消えた記憶と愛する人の嘘 60 【大人な夜】
まいは冷蔵庫を開け、中の食材を一つひとつ確かめながら、手際よく選んでいた。
キッチンには、包丁がまな板を叩く軽快な音や、調味料を混ぜる心地よい音が響く。
料理に集中するまいの横顔は真剣そのもので、時折ふっと微笑む表情がなんとも愛らしい。
「ビールでも飲んでて」
まいが俺の前に、グラスと冷えたビールを差し出した。
「もう少し待っててね」
そう言って、柔らかく微笑むと、再びキッチンへと戻っていく。
俺はビールを一口飲みながら、ふと思い立つ。
「音楽でもかけようか?」
まいは振り返り、ふっと笑った。
「ジャズでも聴こうか……大人の雰囲気で」
その言葉に、俺は携帯を取り出し、例の音楽アプリを開こうとした。
だが、次の瞬間——
「謙、私の使うよ」
まいがすかさず自分のスマホを取り出し、慣れた手つきで操作を始めた。
ほんの数秒後——
スピーカーから流れ出したのは、しっとりとしたジャズのメロディー。
しかも、スマホのスピーカーではなく、部屋の何ヶ所かに設置された小さなスピーカーから、包み込むような柔らかい音が響く。
「……なかなかいい音だな」
「Blue tooth だよ」
まいは得意げに微笑む。
「ここ、俺の家なのに……今のところ、まいが家主みたいだな」
俺がそう言うと、まいはくすくすと笑った。
「だって、謙はまだ色々覚えてないでしょ? しばらくは私がサポートしてあげる」
その言葉に、俺も思わず笑ってしまう。
窓の外を見ると、すっかり夜になっていた。
今夜は空が澄んでいて、ビル群の明かりがどこまでも続いている。
時折、遠くの道路を走る車のライトがゆっくりと流れ、静かな夜の空気を際立たせていた。
部屋にはジャズのメロディが心地よく響き、キッチンではまいが料理を作る音が優しく重なり合っている。
まるで、都会の夜に溶け込むような、そんな穏やかな時間——。
この瞬間が、どこまでも心地よく感じられた。




