消えた記憶と愛する人の嘘 79 「知らなかった自分と、決めていた想い」
エレベーターの中は静かだった。
俺はふと、目の前の操作パネルに並ぶボタンを眺める。
「12階」——そんな高層階があることに驚きつつ、改めて思う。
——本当に俺、こんなすごい病院で働いてたのか?
それを確かめるように、隣に立つ武井に聞いてみた。
「なあ、武井……俺、ほんとにここで働いてたのか?」
念を押すようにもう一度言葉を重ねる。
「こんな立派な病院で?」
すると、武井は当然だろうと言わんばかりに、即答した。
「マジっす!」
「それに、人事部のみんな、高木先輩のこと大切な人だって思ってますよ。」
「……大切な人?」
「そうですよ! 先輩が事故に遭って意識不明になったって聞いたとき、人事部の女性陣、けっこう泣いてたんですから。」
思わず目を見開く。
「え、そんなに……?」
「はい、あの時は本当に大騒ぎでしたよ。みんなショック受けてましたし……」
「……俺って、そんなに慕われてたのか?」
驚きと同時に、少しだけ誇らしいような気持ちが湧いてくる。
「つーか、それってつまり——」
俺は冗談めかして聞いてみた。
「俺って、モテてたってこと?」
すると——
「いや、それはないと思います。」
武井の即答だった。
「はぁー?」
思わず眉をひそめると、武井は悪びれもせず、笑いながら続けた。
「だって、高木先輩、よく言ってましたもん。」
「俺が?」
「“俺には心に決めてる人がいるから、俺に惚れちゃいけないよ” って。まるで決め台詞みたいに。」
——俺が? そんなことを?
けれど、その言葉を聞いた瞬間、不思議と心の奥で納得するような感覚があった。
きっと、その”心に決めてる人”って——
「……まい、か」
自分の口から自然とその名前がこぼれる。
そうだ、きっとそうだ。
俺がどんな過去を持っていたとしても、まいを愛していたことだけは変わらない。
知らない自分の一面を聞かされて戸惑うことも多いけれど、今の俺がまいを大切に思っているように、過去の俺も同じように思っていたんだろう。
それを知るだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
その時——
「12階に到着しました」
エレベーターのアナウンスが流れ、扉が静かに開く。
目の前に広がるのは、シンプルで洗練されたオフィスフロア。
白を基調とした壁、広々とした空間、そして整然と並ぶデスク——病院の一部とは思えないほど、企業のオフィスのような雰囲気だった。
「こちらです。」
武井がエレベーターの外へと誘導する。
だが、その前に彼はふと足を止め、俺の顔をじっと見つめながら聞いてきた。
「……高木先輩、この職場の雰囲気、本当にわからないんですか?」
その問いに、俺は一瞬言葉を探す。
そして、正直に答えた。
「……あぁ」
知っているはずなのに、何も思い出せない。
懐かしさも感じないし、ここでどんなふうに過ごしていたのか、全く実感が湧かない。
そのことが、改めて怖くなった。
「……そっか」
武井は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻り、
「まぁ、大丈夫っすよ! きっとすぐに馴染みますって!」
と、明るく言ってくれた。
俺はその言葉に小さくうなずきながら、一歩を踏み出した。
ここが、俺の職場だった場所。
この中に、俺の知らない”過去の自分”がある——。
そう思いながら、俺は人事部の扉を開けた。
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