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352 【静かなる敗北、悔しさの中で、生かされた意味】


俺は怒りから震える指先で、さっき届いた奴からのメールを純一に差し出した。

あまりに歪んだ文面。挑発と嘲笑に満ちたその内容を、純一は無言のまま読み進めていく。


……すると――

彼の表情がみるみる変わっていくのが、横にいた俺にもはっきりと分かった。


鋭かった目が伏せられ、唇がわずかに震える。


「……謙、すまん」

絞り出すような声だった。

「……俺の完敗だ」


その言葉に、胸が締め付けられた。

あんなに誰よりも冷静で、誰よりも周到だった純一の、あまりに静かな敗北宣言。

言葉をかけたくても、俺は何も言えなかった。

その沈黙が、自分の無力さを突きつけてくるようで、情けなさだけが心に広がっていく。


その時だった。


「班長……ありがとうございました……」


振り向くと、小林さんが足早に純一へ向かってきた。

が、すぐに俺の目が異変に気づいた。


「……小林さん……背中……それ、撃たれて……?」


驚いて声を上げると、小林さんは一瞬きょとんとして、次の瞬間、薄く微笑んだ。


「これですか? 大丈夫です」

そう言って、彼女は無造作に上着の前を開いてみせた。


そこには──

しっかりと、防弾チョッキが装着されていた。


「橘さんが……出動前に渡してくれてたんです。“何があるか分からないから、必ず着ていけ”って」


軽く笑いながらそう語る小林さんの背中に銃弾の跡が一箇所、くっきりと残っていた。

そのチョッキがなければ──と思うと、冷や汗が流れる。


俺は思わず頭を深く下げた。


「……本当に、ありがとうございました……小林さん」


その言葉は、心からのものだった。


命を守られるということは、戦いの中で最も大きな“信頼の証”だ。

小林さんの冷静さも、橘の予見も、すべてがあって俺たちはまだここにいる。


それが、痛いほど分かる瞬間だった。


病院関係者と純一は、事件後もしばらくの間、緊迫した空気のなかで地下の構造と管理状況について話し合っていた。

目的はただひとつ──犯人の逃走経路の特定。


「使われていないマンホールがひとつあります」

関係者の一人が、思い出すように口を開いた。


それはボイラー室の奥、あまり人が立ち入らない場所にぽつんと設置されているものだった。

しかも、その蓋は簡単に開閉できる軽量タイプ。誰でも開けられる構造になっていた。


「すぐに確認を」

純一の声が低く響いた。


数名の捜査員が現場に駆けつけ、ボイラー室の片隅にあるマンホールを慎重に開けた。

ギィ……という金属が擦れる音とともに、冷たい空気が地下の暗闇から立ち上ってくる。


捜査員たちは装備を整え、懐中電灯を手にして次々とその中へと身を潜らせた。

狭く、湿ったトンネルはコンクリートの壁に覆われており、足元には泥水が溜まり、バシャッ、バシャッと水音が鳴り響いた。


しばらく進んだ先、壁面に無数の泥の手形がべったりと付いているのが見つかった。

それはつい数時間前についたばかりのように生々しく、鮮明だった。


「ここを通ったな……」

捜査員の一人が呟き、さらに先へと進む。


トンネルの終着点にたどり着いたとき、その場所には地上に続く排水口のような構造があり、外へと繋がっていることが分かった。


「ここです。ここから逃げたと見て間違いない」

捜査員が無線で報告する。


すぐに純一の指示で鑑識班が呼ばれ、逃走経路一帯に念入りな捜査が開始された。

泥、指紋、髪の毛、繊維、そして足跡──

わずかな痕跡も見逃すまいと、ライトが揺れ、カメラのシャッター音が地下に反響する。


純一は報告を聞きながら、静かに拳を握りしめた。

奴はこのルートを使って、確かにここから消えた。

あと一歩だった。ほんの少しでも気づくのが早ければ──




俺はソファに座る鈴木さんの隣に、そっと腰を下ろした。


「……すまなかったね。ごめん」


ようやく絞り出したその言葉に、鈴木さんが驚いたような目をした


「それに――あのとき、鈴木さんが声をかけてくれたから、俺……撃たれずに済んだ。あれがなかったら、どうなっていたか……」


少し間を置いて、俺は鈴木さんの目を見て、ゆっくりと言った。


「命の恩人だよ。本当に、ありがとう」


鈴木さんは小さく微笑みながらも、ふと真剣な表情に変わった。


「……どうして、命を狙われているのですか?」


その問いに、俺は視線を落としたまま答える。


「正直、わからない。何が理由かも……ただ、相当恨まれてるってことだけは確かみたいだな。記憶さえ戻れば、何か掴めるはずなんだけど」


鈴木さんは静かに頷き、何も言わずに俺の言葉を受け止めてくれた。


しばらく沈黙が流れる。


「遅くなってしまって、送ってあげたいんだけど……俺と一緒にいると危険だ。ごめん、ひとりで帰らせることになって」


「大丈夫です。心配しないでください。それよりも……高木さんの方こそ、大丈夫ですか?」


「うん。俺はもう大丈夫」


そう言って笑ってみせたが、どこか自分でも空々しく聞こえた。


「なんかね……こういうことに、慣れてきちゃったよ」


その言葉に、鈴木さんの表情がピクリと強張った。


「そんなこと、慣れないでください。命はひとつしかないんですから。粗末にしちゃ、いけません」


鋭くも優しいその声に、俺は思わず頭を下げた。


「……ああ、ごめん。そういう意味じゃないんだ。ただ……ちょっと落ち込んでただけ」

俺は続けた

「……期待しては裏切られて、また期待しては裏切られて……」


そう呟くと、俺は少し空を仰いだ。


「……それを、もう何度繰り返してきたんだろうな。希望を持ったぶんだけ、失望も大きくて……。それでも、どこかで信じてたんだ。今度こそって。今度こそ終わるって……」


少し笑ってみせたが、それは自嘲に近いものだった。


「……だからさ。今日こそは、全部が終わるって、心のどこかで信じてたんだよ。全てのピースが揃って、やっと俺にも静かな朝が来るって――そう思ってた。……なのに、またこれだ」


声が少し震えていたかもしれない。でも、もう隠す気力もなかった。


そう呟く俺の手のひらが、ふいに温もりに包まれた。


鈴木さんがそっと手を握ってくれていた。


「……しっかりしてください」


その声は、静かで、それでいてまっすぐに心に届くものだった。


「高木さんは、絶対に大丈夫です。私、ずっと見てきたから知っています。どんな状況でも、諦めないで戦い続けてきた……そんな人です」


俺は思わず目を見た。鈴木さんの眼差しはまっすぐで、そこに迷いはなかった。


「彼女さんも、きっと心配していますよ。だから……元気、出してください」


言葉の一つひとつが胸に響いた。


「……ありがとう」


そう、心からの声で俺は応えた。


心が少しずつ、温かくなるのを感じていた。




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