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355 【それぞれの想い】


病院を出て、俺はひとり駅へ向かって歩いていた。

周囲のざわめきや街の光が、まるで遠い世界のことのように感じる。

ただ、足だけが無意識に前へ進んでいた。


部屋に帰っても、待っているのは静まり返った空間だけだ。

そこでまた、今日の出来事を思い返すくらいなら――

いっそ何も考えずに、このままどこかに消えてしまいたい。

そんなことまで、ふと頭をよぎる。


「……撃たれた方が、楽だったのかもな……」


思わず、口の中でそんな言葉がこぼれた。

自分で吐き出したその一言が、あまりにも重く、苦しい。


歩いていると、道の角に小さなコンビニがあった。

特に目的もなく、ただ何となく吸い寄せられるように中に入り、冷蔵棚からビールを1本手に取った。


レジを済ませて外に出ると、夜風が少しだけ肌をなでた。

そのまま、近くの小さな公園へ向かって歩き出す。

街灯がぽつりぽつりと灯るだけの静かな公園。

奥のベンチに腰を下ろし、しばらく何もせずに夜の空気を感じていた。


やがて、手にしていた缶ビールのプルタブを引き、音を立てて開けた。

ひと口――いや、ほとんど一気に喉に流し込んだ。


けれど、味なんてまるでわからなかった。


冷たさだけが喉を通っていく。

苦味も、炭酸の刺激も感じない。

それほどまでに、俺の中は空っぽだった。


「……全部、振り出しか」


静かにつぶやいたその言葉が、夜の空気に溶けて消えていく。

思い出も、後悔も、苦しさも――

何もかもが胸の奥で渦を巻いて、どうしようもなく重たかった。




お風呂から出て、髪をタオルで拭きながらリビングに向かった香は、

いつものように声をかけた。


「まいちゃ〜ん、お先にぃ〜。

お風呂、どうぞ〜」


けれど、返事はなかった。


「あれ……?」


少し不思議に思いながら、脱衣所からリビングへと目を向ける。

そこに、まいの姿は見当たらなかった。

ソファにも、キッチンにもいない。

寝室の扉もそっと開いていて、中に気配はない。


香の胸に、ふと嫌な予感がよぎる。


テーブルの上には、小さく折りたたまれた紙が一枚置かれていた。

その文字に、香は目を止める。



香さん、ごめんなさい。


やっぱり、どうしても……謙のことが気になって、落ち着かなくて。


一度は我慢しようと思ったけれど、何度携帯を見ても、心がざわついて仕方がありませんでした。


だから――今から、謙のところに行ってきます。


こんな勝手なことばかりして、本当にごめんなさい。


香さんには、いつも甘えてばかりで……迷惑ばかりかけてしまって、ごめんね。



まいらしい、小さな字で丁寧に書かれたそのメモから、彼女の揺れる想いがにじみ出ていた。

言葉を選びながら、それでもどうしても行かずにはいられなかった、そんなまいの気持ちが、香の胸に痛いほど伝わってくる。


「……まいちゃん」


香はメモをそっと手に取ったまま、しばらく動けずに立ち尽くした。

まいの想いも、行動も、痛いほどわかってしまうからこそ――心の奥に、そっと胸が締めつけられた。


香は、テーブルの上に残されたまいのメモをそっと見つめながら、

ふぅ……と静かに小さくため息をついた。


そして、傍らにあった自分のスマホを手に取った。

この事をちゃんと知らせるべき人がいる。そう思った。


でも、それと同時に――

「今夜だけは、2人をそっとしておいてあげたい」

そんな願いも香の胸の中に静かに芽生えていた。


画面を開き、LINEのトーク一覧から「純一」の名前を探す。

ゆっくりと文字を打ち始める指が、少し震えていた。



純一、お疲れ様。


ごめんね……今、まいちゃんが家を出て行っちゃったの。


行き先は、おそらく……謙さんのところ。


止められなかった。いや、きっと、止めるべきじゃなかったのかもしれない。


今のまいちゃん、心がギリギリで、壊れそうなの……


お願い、純一。今夜だけは、あの2人を逢わせてあげて。


まいちゃんの想い、少しだけ……届いてほしいんだ。


どうか、見守ってあげてください。お願いします。



送信ボタンを押す前、香は一度だけ深く息を吸い込んだ。

そして目を閉じて、祈るような気持ちでメッセージを送信した。


画面に「既読」がつくのを確認すると、そっとスマホを伏せて、

小さな声で、ひとりつぶやいた。


「……これが、今の私にできること」


まいちゃん。

あなたが今、どんな気持ちで走り出したのか、私には痛いほどわかるよ。

だからこそ――支えてあげてね。

自分の気持ちだけじゃなく、謙さんの想いも、ちゃんと受けとめてあげて。


香は、静まり返った部屋の中で、そっと手を合わせるように胸の前で指を組んだ。

その祈りが、夜空の向こうにいる2人へ、どうか届きますように――と。



香から届いたメッセージに、純一は静かに目を通した。

その一文字一文字から、香の優しさと、まいを想う切実な気持ちがにじみ出ていた。


そして何より――

香自身もまた、まいと同じように不安と心配を抱えながら、それでも「見守る」ことを選んでくれたのだということが、胸に強く響いてきた。


「……ありがとうな、香」


純一は思わず、そう呟いていた。


先ほど、謙が病院を後にしていくとき――

その背中を無言で見送った自分の姿を、純一は頭の中で思い出していた。

あのときの謙の後ろ姿には、言葉では語られない深い疲れと、何かを背負った男の孤独がにじんでいた。


それに気づいていたからこそ、香からのメッセージは余計に心に染みた。


すぐにスマホを取り出し、香に返信を打ち始める。



「香、お前まで心配させてしまって、本当にごめんな。


さっき、病院を出ていく謙の背中を見ていた。


あいつ、相当きついはずだ。それでも一言も弱音を吐かずに去って行ったよ。


香の言う通りだ。まいちゃんがそばにいてくれるだけで、今の謙には救いになる。


だから今夜だけは……俺たち、見守ってやろう。


ああ、大丈夫だ。謙のマンションの周囲は、もう厳戒態勢に入ってる。


入り口も周辺道路も、警官が何人も張り込んでる。


今夜はきっと、安全に過ごせるはずだ。


……それに、こんな夜だからこそ、俺もお前に会いたくなったよ。」



送信ボタンを押したあと、純一はゆっくりとスマホをポケットの中に入れた。

どこか張りつめていた気持ちが、少しだけ和らいだ気がした。


今夜、あの2人が――

少しでも心を通わせることができますように。

そして自分自身も、大切な人の手を、もう一度しっかりと握れる夜になりますように。


静かに夜の空を見上げながら、純一は小さく息を吐いた。


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