345 【終わりの始まり】
俺はひとり、エレベーターの中で静かに目を閉じた。
ここまで来るのに、どれほどの時間がかかっただろう。
巻き込まれるように始まった事件──気づけば、すべてが俺の人生を狂わせていた。
それが今、ようやく終わろうとしている。
「抜糸か……」
タイミングが良すぎて、少し笑ってしまいそうだった。
まるで、この傷と一緒にすべての苦しみまで取り去られていくような、そんな気さえしていた。
エレベーターが静かに音を立てて止まり、ドアが開いた。
俺は軽く息をついて、デスクへと戻った。
外科に行く準備を始めていると、やはりというか、武井がそっと近寄ってくる気配を感じた。
「高木さん、そろそろですか?」
心配そうな顔で、けれど少しだけ期待を込めてそう尋ねてくる。
「あぁ」
俺が短く答えると、武井はいつものようににこりと笑って、肩の力を抜いたように言った。
「……忘れてませんよね? 例の件、高木さん?」
まるで「絶対ですよ」と念を押すような、いたずらっぽい口調だった。
俺は思わず苦笑しながら、
「大丈夫だよ。ちゃんと聞いてきてやるから、安心して待ってろ」
と、あえて軽く返す。
すると武井は少し照れたように笑ってから、ふいに真面目な表情になって、丁寧に頭を下げた。
「……はい。よろしくお願いいたします」
その言葉に、俺は心の中でひとつ頷いた。
事件が終わっても、こうして俺を信じて頼ってくれる仲間もいる──それだけでも、俺は救われてる気がした。
「外科への再訪」
「じゃあ、ちょっと行ってくる」
そう武井に声をかけてから、俺は外科のあるフロアへと足を向けた。
廊下を歩きながら、自然と足取りはゆっくりになる。
この病院の中でも、外科という場所は俺にとって特別な意味を持っていた。
苦しみも、不安も、そして再生も……すべてここから始まったからだ。
受付に診察券を差し出すと、そこにいたのは見慣れない若いスタッフだった。
──あれ? 鈴木さんじゃない……?
その瞬間、胸の奥に少しだけざらつくような不安がよぎった。
(……やばい。武井との約束、守れないかもしれないな)
あの子は鈴木さんに会いたがってた。
けど、今日はいないのなら仕方がない。こればかりは俺の力じゃどうにもならない。
そう思い直し、少し肩を落としながら待合席に腰を下ろした。
しばらくして、「高木さーん」と名前を呼ばれ、中へと案内される。
俺は立ち上がり、処置室の扉をくぐった。
すると──
先生の横に、どこか懐かしい姿があった。
白衣の下から覗く落ち着いた雰囲気、そしてやさしい目元。
鈴木さんだ。
目が合った瞬間、彼女は控えめに、けれどはっきりと微笑んでくれた。
その笑みに、思わずこちらも口元がゆるむ。
それを見た先生が不思議そうに尋ねた。
「おや? 知り合いか?」
すると鈴木さんが、ほんの少し頬を赤らめながら、丁寧に応えた。
「入院中に担当していた患者さんなんです」
「なるほど、それでか。妙に嬉しそうだったからさ」
先生が冗談めかしてそう言いながら、和やかな空気が流れる。
俺はふっと胸をなでおろし、再び武井の顔が頭に浮かんだ。
(……ちゃんと伝えられそうだな)
そう心の中でつぶやきながら、診察台に腰をかけた。
「先生、抜糸って……やっぱり痛いですかね?」
少し不安げにそう尋ねると、先生は笑いながら首を横に振った。
「大丈夫、大丈夫。拳銃で撃たれるよりは、全然痛くないから」
その冗談めいた言葉に、処置室の空気が一瞬ふわっと和んだ。
すると隣で器具の準備をしていた鈴木さんが、驚いたように目を見開いた。
「えぇ……。高木さん、2ヶ月前は事故で、今度は拳銃……? 一体、病院でどんなお仕事されてるんですか? まさか、スパイだったりして?」
そう言って、鈴木さんがクスクスと笑いながら問いかけてくる。
「いやいや、ほんとに普通の事務職ですよ」
そう返しながら、俺は苦笑しつつ上着を脱いだ。
鈴木さんは俺の腕に巻かれた包帯を、丁寧な手つきでゆっくりと外していく。
布がはがされるたびに少しだけ冷たい空気が肌を撫で、気持ちが引き締まった。
包帯の下からあらわになった傷跡を見つめながら、鈴木さんが静かに口を開く。
「ああ……ほんとだったんですね。しっかり痕が残ってる……」
その声には驚きと、そしてどこか切なさのような感情が滲んでいた。
彼女はすぐに消毒液を取り出し、そっと俺の腕に触れた。
「高木さん、しみませんか?」
優しい口調に、こちらも少し肩の力が抜ける。
「うん、大丈夫です」
そう答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
そして、少し遠慮がちに、それでも聞かずにはいられなかったのだろう。
「……やっぱり、撃たれた時って、すごく痛かったですよね?」
その問いに、俺は一瞬笑いそうになりながらも、素直に頷いた。
「ああ、そりゃもう……想像以上だったよ」
そう応えると、鈴木さんは「あはは」と小さく笑い、また静かに処置に戻った。
ほんのわずかだけど、確かにあたたかな時間が、そこには流れていた。
先生が無言で立ち上がると、器具の並ぶトレイからハサミを手に取った。
そして俺の腕に手を伸ばし、リズムよく「バシ、バシッ」と音を立てて糸を切り始める。
俺はというと、少し緊張しながらその手元を横目で見ていた。
「次は何をされるんだ……」そんな思いが頭をよぎり、自然と肩に力が入る。
すると今度は先生がピンセットを手に取り、傷口を確かめながら、手早く縫い糸を一本——スッと抜いた。
「……痛っ」
反射的に声が漏れる。
その瞬間、先生は目元に優しい笑みを浮かべながら、冗談っぽく言った。
「大丈夫、大丈夫。一瞬で終わるから」
俺は少し眉をしかめながらも、どこかでその余裕の表情に安心していた。そして、少し笑いを混ぜるようにこう返した。
「先生……俺、病院職員なんですけど。まさかちょっと楽しんでません?」
その言葉に、すぐ隣に立っていた鈴木さんが吹き出す。
「先生はそんなことしませんって。ね?」
そう言って、こちらを見ながらくすっと笑うその顔に、ふと力が抜けた。
先生は再び真面目な表情に戻りながら、
「じゃあ、始めるよ」と優しく
声をかけ、再び糸を一本ずつ抜き始めた。
その度に、俺の口からはどうしても抑えきれずに声が漏れる。
「……うぅっ」
「……あぁ……」
そんな情けない声をあげるたびに、鈴木さんがそっと笑いをこらえる気配がした。
やがてすべての抜糸が終わると、先生は最後の確認をしながら一言、
「はい、終わったよ。お疲れ様。傷の状態も問題なし。順調だね」
と言ってくれた。
包帯を取ったばかりの腕には、少しだけ血がにじんでいたけれど、強い痛みはもうなかった。
傷の痛みよりもむしろ、「やっと一区切りついたんだな」という安堵が、胸の奥にじんわりと広がっていた。




