356 【再会の静寂、心が重なる夜】
池袋の駅に降り立った俺は、雑踏の中をゆっくりと歩き出した。
足取りは重く、どこかふらつくようにさえ感じた。
道行く人たちの会話や笑い声が、妙に遠くに感じる。
俺の頭の中には、さっきまいに送ったあの短いメールのことだけが、ぐるぐると回っていた。
「……あれでよかったのか」
いや、よくない。
自分でも分かっている。けれど――
他に何て言えばよかったんだろう。
いくら考えても、言葉が見つからなかった。
きっと、まいは呆れている。
こんな俺に、また失望したかもしれない。
でも、本当に伝えたかったのは――
まいを巻き込んでしまったことへの謝罪。
そして、あの日自分で誓った“関わらない”という約束を、自ら破ってしまったことへの後悔。
なのに、いざ言葉にしようとすると、心の中が絡まって、何ひとつちゃんと伝えられない。
気づけば、俺の指はただ「ごめん」とだけ打っていた。
その短いひと言に、俺の全てを込めたつもりだったけど……
伝わるはずがない。わかっている。
まいにどんな言葉を届ければよかったのか――
その問いが頭から離れず、胸の奥をずっと重たく締めつけていた。
気づけば、マンションが目の前に見えてきた。
ゆっくりとエントランスに入る。
自動ドアの開く音だけが、妙に大きく響いた。
誰もいないロビーを抜け、エレベーターに乗り込む。
静かに閉まる扉の中、自分の呼吸だけが耳に残る。
「……また、あの部屋か」
何の音もしない、静まり返ったあの部屋。
まるで誰の気配も残っていない、空っぽの箱のような場所。
あそこに帰っても、今夜はきっと――眠れそうにない。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺はゆっくりと上へと運ばれていった。
鍵を差し込み、ゆっくりと扉を開ける。
小さな音を立てて、ドアが重たく動いた。
玄関の空気は冷たく、どこかしんと静まり返っている。
まるで、自分の帰りを誰も待っていないと告げるような、そんな冷たさだった。
俺は靴を脱ぎ、手にしていた荷物をそっと足元に置いた。
部屋の明かりはつけないまま、闇に包まれたリビングへと歩き出す。
ひとりの帰宅には、もう明かりも必要ない。
慣れた足取りで、重たい空気の中を進んでいく。
ほんの数歩。
何も見えないはずの暗闇の中――ふと、違和感を覚えた。
……何かが、そこにいる。
足を止めた。
目を凝らし、視線を足元からゆっくりと上げていく。
そこには――
ぼんやりと、人の輪郭が浮かんでいた。
目が慣れてくると、その影の正体がはっきりと見えた。
「……まい?」
思わず、息を飲んだ。
それは確かに、まいだった。
暗闇の中、じっとこちらを見つめて立っていた。
言葉もなく、ただ静かに――まるでずっと、ここで俺を待っていたかのように。
孤独の中に、ぽつりと灯る温もり。
信じられない想いと、胸の奥からこみ上げてくる何かが、俺の鼓動を強く打たせた。
まいの姿を目にした瞬間、身体からすべての力が抜けた。
それが現実なのか、幻なのか――確かめる間もなく、膝がガクンと崩れ落ちる。
支えを失った俺の身体は、重力に引かれるようにそのまま床へと沈んでいった。
「謙っ!」
まいの声が耳に届くと同時に、あたたかい腕が俺を抱きとめた。
柔らかな体温と、震えるような吐息がすぐそばにある。
「……謙のバカ。どうして、こんなになるまで……っ」
まいの声は震えていた。
怒っているようで、泣いているようで――それ以上に、俺を想ってくれているのが伝わってくる。
「だから謙なんだよ……もう……」
気づけば、まいの涙が俺の頬にぽとりと落ちてきた。
あたたかいその雫が、何度も何度も落ちてくる。
俺の頬を濡らしながら、心の奥にまで沁み込んでいくようだった。
「……まい……」
名前を呼ぶだけで、声が掠れた。
堪えていた感情が、もう限界だった。
張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、俺の目からも涙が溢れ出す。
止まらなかった。
こらえようとしても、次から次へと涙がこぼれる。
まいの胸に顔をうずめると、まいも強く、俺を抱きしめ返してくれた。
まるで、もう二度と離さないとでも言うように。
言葉はいらなかった。
傷ついて、迷って、それでも――
お互いが必要で、愛しくて、失いたくなかった。
涙の中でようやくわかった。
俺がこんなにも苦しかったのは、まいを失うことが怖かったからだ。
そして、まいも同じ気持ちでここまで来てくれたんだと、全身で感じた。
「……ありがとう、来てくれて……」
心の底から、そう呟くと、まいは黙って俺の背中を優しくさすってくれた。
その手の温もりが、今の俺にとってすべてだった。
しばらくの間、俺はただ黙って、まいの腕の中に身を預けていた。
まいの胸元に顔をうずめると、優しい香りがふわりと鼻をくすぐった。
懐かしい香りだった。
あの日々の温もりが、まるで時間を超えてこの瞬間に戻ってきたようだった。
そのとき、まいが俺の耳元で、そっと囁いた。
「……謙の匂いがする。すごく……懐かしい」
その言葉に胸が締めつけられた。
まいも、同じ時間を想い出してくれていたんだ。
俺たちは、何もかも失ったわけじゃなかったんだと――そう思えた。
俺も、まいの胸に顔を埋めながら、静かに目を閉じた。
優しくてあたたかい、その香りに包まれながら、心が少しずつ癒えていくのを感じていた。
「謙……愛してるよ。何があっても、ずっと……」
まいの声は震えていたけど、その言葉の奥には揺るぎない想いがあった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
誰に責められても、どんな過去があっても、まいは俺のすべてを受け入れてくれる――そう思えた。
「……まい。俺も、愛してるよ。お前が……お前だけが、俺のすべてなんだ」
震える手でまいの背中をそっと抱き寄せる。
まいも、何も言わずに強く俺にしがみついてくる。
心と心が、ようやくひとつに重なったようだった。
そして、俺がが顔をあげた。
涙に濡れた瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
次の瞬間、何も言わずに――まいは、そっと唇を重ねてきた。
やさしくて、切なくて、それでいて確かな愛がそこにあった。
言葉よりも深く、まいの想いがそのキスからすべて伝わってきた。
俺も静かに目を閉じ、まいの気持ちをそっと受け取るように唇を重ね返した。
この瞬間、世界に2人しかいない気がした。
すべてを失ったように思えた夜だった。
でも、たったひとつ――まいがここにいてくれる。
それだけで、もう何もいらなかった。
しばらく、まいの腕の中で俺はただ静かに身を預けていた。
まるで、夢の続きを見ているような心地だった。
けれど、これは確かに現実だった。
やがて、まいが俺の耳元で、そっと囁いた。
「謙……早くこうしたかった」
その言葉が胸に深く染みて、優しくて、切なくて、どこか心を溶かすようだった。
「まい……俺もだよ」
その瞬間、まいがゆっくり……
それは優しく、けれどそのまま、迷いなく、深く――唇がゆっくりと開き、互いの舌が触れ合った。
柔らかく、湿った感触が舌先に伝わる。
まいの舌が、遠慮がちに、けれど確かに俺を探るように絡みついてくる。
俺も応えるように、そっと舌を絡め返す。
互いの呼吸が熱を帯び、静かに混ざり合っていく。
押しつけるような激しさはない。ただ、長く、深く、何度も舌を絡ませ合いながら、心と心を通わせるように――
「ん……っ、謙……」
まいの小さな吐息が、俺の胸に落ちる。
その声だけで、どれほどこのキスを求めていたかが伝わってきた。
抱きしめる腕に自然と力がこもる。
まいも俺の首に腕を回し、より深く、舌を絡めながら応える。
まるで、失った時間を取り戻すように。
傷ついた心を互いに慰めるように。
ただ、静かに、けれど情熱を込めて――
どれだけの時間、そうしていたのだろう。
唇を離した時、まいは目を潤ませながら、ほのかに笑った。
俺も息を吐きながら額を預けるように、そっとまいの額に触れた。
「まいと……ずっと、こうしたかった」
「うん……わたしも、ずっと……謙に触れたかった……」
俺たちはようやくひとつの想いで繋がった。
言葉ではもう言い尽くせない想いを、このキスがすべて語ってくれていた。
「謙? 電気、つけようか?」
まいの優しい声が、静かな部屋にそっと響いた。
でも俺は、答える代わりにそっと首を横に振った。
「……いや。もう少しだけ、このままでいさせて」
その言葉に、まいはそれ以上なにも言わず、ただ静かにうなずいてくれた。
俺はまいの胸元に顔を預けたまま、目を閉じた。
まいの心臓の音が、かすかに伝わってくる。
そのリズムが、心の奥に染み込んでくる――
不思議だった。
ほんの少し前まで、自分はひとりぼっちの夜に押しつぶされそうだったのに。
まいの胸の中にいるだけで、張り詰めていた心がゆっくりとほどけていく。
まいは、そんな俺の頭にそっと頬を寄せる。
まるで小さな子供をあやすように、優しく背中を撫でてくれていた。
その手のひらが、とても温かかった。
痛みも、後悔も、不安も、全部その手の温もりに吸い込まれていくようだった。
「まい……」
俺がそうつぶやくと、まいは何も言わずに、さらにそっと背中を撫でた。
言葉なんていらなかった。
ただ、こうしているだけで、すべてが救われるような気がした。
まいも、俺を守ろうとするように、両腕をきゅっと回してくれた。
そのぬくもりに包まれて、俺は静かに深く息を吐いた。
この時間が、ずっと続いてくれたら――
今だけは、そう願ってしまうほどに、俺の心はまいの愛情に満たされていた。




