351 【闇の中の亡霊】
謙が見守る中、純一のもとに地下の進展が無線で伝えられた。
「資料室に拘束された人物2名を発見、命に別状なし」との報告に、純一は即座に応援部隊の追加指示を飛ばしていた。
その横で、俺のポケットでブルルル…と震える携帯。
俺は静かに画面を見ると奴からのメールだった。
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件名:
やあ、高木。生きてるか?
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本文:
お疲れ様、高木。
いや〜、つくづくお前は悪運だけは強いな。
まさかあんな状況で生き延びるとは思ってなかったよ。
本当は今日、きっちり“仕留める”予定だったんだ。
心臓に一発、ど真ん中で終わらせるつもりだったのにな。
でも残念だったよ。ほんと、残念で仕方がない。
なぁ、高木。
お前、俺を本気で怒らせたんだ。
もう後戻りはできねぇ。
これから先、お前の人生は「いつ来るか分からない地獄」になる。
外を歩くとき、背中に冷たい視線を感じたら、それは俺かもな。
エレベーターの中で誰かと乗り合わせたとき、後ろに立ってるのが俺だったら面白いよな。
何気なく振り返ってみろよ。俺が立ってるかもな。
警察が? あいつらじゃ無理だよ。
俺はもう“安全な場所”にいる。どれだけ捜しても、お前らには辿り着けない。
だから無駄なことは諦めて、せいぜい震えながら毎日を過ごしてくれ。
……そうだ、刑事にも伝えておいてくれ。
「また逃げられたんですね」って。
ははっ、悔しいだろ? お前らの手からスルリと消える俺のこと、憎くてたまらないだろ?
でもそれでいいんだよ。
その悔しさと恐怖の中で生きていけ。
これが“俺をはめようとした”報いだ。
じゃあな、高木。
今度は、いつ、どこで、どうやって――
お前の命を奪うか、俺がゆっくり選ばせてもらうよ。
楽しみにしててくれよ?
――俺様より。
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作戦10分前──歪みきった世界の中で
部屋の中は異様な静けさに包まれていた。
カチ、カチ……杉田の手元では、ナイフの柄を無意識に弾く乾いた音が鳴っている。
「……まだかよ……おい……」
独り言。いや、誰かに語りかけるような口調だった。
「出てこいよ……高木……おい、俺を……待たせんなって……」
ゴン、と壁を拳で叩いた。壁紙がひび割れた。
鼻息が荒い。目が血走っている。口元は笑っているのに、笑っていない。
「おせぇんだよ、毎回……お前……わざとだろ……?
俺を……俺を試してんのか? あァ?」
そのとき、
【プルルル……プルルル……】
携帯が震えた。
杉田はビクリと身体を震わせ、急に無音になる部屋でそれを握りしめた。
通話ボタンを押すと、低くて焦った声が響いた。
「……杉田か? 俺だ。すぐ逃げろ。警官が周囲にいる。お前の居場所、バレてる。罠だ。逃げろ、今すぐ――」
【ブツッ】
電話が切れた。
その瞬間、杉田の頭の奥で“ブチッ”と何かが切れた音がした。
「…………あ?」
目を見開き、呼吸が一気に荒くなる。
「クク……ククク……ハァッ、ハァッ……あの野郎……はめやがったな……」
三脚をガタガタと音を立てて登り、天井近くの窓から外を覗く。
【ギシ……チラ……】
見えた。スーツの男たちが不自然に動き回っている。
手には無線機、目は鋭く、だが挙動は不自然に落ち着かない。
「……ハァ……ハァァッ……やりやがったなぁ……クソが……」
手が震えている。
だが、その震えは恐怖ではなく、歓喜と怒りの混合物だった。
「殺す……殺す殺す殺す……殺す殺す……」
ぶつぶつと呟きながら、杉田は拳銃を手にした。
冷たい金属が、彼の掌にしっくりと馴染んだ。
「高木……お前、俺を“オモチャ”にしたな……? あァ?
バカにしたな……?
俺を……誰だと思ってやがる……!」
ゴッ、と拳銃のグリップを机に叩きつける。
「殺す……今すぐ……殺す……!」
「逃げねえよ、バーカ……殺してから逃げるんだよ……バカ……クズが……」
杉田の顔には、笑顔とも、憎悪とも、悲しみともつかぬ表情が張りついていた。
「……泣かせてやる……震えながら死んでいけ……」
「お前の血で……俺の靴、汚してみろよ……ふふふっ……」
ふらつきながら立ち上がり、最後に一度だけ部屋を見渡す。
「この部屋も、全部、今日で終わりだ……ははっ……やっと本当のショータイムだなぁ〜〜……」
その頬は、憎悪と興奮で紅潮していた。
部屋の電気をパチンと切った。
「フフッ……殺したあとでも、俺には逃げる時間が十分あるんだよなぁ〜〜〜……バカだなお前、詰めが甘ぇんだよ……」
「ははっ……ハハハハッ!!」
暗闇に響く、ねじれた笑い声。
計画の崩壊が、逆に彼をより“静かに狂わせていく”。
今、この男は確かに――
“殺すこと”だけを目的とした“化け物”になっていた。
闇の中、杉田の笑い声だけが、長く、ねっとりと響いていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
真っ暗闇だった。
目を開けているのかすら分からない。だが、男は確かに前に進んでいた。
バシャ……バシャ……バシャ……
ぬかるんだ足元を水が叩く音が、狭い通路に反響していた。
ぬめる床。鼻をつくカビと泥と鉄の匂い。
だが男は気にも止めず、ただ、ただ、前へ。
バシャッ……バシャ……バシャ……バシャッ……
口元からは、唸るような呻き声が漏れていた。
「殺してやる……殺してやる……殺してやる……」
最初は小声だった。だが、数歩進むごとに音量が増していく。
「殺してやる……殺してやる……ハハ、殺す……殺す……ぜったい、殺してやるッ……!」
不気味な呪文なような声が、狭いコンクリートの通路に何重にも反響する。
それはまるで、彼自身の声に背中を押されるようでもあり、あるいは闇が囁き返しているようでもあった。
「なァ、高木……聞こえてんだろ……?
お前の名前、何千回でも呼んでやるよ……死ぬまでな」
ゴン……と何かに肩がぶつかったが、男は気にせず笑った。
「ハァ……ハァ……ハァッ……いい気分だ……たまんねぇ……この感じ……この、底の底って感じ……生きてるって、こういうことだよなァ……」
それは人間の声ではなかった。
どこか“獣”に近い、いや、それよりもなお得体の知れないものだった。
やがて、前方に小さな光が見えた。
その一点の光が、男の眼をわずかに細めさせる。
まるで地獄から這い出る亡者が、再び人間の世界へと触れようとする瞬間だった。
「……出口、か? ……ククク……あったな、やっぱりよ……俺が計画していた抜け道に、間違いなんかあるわけねぇ……」
何十分歩いたのか、時間の感覚はとうに消えていた。
だが確かにその“終着点”は、存在していた。
そこには濁った水をたたえる浅い川が流れていた。
どこからか風が吹き、冷気が肌を撫でる。
その中を男は笑いながら、足を踏み入れた。
ジャブッ……バシャ……ジャブ、バシャバシャ……
「ハァッ……ハァッハァッハァ……ああ、たまんねぇ……たまんねぇよ……」
その笑い声は徐々に大きくなり、狂ったような高音に変わっていった。
「脱出成功〜……! 俺の勝ちだぁ……なァ、高木ィィィ……?」
バシャバシャと水を蹴立てながら、男の姿は薄闇に溶けていく。
その背中には、泥と汗と、終わらない狂気がまとわりついていた。
やがて、水音も、笑い声も消え、闇と静寂だけが再び通路を支配した。
ただ一つ、壁にこびりついた“奴の呟き”だけが、どこかでまだこだましていた――
「……待ってろよ……次は必ず殺す……」




