353 【ごめんの重さ】
香とまいは、キッチンテーブルを挟んで向かい合い、楽しげに夕食を囲んでいた。
香が作ったパスタにまいが「美味しい!」と笑顔を見せれば、香も嬉しそうに頷く。仕事や街で見かけた犬の話、テレビで見たドラマの展開――そんな他愛もない会話が、柔らかく部屋を包んでいた。
心地よい時間。平凡だけど、それが何よりの幸せだった。
食事の途中、ふいにテレビの音が切り替わる。
「速報です」と静かに割り込むようにアナウンサーの声が流れ、部屋の空気が微かに変わった。
『ただいま入ったニュースです。第一報となりますが――』
画面には、「速報」の赤い文字とともに映像が切り替わる。
『本日17時過ぎ、豊島総合病院で発砲事件が発生しました。幸いにも怪我人は確認されていませんが、犯人は現在も逃走中とのことです。現場には多数の警察官が集まり、周囲の安全確保と捜査にあたっています。今後の詳細が入り次第、またお伝えします』
テーブルの上で、まいの手がふと止まった。
フォークを持つ手が、軽く震えていた。
テレビから目を離せない。画面の文字を、まるで呪文のように何度も目で追っていた。
「……まいちゃん?」
香が不安げに声をかける。
まいは小さく震える声で答えた。
「……今のニュース……豊島総合病院って……謙の病院……だよね……」
香の顔色が、見る間に変わった。
まいの言葉の意味を瞬時に理解した香は、すぐにスマホを手に取り、ニュースアプリを立ち上げる。
『豊島総合病院 駐車場で発砲事件』
その見出しが、まっすぐ目に飛び込んできた。
香は慌てて記事をタップして読む。内容には「駐車場で発砲事件が発生」「犯人は逃走中」「怪我人なし」と書かれていたが、それだけでは不安は払拭されなかった。
香はまいの顔を見た。
まいの視線はまだテレビの画面に固定されたまま、口元には力がなく、ただただ不安が滲んでいた。
謙に何かあったんじゃないか――
その不安が、まいの中でじわじわと膨らんでいった。
「まいちゃん、落ち着いて。今すぐ純一に確認するからね」
香は震えるまいの肩にそっと手を置くと、すぐにスマホを開いてLINEの画面を開いた。
その指先はわずかに震え、打ち込む文字にも力がこもる。
「純一、ニュース見たんだけど大丈夫? まいちゃんがすごく心配してる。
謙さんは関係してるの?それとも無関係?
今、安心させてあげたいの。本当のこと、全部教えて。お願いします」
送信ボタンを押した瞬間、部屋の中に静寂が広がった。
テレビの音も、窓の外の車の音さえも、まいと香にはもう届いていなかった。
香は無言のまま、スマホの画面を凝視していた。
「既読」がつくまでの数秒が、やけに長く感じられる。
やがて、小さな文字が画面に浮かび上がる。
――既読。
その直後だった。返信が届いた。
「謙に関係している。でも……謙は無事だ。
誰一人、怪我はしていない。けど……俺たちは、完敗だった。
本当に、ごめん。
今夜、まいちゃんに謙を会わせるつもりだった。全部終わらせて……笑って、安心させたかった。
だけど、それができなかった。
ごめん。まいちゃんに謝ってくれ。
謙は俺のすぐ隣にいる。今、彼にもまいちゃんに連絡するよう伝える。
……香、ごめん。俺はまだ、やるべきことがある」
香はそのメッセージを何度も読み返した。
文面から滲み出るのは、ただの謝罪や報告ではない。
あの、常に冷静で強気だった純一の――“弱さ”だった。
短い言葉の中に詰まっている後悔と焦燥、
そして敗北の苦味。
その全てが香の胸に、じわりと染み込んできた。
「……まいちゃん……謙さん、無事だったよ。でも……事件には関係してたって……」
言葉を選びながら、香はまいの方を見た。
まいは口元を押さえ、声を殺して震えていた。
「……関わらない……言ってたのに……絶対……関わらないって……信じてたのに……」
香は何も言えなかった。
ただ、スマホを持つ手に静かに力を込めながら、彼女の隣に寄り添った。
まるで、この夜の不安ごと抱きしめるように―
「謙、今……香から連絡があった。
まいちゃん、かなり動揺してる。たぶん、ニュースを見たんだ。
頼む、まいちゃんに……メールを送ってやってくれ。
、
安心させてやってほしい。これは……俺からのお願いだ」
純一が低く静かな声でそう言ったとき、俺は無言で頷いた。
ポケットからスマホを取り出し、画面を開く。
LINEのまいの名前をタップするだけなのに、なぜか指が動かなかった。
“……俺は、あいつに嘘をついてた”
記憶は……戻ってない。
それだけは本当だ。
でも、俺はまいに「事件に関わることはしない」って、何度も言った。
「巻き込まないよ、大丈夫」って、信じさせた。
なのに……実際はどうだ?
俺は、あの男を捕まえようとしていた。
警察と作戦を立てて動いていた。命も狙われ、
そして今、こうして事件のど真ん中にいる。
あれほどまいに心配させないって誓ったのに。
「もう大丈夫」って笑ったくせに、何も終わっちゃいなかった。
言い訳なんかできなかった。
「ごめん」の一言さえ、俺には重すぎた。
それでも、何も伝えないよりはマシだと思って――震える指先で、ようやく文字を打った。
「ごめん」
その三文字を打ち終えて、送信を押す瞬間、胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
これで、まいとの全てが終わるかもしれない。
それでも俺は、あの子にだけは嘘を重ねたくなかった。
最後にできることが、せめて本当の言葉を伝えることだけなら――
たった一言で償えるとは思っていない。
それでも、俺の罪の始まりには、この「ごめん」が必要だった。




