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347 【軽口と笑顔、日常の中のひととき】


俺は、今日最後の仕事を終えて、パソコンをシャットダウンしながら小さく息をついた。

ひとつ、またひとつ、何かが終わっていく感覚。

この静けさは、久しぶりだった。


デスクの引き出しから私物をまとめてカバンに入れ、帰り支度を整えていると──

やっぱり来た。背後から近づいてくる足音。しかも、わかりやすくニヤニヤしながら。


「高木さん、どうでした?」


振り返ると案の定、武井が目を輝かせて立っていた。

まるで、恋の報告を今か今かと待っていた小学生のような顔で。


俺は少し意地悪な気持ちになって、わざと肩をすくめてみせた。


「鈴木さん、いなかったよ。

もう今日で完治したから、これで病院にも行かなくて済むな。会えないのは残念だけど、仕方ないか〜」


冗談混じりにそう言って、少し大げさにため息をついてみせると──

武井の顔が、見る見るうちにしょんぼりと曇っていった。


「……ほんとですかぁ〜」

まるで空気が抜けた風船のように肩を落とし、今にも床に座り込むんじゃないかってくらいにショックを受けた表情。


そのあまりに素直なリアクションに、つい俺は吹き出してしまった。


「嘘だよ、嘘!」

笑いながら手をひらひらと振って、「ちゃんと伝えたよ」と告げた。


「例の件、楽しみにしてるって言ったら、忘れてないってさ。

ちゃんと覚えててくれたよ。

……ほら、お前がしつこく頼むから、仕方なくな」


そう伝えると、武井の顔がぱあっと明るくなった。

まるでさっきの曇天が一気に晴れて、太陽が顔を出したかのような変わりようだった。


「マジっすか!?やったーー!……いや、すみません、あの、ほんとにありがとうございます!」


何度もぺこぺこと頭を下げる武井の姿に、俺はつい口元を緩めた。


「お前、ほんっと単純だな。アホか?」

そう言いながら笑い、彼の肩を軽く叩いた。


「でもな、あんまり浮かれてると、次は俺が邪魔するかもな」


「えっ、それはやめてくださいよ〜。俺、マジで真剣なんですから!」


武井がそう言って照れくさそうに笑うのを見て、俺はふっと小さく息を吐いた。

──こんな会話が、ただの雑談としてできる日常。

それが、何よりありがたいと思えた。


さあ、あとはまいを迎えに行くだけだ。


大捕物の幕が上がる。

でも今は、その前の静かな余白。

そう思いながら、俺はカバンを肩にかけた。



「高木さん、一緒に帰りますか?」


デスクの片付けをしていた俺に、武井が顔を覗き込むようにしてそう声をかけてきた。

いつもと変わらない、どこか気楽なその笑顔。

だが、今日の俺にはその提案に乗るわけにはいかなかった。


「すまん。これから人と会う約束があんだよ」

そう言いながら軽く頭を下げると、武井は少し残念そうに眉を下げた。


「そうですか?……なら、仕方ないですね。でも、今日の話、明日じっくり聞かせてくださいよ。鈴木さんとの話俺、細かいとこまで知りたいんで」


そのしつこさに思わず苦笑が漏れる。

「お前な……わかったよ。明日、ちゃんと教えてやるから」

そう言って背を向けた俺に、武井は満足げに小さく手を振り、廊下の奥へと歩いていった。


俺は彼の背中を見送ってから、ポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出した。

純一にメールを打ち始める。


「純一、今終わった。今から下に降りる。」


送信すると、すぐに既読がついて、返信が返ってきた。


「わかった。こちらは全て配置が整ってるから、何も心配はいらない。安心して降りてこい。」


その短い一文を見た瞬間、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。

俺の背中にずっと張り付いていた緊張が、今、やっとほどけていく──そんな感覚だった。


「これで、本当に……終わるんだな」


呟くように、心の中で言葉を繰り返す。

長かった。事件、怪我、まいのこと。

誰にも言えなかったこと、誰かに抱えてもらいたかったもの。

それらが少しずつ、過去の棚へと仕舞われていく。


だけど──今日という一日は、なんだか妙に優しかった。

鈴木さんの微笑み、武井のいつもの軽口。

そして、あの静かな診察室での小さな会話のやりとり。

それらが確かに俺を包んでいた。


『日常』というやつは、何の前触れもなく、こうして戻ってくるのかもしれない。

ほんの少し照れくさくて、でも安心できて。

きっと明日もまた、同じように朝が来て、いつもと変わらぬ会話が交わされるのだろう。


武井がまた「鈴木さんどうなったんすか〜」と聞いてきて、俺が適当にあしらって──

そんな風景が、頭をよぎった


俺は深く息を吸い込み、エレベーターの呼び出しボタンを押した。

静かな「チン」という音が、閉じかけていた今日という一日を、やさしく締めくくる。


階数表示がゆっくりと下がっていく。

俺はスマホをポケットにしまいながら、エレベーターの中でただ静かに目を閉じた。


これから俺が向かうのは、事件の“終わり”だ。

けれど同時に、たぶん“次の何か”の始まりでもある。

その何かが、希望であることを願いながら──

俺は一歩、静かに踏み出した。


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