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346 【静けさの先に、決着の時】


鈴木さんは、俺の腕をそっと取り、丁寧に軟膏を塗ってくれた。

その手つきは柔らかく、どこか母性的で、微笑んだ横顔が穏やかに見えた。


「はい、じゃあガーゼつけますね」


優しい声とともに、さらりとしたガーゼが患部にあてがわれる。

その手際の良さに、俺の緊張も徐々にほぐれていく。


処置が終わるのを待ちながら、俺は先生に尋ねた。


「先生、また何日かしたら診てもらいに来た方がいいですか?」


すると先生はカルテを見ながら首を横に振り、ゆっくりと答えた。


「いや、もう大丈夫ですよ。このまま様子を見ていってください。

シャワーは今日からでも構いません。お風呂は…そうですね、2〜3日後くらいからなら入って大丈夫です。

それにしても、筋肉に損傷がなくて本当に良かった」


「はい、ありがとうございました」


俺は心からそう答えた。

鈴木さんはその言葉を聞きながら、静かに処置の仕上げに入り、包帯を巻き終えると優しく微笑んだ。


そのあと、俺は試しに右腕を軽く回してみた。

痛みはまったくない。ただ、長く動かしていなかったせいか、少しだけ重たく感じる。


それを見た先生が言った。


「少しずつ様子を見ながら、動かして筋力を戻していけば大丈夫です。焦らずゆっくりでいいですよ」


そして、優しく一言。


「はい、じゃあこれで全部終わりです。お疲れさまでした。お大事にしてくださいね」


「……ありがとうございました」


俺は深々と頭を下げた。

ようやく、一区切りついたんだと実感しながら、ゆっくりと顔を上げた。



診察が終わり、立ち上がろうとした俺に、鈴木さんが優しく声をかけた。


「高木さん、こちらへどうぞ」


俺はその声に従い、少し離れた場所へと移動した。

このタイミングしかないと思い、意を決して話を切り出す。


「鈴木さん……あの、うちの武井が、合コンの件をすごく楽しみにしてまして。

どうかよろしくお願いしますね。すみません、俺が伝えるのも変かもしれませんけど」


鈴木さんは微笑みながら、少し首を傾げた。


「大丈夫ですよ、ちゃんと覚えてますから。

……そうだ、良かったらLINE、交換しませんか? 高木さんと直接やり取りできた方が早いと思うし」


一瞬、意外だったが、嬉しさのほうが勝っていた。


「あっ、はい。もちろん大丈夫です。……えっと、今この場で交換します? それとも……一度受付の前で待ってましょうか?」


「受付のソファーで待っていてください。ちょっとだけ携帯取りに戻ってきますから」


「わかりました。……あ、それと今日は本当にありがとうございました。すごく丁寧に対応してくださって、助かりました」


鈴木さんは優しく笑って首を振った。


「いいえ。こちらこそ。……それから、高木さん。

私と飲みに行くっていう話、忘れないでくださいね?」


その一言に、俺は不意を突かれたように顔が熱くなるのを感じた。


「……はい。忘れてませんよ。必ず行きましょうね」


少し照れながらそう答えた俺に、鈴木さんは軽く頷いて、その場を後にした。

俺は胸の奥が、じんわりとあたたかくなるのを感じながら、ソファーへと向かった。



外来の診療はすでに終わっていたようで、廊下には誰の姿もなかった。

病院独特の静けさの中に、自分の足音だけが軽く響く。

俺は受付の手続きを済ませ、ソファに腰を下ろしながら鈴木さんを待っていた。


──まるで、自分だけの時間が流れているような、不思議な感覚だった。


しばらくして、自動ドアの奥から鈴木さんが現れた。

白衣の上にカーディガンを羽織った彼女が、軽く息を弾ませながらこちらへ歩いてくる。


「お待たせしました、高木さん」


そう言って、少しはにかみながら携帯を取り出した。

俺もポケットからスマホを取り出すと、ふたりで画面を見ながらLINEの交換を始めた。


「……これで合ってますか?」


「うん、届きましたよ」


鈴木さんは安心したように笑って、すぐに可愛らしいスタンプをひとつ送ってくれた。

画面に表示されたウサギのキャラクターが、ぴょこんと手を振っている。


「これで……ちゃんと繋がりましたね」


その一言と一緒に見せてくれた笑顔が、とても柔らかくて、どこか照れくさそうで。

不意にドキッとしてしまった。

照明に照らされた鈴木さんの横顔が、なんだかいつもより綺麗に見えた。


「うん……ありがとう。連絡、これからさせてもらうかもしれません」


「はい。何でも聞いてくださいね。あと……飲みの件も、忘れてないですから」


「もちろん。楽しみにしてます」


ふたりの視線がふっと重なって、また少し笑った。

その瞬間だけ、静かな廊下にあたたかな風が吹いたような気がした。


俺は鈴木さんに軽く会釈をして、廊下をあとにした。

次に向かうのは、人事部。

そこでいつも通りの仕事を装いながら、夕方の決行を静かに待つ。


──これからきっと、大捕物になる。

現場に緊張が走り、張りつめた空気の中で誰かが走り、叫び、もしかしたら揉み合いになるかもしれない。

杉田はどこかに潜み、すぐ傍にいる可能性だってある。

その瞬間、すべてが暴かれ、止まっていた時間が一気に動き出すはずだ。


エレベーターの扉が開き、俺は無言のまま乗り込む。

ゆっくりと扉が閉まると、そこは俺ひとりだけの小さな密室。

静寂の中で、思考だけがやたらと鮮やかに動き始める。


──もし、杉田が俺の動きに気づいていたら?

──もし、駐車場で捜査官と一緒にいる俺に、あいつが近づいてきたら?


頭の中では、まるで映画のワンシーンのように緊迫した場面が浮かんでくる。

捜査官が俺の腕を取り、笑顔を浮かべて歩くその横で、俺は視線だけで周囲を探っている。

そのとき、ふと気配を感じて振り返ると、するとそこにあいつが……。


いや、そんな事はない

大丈夫だ。20人以上の捜査員が配置につく。

奴が動いた瞬間、全員が連携して確保に動く手はずだ。

俺のやるべきことはただ一つ。

捜査官と自然に帰宅する恋人を演じきるだけ。それだけで終わる。


心の中でそう繰り返しながら、右腕をそっと持ち上げてみた。

さっきまで包帯が巻かれていた部分はもう完治している。

もう動かすことはできる。それが今の自分の「準備完了」のサインだった。


「……やっと、終わるんだな」


小さく呟いた声が、エレベーターの無音に溶けて消えた。


怪我も、心も、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。

だが、それと同時に、胸の奥では確かに熱が灯っている──


これは「過去に戻るため」の戦いじゃない。

「これからを取り戻すため」の、一歩なんだなぁとつくづく考えていた。


エレベーターが静かに目的の階に到着する。

扉が開いたその先に、いつもの職場が広がっていた。


俺は深く息を吸い、何事もなかったような表情で歩き出した。

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