消えた記憶と愛する人の嘘 83 「違和感」
橘は手帳を閉じ、落ち着いた口調で言った。
「本日はありがとうございました。また改めてお伺いすることがあるかもしれません。その際は、ご協力をお願いしてもよろしいでしょうか?」
枝は一瞬、言葉を選ぶように口を閉ざした後、小さく頷いた。
「……わかりました。できる範囲であれば、いつでも協力します」
その返答は、どこか慎重すぎるように思えた。
「助かります」
橘が穏やかに返すと、枝はほっとしたような表情を見せた。
だが、その一瞬の気の緩みを見逃さなかった。
「ところで、これでお帰りですか?」
枝が何気なく尋ねてきた。
その言葉には、ほんの僅かだが”安堵”の色が混じっているように思えた。
橘は、それを試すようにゆっくりと首を横に振った。
「いえ、これから人事部にも伺う予定です」
その瞬間だった。
枝の表情が一瞬、固まった。
細かい反応だったが、橘の目はそれをしっかりととらえていた。
わずかに眉が動き、まばたきが一拍遅れる。
その直後、指先が机の縁を軽く叩く仕草…まるで動揺を紛らわすかのように。
(……何かあるな)
橘は心の中で確信した。
ふと、視線を横に移すと、総務課長の山口もまた、どこか落ち着かない様子を見せていた。
無意識のうちに書類を整え、何度も視線を逸らしている。
「あの、申し訳ないのですが」
橘は、あえて何気ない口調を装いながら続けた。
「人事部の方に、連絡していただいてもよろしいでしょうか?」
その言葉に、山口の手が一瞬止まる。
(……やはり)
その動揺は、隠しきれていなかった。
「ええ、もちろん……」
山口は少し口ごもるように答えた。
「山口くん、お願いできるか?」
「……わかりました。少々お待ちください」
枝は静かに立ち上がると、橘の視線を避けるようにして部屋を出た。
それを追うように、山口も続く。
橘は彼らの背中を見送りながら、ゆっくりと息を吐いた。
(これは……何かあるな)
そう確信するのに、十分すぎるほどの”違和感”があった。
「——橘さん、人事部は12階ですが、このまま向かわれますか?」
山口が戻ると、努めて平静を装うように問いかけてきた。
その声には、まだかすかに緊張が滲んでいる。
橘はにこりと微笑み、何も気づいていないふりをしながら頷いた。
「ええ、お願いします」
この先、人事部でどんな話が待っているのか
橘の中で、確実に”何か”が動き始めていた。




