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359 【ワンプレートの幸せ】


まいは俺の胸に顔を預けたまま、しばらくじっとしていた。

ぬくもりが、心にじわじわと沁みていく。

ようやく落ち着いたのか、まいは小さく息を吐いて、それから少しだけ顔を上げた。


そして、ふっと笑った。

本当にかすかな、けれど間違いなく柔らかい笑みだった。


「ねぇ、謙……なんかさ、お腹すかない?」


その何気ない一言に、俺もつられて笑ってしまった。


「……うん。なんかすいたかも」


「だよね?」


まいのその無邪気な口調が、今にも崩れそうだった俺の心をそっと支えてくれた気がした。


「なんか、食べようか?」


「うん」


そう返すと、まいは「よいしょ!」と小さく呟きながらソファから立ち上がった。

その動きすらもどこか愛おしくて、思わず目で追ってしまう。


「謙、ビールでも飲んでて。すぐ作るからね」

そう言って、まいはすたすたとキッチンに向かっていった。


冷蔵庫の扉を開けて、中を覗き込むまいの後ろ姿。

俺は少し照れ隠しのように言った。


「……何もないかもよ?」


すると、まいは振り返りもせずに明るい声で返してきた。


「大丈夫、大丈夫!楽しみにしてて〜!」

そう言って、手慣れた様子で冷蔵庫の中からいくつかの食材を取り出し、まるで料理番組でも始まったみたいに軽やかに準備を始めた。


キッチンに立つまいの姿を、俺はぼんやりと眺めていた。

少し小柄な背中、エプロンを結ぶ手つき、髪を後ろにまとめる仕草……

どれもが懐かしくて、そしてとても、可愛くうつった。


気づけば、俺は自然と笑みがこぼれていた。


まいがふとこちらを振り返って、目が合う。

すると、少しだけ頬を膨らませた。


「……ちょっと、謙。なに笑ってんのよぉ〜?」


不満そうな口ぶりとは裏腹に、その声にはちゃんと甘えたような響きがあって、

そのやりとりすらも、たまらなく嬉しかった。


ああ、そうだ。

俺たち、こうやって笑って過ごしてきたんだよな――。


こんなふうに、何気ない時間を一緒に過ごせることが、こんなにも愛おしいなんて。

ほんの少し前まで、まいを失うかもしれないという恐怖に飲まれそうになっていた自分が嘘みたいだった。


こんな時間が、これからもちゃんと続きますように。

そう願わずにはいられはた。


まいはキッチンに立ち、どこか嬉しそうに鼻歌でも歌い出しそうな表情で、リズムよく包丁を動かしていた。

冷蔵庫の中にあったもので、ちゃちゃっと何かを作り始めていて、

その様子は本当に楽しげで――まるで長年夢見ていた舞台に、やっと立てたかのようだった。


その笑顔を自分でも隠しきれていないのが、まいにはわかっていた。

口元が緩んでるのも、心が弾んでるのも、全部顔に出ちゃってる。

でもそれでも、止められなかった。


(やっと……こうしてあげられた。そして謙は自分で決めた事をやり遂げようとしてる。だから私は私の出来る事を精一杯サポートする……)


まいの心の中には、謙のために私も逃げないで最後までやる。そんな気持ちでいっぱいだった


「謙がソファに座って、わたしが笑って料理を作る」


ただそれだけの、なんでもないような時間。

けれど、それがどうしても叶わなかった今までの日々を思うと、

この何気ない瞬間が、胸にじんと沁みた。


ふたりで過ごせる時間は、当たり前じゃない。

まいは何度もそれを痛いほど感じてきたから、

だからこそ今、この時間が何よりも愛おしかった。


と、その時だった。


ふいに背後から、やさしいぬくもりがふわっと寄り添ってきた。

気づいた時には、謙の腕がそっとまいの腰に回されていた。

柔らかく、でもしっかりと――まるで壊れ物に触れるような優しさで、まいを抱きしめていた。


まいは一瞬驚いたように体を止めたけれど、すぐに微笑んで肩越しに言った。


「……謙、待ってよ。いま手、ふさがってるのに」


料理に夢中になりすぎて、謙が近づいてきたことにも気づけなかった。

そのくらい、いまこの時間に夢中になっていたのだ。


謙はまいの背中に顔を寄せたまま、少し照れたように、でもどこか愛しさがこもった声で答えた。


「まいが料理してるの、見てたらさ。……嬉しくて、なんか、抱きしめたくなっちゃった」


その言葉に、まいの頬がふわっと赤くなる。

照れくさくて、でも嬉しくて、思わず笑ってしまう。


「もぉ〜……やっぱり謙なんだからぁ〜。

もう少しでできるから、ちょっとだけ待ってて?」


「はい、はい……」


少し名残惜しそうに謙は手をほどいて、またソファに戻っていった。

その背中がゆっくりと離れていくのを見届けたあと、まいはもう一度小さく笑った。


ふと視線を感じて振り返ると、ソファに腰かけた謙がこちらを優しく見つめていた。

言葉はないけれど、そのまなざしにははっきりと“幸せ”が滲んでいて、

まいは心の中でそっと思った。


(……こんな時間が、ずっと続けばいいのに)


その背中を感じながら、再び料理に向き合ったまいの手元は、いつもより少し、かろやかだ った。



「謙、できたよ」


まいがそう言って振り返ったとき、ほんのりと火照った頬に小さな笑みが浮かんでいた。

エプロンの端を軽く摘んだまま、まるで“お待たせ”と告げるように、ゆっくりと瞬きをする。

その表情があまりに優しくて、俺は思わず立ち上がった。


「わっ、うまそう。……行っていい?」


そう言いながらキッチンへ近づこうとしたその時、まいが慌てたように手を振った。


「ちょっと!謙は、そこ座ってて。ね、座って、ちゃんと」


その言い方がどこかおかしくて、俺は「はい」と素直に頷いて、ソファへと腰を戻した。

まいは、いつになく張り切っているらしく、真剣な顔で慎重に料理を運んでいる。


両手に持たれた少し大きめの白い皿。

そのひと皿、ひと皿が丁寧に彩られ、テーブルの上にそっと置かれると、

まるで食卓がぱっと明るくなったように感じた。


「……おぉ」


思わず小さく声が漏れた。

それは、ワンプレートに美しく盛りつけられた手作りのオードブル。

トマトのスライスに、リッツクラッカー、チーズとミートソース。

そしてバジルの香りがふんわりと立ち上がる、こんがりと焼かれたピザトースト。

彩り鮮やかな野菜炒めも添えられていて、それはどれも特別なものではないけれど、

なぜだか、俺の目にはとても豪華に映った。


「謙、ねぇ……なんであんなにトマトばっかり買いだめしてるの? 冷蔵庫、真っ赤だったよ?」


まいが笑いながらそう言って、椅子に腰を下ろした。

俺はなんだか気恥ずかしくなって、苦笑いしながら答える。


「……なんとなく。買い物のとき、トマト見たら、まいが好きそうだなって……。気づいたら、こんなに」


言ったあと、自分でも照れてしまって、頭をかいた。

するとまいは、くすっと笑いながら、リッツをひとつ手に取った。


「リッツがあったからね、ここにチーズを塗って、その上にミートソース乗せて……それから、この酒盗も合うと思うよ。ちょっと大人な味だけど」


そう言いながら、俺の分も丁寧にひとつ作ってくれる。

小さな手が器用に動いて、さりげなく手際もいい。


「謙って、リッツなんて食べるんだっけ?」


「いや、それは……この前、純一が買ってったやつ。あいつ、地味にお菓子好きみたいで」


「……意外!」


まいは目を丸くしながら、またくすっと笑った。

その笑顔が、なんだか全部を穏やかにしてくれる気がした。


焼き上がったピザトーストの表面はこんがりとしていて、トマトとバジルの香りが絶妙に混じり合っている。

彩り豊かな野菜炒めは、ほんの少しだけ甘みのある味つけで、どこかまいらしさを感じさせた。


決して高級な食材でも、手の込んだ料理でもない。

けれど、それらは全部――まいが俺のために作ってくれたものだ。

その事実だけで、俺にとっては、この食卓が世界一のごちそうに思えた。


温かな食卓に、笑顔と会話があって、

まいの作った料理を一緒に食べられることが、何よりも幸せだった。



いつも『消えた記憶と愛する人の嘘』をお読みいただき、本当にありがとうございます。


物語もいよいよ佳境に入り、あと2話で一度、物語の区切りとしての最終回を迎える予定です。


ですが、これは終わりではありません。


新たに【消えた記憶と愛する人の嘘2】として、続きを投稿していく準備を進めております。

そのため、少しの間だけ投稿をお休みさせていただき、物語の構成をもう一度丁寧に見直し、

皆さまにさらに深く物語の世界を楽しんでいただけるように整えていきたいと思っております。


謙太郎と舞子、そして彼らを取り巻く登場人物たちが、これからどんな未来を紡いでいくのか。

ぜひ楽しみに待っていていただけたら嬉しいです。


いつも温かい応援を本当にありがとうございます。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


          茅ヶ崎 渚

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