消えた記憶と愛する人の嘘 78 「知らない職場、再会と、知らなかった自分」
家を出て、足を踏み出した瞬間から、俺の心には二つの不安がのしかかっていた。
ひとつは、まいのこと。
彼女の様子が、どこかいつもと違った。笑っていたけれど、どこか無理をしているように見えた。
職場に電話をかけたことが気に入らなかったのかもしれない。
それとも……俺が仕事に戻ることに、不安を感じているのか?
そしてもうひとつは、自分の職場について。
俺は一体、どんな人物だったんだろう。
職場ではどう振る舞っていた?
上司や同僚とは、どんな関係だった?
どんな顔をして、どんな言葉で挨拶をすればいいのか——
何もかもが分からなくて、考えれば考えるほど、胃の奥が重たくなる。
でも、行かなきゃならない。
記憶が戻るきっかけになるかもしれないし、何より、自分がどういう人間だったのか知りたい。
電車に揺られながら、窓の外をぼんやりと眺める。
職場までは電車で20分、そこから歩いて15分。
通勤には便利な立地だ。
このルートも、まいが調べてくれた。
スマホのマップを見ながら歩いている俺を見て、まいは「ほんとに頼りないなぁ」なんて笑っていたっけ。
……本当に、まいには世話になりっぱなしだ。
彼女がいなかったら、俺は今も途方に暮れていただろう。
帰ったら、ちゃんと優しくしよう。
まいの不安が少しでも軽くなるなら、俺はなんだってしてあげたい。
言葉にしなくても、態度で伝えられることもあるはずだ。
そんなことを考えていると、目の前に巨大な建物が現れた。
——これが、俺の職場……?
高くそびえる白い壁、広々とした敷地。
まるで小さな町のようなその建物を前にして、俺はしばらく足を止めた。
「……でかい……」
思わず呟く。
こんな立派な病院で、俺は働いていたのか。
退院した時、そう言えば振り返らなかったなぁ
まいとバタバタして、すぐタクシーだったしなぁ…。
急に、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
職場の扉をくぐった瞬間、何かを思い出すのかもしれない。
それとも、何も思い出せずに、ただ空回りするだけなのか——。
ゆっくりと、大きく息を吸って吐いた。
……行こう。
不安が消えることはないけれど、ここで立ち止まっていても仕方がない。
覚悟を決めて、一歩を踏み出した。
受付にたどり着き、カウンター越しに対応してくれた女性に事情を説明すると、彼女はすぐに人事部に連絡を取ってくれた。
「今、人事部の方が降りて来てくださいますので、そちらでお掛けになってお待ちくださいね」
丁寧な対応に感謝しながら、俺は受付近くのソファに腰を下ろした。
それにしても——この病院、すごいな。
受付の空間だけで圧倒される。まるでホテルのロビーみたいに広々としていて、シャンデリアのような照明が天井から柔らかい光を落としている。
壁際には観葉植物が並び、落ち着いたBGMが流れている。
「……こんな立派な病院で、俺は働いてたのか……」
驚きと感心を抱えながら、周囲を見回していると——
「高木先輩ーーーっ!」
遠くから、大きな声が響いた。
え? 俺?
思わず声のする方を振り向く。
——けれど、走ってくる男の顔に、全く見覚えがない。
「武井です! お久しぶりです!」
名前を聞いて、あぁ、と納得した。
そういえば、電話の時に話した、おっちょこちょいなやつか。
電話越しでも慌てん坊な感じだったけど、実際に会ってみると、それ以上にフレンドリーな雰囲気の男だった。
武井は息を切らしながらも、心底安心したような笑顔を見せた。
「俺、めっちゃ心配したんですよ!」
「お見舞いに行こうとしたんですけど、上司命令でダメだって言われちゃって……すみませんでした!」
「それは仕方ないよ。俺、記憶喪失だったし、誰が来ても分からなかったと思うし」
軽く肩をすくめながら答えると、武井はホッとしたように笑った。
「でも、見た感じは前の高木先輩と全く変わってないし、相変わらず話しやすいし、安心しました!」
——そうか、俺はこんなふうに接しやすい人間だったのか?
ふと気になって、武井に尋ねてみる。
「武井……俺って、どんな人だった?」
——本当のことが知りたい。
記憶がない今、俺の”過去”は他人の証言からしか分からない。
だから、どんな小さなことでもいい。
俺がどんな人間だったのか、知りたかった。
すると、武井は急に神妙な顔つきになり、言いづらそうに口を開いた。
「……正直、めっちゃ怖かったです。何考えてるか分からないし、近寄りがたい感じで……」
「えっ……」
思わず絶句した。
そんなに冷たい人間だったのか?
自分が思っていた以上に、周囲と壁を作っていたのかもしれない。
胸の奥に、何か重たいものがのしかかる。
「……って、嘘ですよ! なーんて!」
——え?
武井が急にニヤッと笑い、俺の肩をポンと叩く。
「高木先輩は、めちゃくちゃ優しい人ですよ! いつも俺たちのこと庇ってくれて、上司に文句言ったり、中間管理職なのに1番後輩思いで、頼れる先輩でした!」
「……え?」
「飲みにもよく誘ってくれて、冗談ばっか言って、最高でした! だからさっきのは、ちょっと悪ふざけでした! 本当にすみません!!」
武井は申し訳なさそうに頭を下げるが——
俺は一気に肩の力が抜けて、ほっと息をついた。
「……なんだよ、驚かせんなよ……」
「すみません、ちょっとからかいたくなっちゃって!」
武井が屈託なく笑う。
俺が”良い先輩”だったのか——それは自分では分からないけれど、こうして武井が慕ってくれているのは、きっと本当のことなんだろう。
「……やっぱり、記憶喪失って大変ですね。上司も”分かってやれ”って言ってましたけど、こういうことだったんだなぁ……」
「まぁ、俺自身も戸惑ってるよ。でも、武井みたいに”変わってない”って言ってくれると、ちょっと安心する」
「あっ、それなら良かったです!」
武井の笑顔につられて、俺も小さく笑う。
——俺の知らない俺。
それを知ることで、少しずつ”自分”を取り戻せるかもしれない。
そう思いながら、俺は武井と共に、人事部へと向かった。
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