349 【誰もが息を潜めた午後】
俺と小林さんは、病院の正面入口、自動ドアの前で立ち止まっていた。
外はすでに夕暮れ。茜色に染まった空の下で、通りには人影もまばらだった。
なのに、なぜだろう。胸の奥がぎゅっと締めつけられるような緊張があった。
俺は軽く息を吐き、もう一度、深く深呼吸をした。
その仕草を見ていたのだろう、小林さんがそっと俺の横に並んで、優しく声をかけてくれた。
「大丈夫ですよ。今日はただ病院を出て、少し散歩するだけ。
私がついていますから、安心してくださいね」
その言葉に、ほんの少し肩の力が抜けた。
俺は頷いて「はい、わかりました」と返す。
小林さんは微笑んでから、少しおどけるように言った。
「せっかくですから、笑って歩きましょう。
それが一番自然で、相手への警戒心も和らぎますから」
「……はい、よろしくお願いします」
俺がそう返すと、小林さんが小さく「じゃあ、行きましょうか」と声をかけた。
俺たちはそろって、一歩前へと足を踏み出す。
自動ドアのセンサーが反応し、「ウィーン」という音とともに扉が開く。
その瞬間、純一の落ち着いた声が無線に響いた。
「作戦開始。全員、警戒態勢で行動を」
その言葉を皮切りに、目には見えない何本もの糸が、張り詰めるようにこの場に伸びたような気がした。
各配置に潜んでいたスタッフたちが、一斉に神経を研ぎ澄まし始める。
俺たちは、表面上はごく自然に。
だが、確かな決意を胸に抱えて、静かに、確実に“罠”の中へと歩き出した──。
外に出た瞬間、俺の目に映る景色が、ほんの少し違って見えた。
いつも通っているはずの病棟の前の道。空の色、風の匂い、聞こえる車の音や足音──
すべてがどこか静かで、張り詰めた糸のように感じた。
ゆっくりと歩き出した俺と小林さん。
肩を並べ、ただ前を向いて歩くだけのはずなのに、どこかぎこちなくて、俺は口を開くタイミングをうかがっていた。
そんな沈黙をふわりと壊してくれたのは、小林さんだった。
「高木さんと橘さんって、本当に仲がいいんですね」
声のトーンはやわらかく、何気ない世間話のように響いてきた。
それだけの一言が、不思議と俺の中の緊張をすっと溶かしていった。
「……ああ、そうですね。俺、今まだ記憶が戻りきってないんですけど……
純一は、そんな俺のことをずっと気にかけてくれてて。いつもそばにいてくれるんです」
俺の言葉を聞いて、小林さんはふんわりと微笑んだ。
「橘さんはすごく部下思いですよ。厳しいけど、ちゃんと見てくれてる人です。
私も何度も助けてもらってるんです。だから、今こうして一緒に動けてるんだと思います」
彼女のその微笑みがとても穏やかで、まるで心の奥まで陽が差し込むようだった。
その表情を見ているうちに、俺の中の緊張は次第にほぐれていった。
張りつめていた肩が自然と下がり、呼吸もゆっくりと深くなっていくのが自分でもわかった。
足取りも軽くなる。歩幅も自然と小林さんに揃ってきた。
誰かとただ話しながら歩く──そんな当たり前のことが、今はとてもありがたく思えた。
「……なんだか、緊張してたのが嘘みたいです。小林さん、ありがとうございます」
そう言うと、小林さんはまた優しく笑って、「その調子です」と返してくれた。
俺たちはそのまま、少しずつ歩みを進める。
この平穏の裏に、何が待ち構えているかはまだ分からない。
けれど、今のこの時間だけは──ほんの少しだけ、穏やかだった。
門のある病院の正面出入口まで、今ちょうど三分の一ほど進んだところだった。
あと三分の二──
距離を頭で計算しながらも、緊張の糸はすっかりゆるんでしまっていた。
それは、小林さんが横でずっと穏やかに話しかけてくれているからだ。
彼女の声は、どこか優しく、風に混ざって心地よく耳に届く。
その言葉ひとつひとつが俺の気を紛らわせ、神経を張りつめていたことを忘れさせてくれる。
俺はというと、まるで本当にただの同僚同士のような自然体で会話に乗っていた。
少し緊張していたのが嘘のように、顔が緩んでいるのが自分でもわかった。
「ねぇ、小林さん、彼氏さんとかいるんですか?って聞かれたら、なんて答えます?」
ふいにそんな言葉が頭に浮かび、自分でも何を言っているんだろうと苦笑しながら聞いてしまった。
我に返って、小林さんの顔をちらりと見ると──
彼女は一瞬、目を丸くしてから、照れたように笑った。
「え、彼氏ですか? 今はいないんですよ〜。残念ながら」
そう言ってから少しだけ肩をすくめて、
「高木さん、誰かいい人いたら紹介してくださいよ〜」とおどけた調子で言ってくる。
俺もつい笑ってしまった。
「小林さんなら、紹介しなくてもすぐに見つかりますって。放っておく方が悪いくらいですよ」
「え〜そんなこと言って、また上手いこと言ってくれちゃって」
小林さんが楽しそうに笑い、俺もつられて自然と笑顔になる。
ふと気づけば、ずっと張りつめていたはずの空気が嘘みたいに和らいでいた。
そうだ、きっと今の俺たちは「演技」なんかには見えない。
自然で、穏やかで──まるで何の事情も背負っていない二人のように歩いている。
そんな感覚が、少しだけ安心を与えてくれる。
そして──
会話に夢中になりながら、俺たちは門までのちょうど半分の距離まで来ていた。
緊張や警戒なんて、どこか遠くに置き去りにしてしまったかのように。
だがその時だった。
静かだった空気がふっと変わった気がした。
ほんのわずかな違和感──それがすべての始まりだった。
「高木さ〜ん!」
後ろから声が飛んできた。
聞き慣れた、どこか間の抜けた、でも明るい女性の声──
俺は思わず、反射的にその声の方へ振り返った。
──その瞬間だった。
「バァンッ! バァンッ!」
耳をつんざくような銃声が、空気を裂いて響いた。
周囲の時間が一気に凍りついたように感じた。
心臓が跳ねる音が、自分でもはっきりわかるほどだった。
「っ……!」
だが、俺が驚きで固まる間もなく、目の前にいた小林さんが咄嗟に俺の肩を突き飛ばした。
ドサッと地面に倒れた俺の上に、小林さんの細い身体が覆いかぶさるようにのしかかってきた。
「……っ! 小林さん……!」
「伏せて!」
俺がそう叫んだ直後、意識の端に捉えたのは──
エントランス近くに立っていた鈴木さんの姿だった。
混乱の中、彼女もまた銃声に反応して硬直していた。
俺は必死に声を張り上げた。
「鈴木さん、伏せてぇっ!!」
その声が届いたのか、鈴木さんが驚いた顔のまましゃがみ込むように動いた──
次の瞬間、捜査員のひとりが猛然と駆け寄り、彼女の身体をかばうように覆いかぶさった。
まさに訓練された隙の無い動きだった。誰かを守るという本能のように、即座に体を張っていた。
その途端、無線の音と共に一気に空気が切り替わった。
「班長、左前方からの射撃だと思います。上からかどうかまではわかりません」
小林が携帯マイクに叫んだ
「全員、配置確認! 射撃音は左正面方向! 狙撃手を探せ!」
無線が飛び交い、病院前は騒然となる。
捜査員たちは一斉に動き出し、誰が撃ったのか、どこから発砲されたのかを目を血走らせながら探していた。
歩道脇の木々、建物の上階、街路樹の影──
それぞれが銃口の先であるかのように、すべてが疑わしく見えた。
「……くそっ……!」
俺の喉から、無意識に低く絞り出すような声が漏れる。
さっきまで笑いながら歩いていた場所が、一瞬で戦場に変わった。
その変化に、呼吸すら乱されそうになる。
けれど、感じたのは恐怖だけではなかった。
小林さんの温もりが、俺の上にある。
彼女がとっさに自分を犠牲にしてまで守ってくれたという事実が、胸を締めつけた。
それが、今の俺に「ただの任務」ではなく、「本気で終わらせるんだ」という意志を思い出させた。
「こちら本部──発砲あり。現在、狙撃手の姿は確認できず。付近一帯、懸命な捜索を実行中。繰り返す、発砲あり。狙撃手、未確認!」
無線から鋭い声が響き、現場の空気がさらに張り詰める。
純一はその声を聞きながら、奥歯を食いしばっていた。
一瞬、言葉を失う。そして、静かに拳を握る。
「……なぜだ……。どうしてヤツに気づかれた……」
唇の奥から漏れるような声。
想定していたルート、時間、隊員の配置──どれも完璧だったはずだ。
「偶然」などありえない。ならば、奴は初めから今日、この瞬間を狙っていたというのか。
謙を──殺すために。
「……クソッ!」
純一はすぐに無線機を握りしめ、怒気を含んだ声で命令を飛ばした。
「全隊、至急警戒レベルを引き上げろ! 狙撃位置になり得る高所、死角、建物の影──すべて徹底的に洗え!」
無線越しにも、その声の切迫感は確実に隊員たちに伝わっているはずだった。
「絶対に逃すな! この場で仕留めるぞ。謙を──これ以上、危険にはさらせない!」
その叫びは、自身への怒りでもあり、強い決意の現れだった。
今までの積み重ね。謙の失った記憶。そして、奪われた平穏。
これ以上、誰も苦しませない。
今日こそ、終わらせる。
純一の瞳は、迷いなく鋭く前を見据えていた。
その目に映るのは、逃げ惑う犯人ではない。
すべてを終わらせる、ただ一点の着地点──その未来だけだった。
「出口はすべて封鎖しろ! どのルートもひとつ残らずだ!」
〈ピピッ!〉という無線の応答音が混ざる中、純一の怒号が響き渡る。
その声には、隊員全員の背筋を一気に正すような、揺るがぬ意志が込められていた。
「他の隊は──奴を探せ!」
〈ザッ! ザッ! ザッ!〉
無線越しに、走り出す足音。指示を受けて一斉に現場が動き始めた気配が伝わってくる。
「病院内も、一階から屋上まで──くまなく見ろ!」
「いいか……奴は絶対に逃げられない!」
〈カチッ、カチャッ……!〉
銃器の安全装置を外す音が遠くから何度も聞こえる。
動き出す隊員たちが、自分の命を守る以上に「誰かの命を守る覚悟」でその場にいるのが、音ひとつひとつから伝わってくる。
「必ず……必ず仕留めろ! この場で決着をつけるんだ……いいなッ!!」
〈ピピッ! ピピッ!〉
無線の向こうから、何人もの隊員が一斉に「了解!」と応える声が重なる。
その中には、かすかに息を切らしながらも、どこか誇り高い響きがあった。
彼らは全員が──危険をかえりみない火の中に飛び込むような男たちだった。
「──隊長、こちら北棟屋上!不審な影を確認!」
〈ザザッ……!〉無線の雑音の向こうから、新たな報告が入る。
純一の目が鋭く光った。
「よし、突入班はすぐ向かえ。周囲のカバーも忘れるな! ……行け!」
現場はすでに修羅場と化していた。
しかし、誰一人として退く者はいなかった。
──それが、彼らの“本気”だった。
捜査官たちは無言のまま、北棟屋上へと駆け上がった。
〈ダダダッ──ガチャッ!〉
重い金属製の屋上扉が勢いよく開けられ、冷たい夜風が一斉に隊員たちの顔をなぶった。
「……静かに行け」
隊長格の一人が小声で指示を出す。
〈カツ、カツ、カツ……〉
足音を限界まで抑えながら、全員が慎重に屋上の中央へと進む。
辺りに身を隠せる場所は──ひとつしかない。
巨大な水槽タンク。
「……ここだな」
〈シュッ……ザッ〉
複数の捜査員がそれぞれの角度から、息を殺しながら水槽タンクの裏側を包囲するように近づいていく。
汗が首筋をつたうのが分かる。
手にした拳銃が、わずかに震えているのを感じながら、1人の捜査官がそっと身を屈めてタンクの影を覗き込んだ。
〈キィィ……〉
金属のわずかな擦れる音が耳を裂くほど響く。
──次の瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、動かぬ人影。
「いた……!」
……と思った瞬間、彼は小さく息を飲んだ。
「──違う! これ、マネキンだ!」
〈ザワッ……〉
周囲の隊員が一瞬、息を呑み、ざわついた空気が走る。
「こちら北棟屋上──」
〈ピピッ〉
無線を取り出した捜査官が、やや荒い呼吸のまま報告を入れる。
「……確認しました。対象はマネキンです。こちら、誰もいません──異常なし。」
〈ザザ……ッ〉
無線の向こうの純一の耳に、その報告が届いた。
「……マネキン、だと?」
小さく呟いた純一の目が鋭く細められた。
(──まさか、最初から攪乱するつもりだったのか?)
その背後では、捜査員たちの息がいまだ荒く、安堵と疑念が入り混じった空気が、屋上を静かに包んでいた。
「どこだ……! 奴は、どこにいる──!」
〈バンッ!!〉
純一は手元の機材台を拳で叩きつけるように殴った。
その衝撃音が、作戦本部の静けさを突き破って響く。
完璧だった。
すべての配置も、タイミングも、指示も。
“あいつ”が動けば必ず捕らえられる──そう確信していた。
だが、奴は発砲し、混乱を引き起こし、そのまま姿を消した。
「……なぜだ。なぜ発砲できて、しかも消えられる……」
〈ピピッ……〉
無線を再度取り、純一は苛立ちを押し殺しながら叫ぶ。
「出口担当、報告を! 入口、出口に不審者はいないのか!」
無線の向こうから、冷静な報告が返ってくる。
「こちら南口──誰も通っていません。現在、全ての出入口は完全封鎖中。」
「こちら北──同じく、異常なし。監視カメラにも不審な影は映っていません。」
〈……ザッ……ザザッ〉
静寂が一瞬、通信越しに流れた。
純一は奥歯を食いしばった。
「……なぜだ! どこにいる……!」
声を張り上げる純一の額には汗が滲み、眉間には深い皺が刻まれていた。
全神経を集中させているが、一瞬のスキに奴が現れ、消えたことが信じられない。
〈キリキリ……〉
無意識に無線機を握る指に力が入り、プラスチックが軋む音さえ聞こえてくる。
「……奴はどこかに、まだいる。ここに──必ず。」
その言葉は、自分自身を鼓舞するように。
焦りと、悔しさと、責任が重くのしかかる中で、純一の目だけは鋭く前を見据えていた。




