343 【信頼、懐の深さ】
「高木さん、昼飯行きましょう!」
明るく弾む声とともに、武井が笑顔で俺のデスクに近づいてきた。
気づけば、もうそんな時間らしい。
俺は思わず携帯に目をやった。
画面に表示された数字を見て、少しだけ驚いた。
さっきまで頭の中は杉田のことで埋め尽くされ、数字を打ち込みながらもずっと張り詰めた思考の中にいた。
気づかぬうちに、時間があっという間に流れていたのだ。
そんな俺の様子を見て、武井がいたずらっぽく笑った。
「やっぱり高木さんは真面目なんですよ。時間忘れるぐらい集中してるなんて、なかなかできることじゃないですよ〜。尊敬しますよ、ほんとに」
その屈託ない笑顔に、俺はつい苦笑いを浮かべた。
今の俺の頭の中が、まったく仕事のことではなかったことを思うと、少しだけ申し訳ない気もした。
「いや……仕事ができないから、必死なだけだよ」
冗談めかしてそう言ってみせたが、自分でも少しぎこちないのがわかった。
それでも武井は、俺のそんな言葉を真に受けるでもなく、ただ変わらず明るく笑っていた。
その明るさが、今の俺には少しだけまぶしくて──
そして、救いのようにも感じられた。
「高木さん、今日も社食でいいですか?」
武井がいつものように元気な声で尋ねてくる。
「ああ、大丈夫だよ」
そう答えると、俺たちは並んで社食へ向かって歩き出した。
ちょうどその時、背後から気配を感じて振り返ると、佐藤さんが穏やかな笑みを浮かべながら近づいてきていた。
「おう、高木。武井くんも。どうだ? 一緒に昼でもどうだ?」
その声に俺は一礼しながら「お願いします」と微笑み返した。
すると横の武井も少し遅れて慌てて頭を下げる。
「ありがとうございます!」
佐藤さんはその様子を見ながら軽く頷いたあと尋ねてきた。
「で、何食べたい? せっかくだし、希望を聞いてやるよ」
その問いに、武井は即座に嬉しそうな声で「社食で!」と答えた。
思わず俺は吹き出しそうになり、小声で武井の耳元に囁く。
「お前な……こういう時は“外に連れてってくれる”って意味だぞ、察しろよ」
それを聞いた佐藤さんが、クスリと笑いながら言った。
「いやいや、そんなに高級なもんじゃないけどな。たまには若い奴らにご馳走してやりたいのよ。今の時代、夜に飲みに誘うのもなかなか難しいしなぁ」
その言葉には、ちょっとした気遣いと、どこか時代の移り変わりを受け止めてきた大人の温かさが滲んでいた。
社食じゃない昼飯。
それだけなのに、なんだか少しだけ贅沢な気分になった。
「蕎麦屋でも行くか。ご飯ものでもなんでもあるしな」
佐藤さんがそう言って、俺たちに優しい笑みを向けた。
俺と武井は顔を見合わせてから、自然と笑みを浮かべる。
「じゃあ今日は、佐藤さんにお任せします」
そう伝えると、佐藤さんは「よし、じゃあ行こう」と軽くうなずいて先を歩き出した。
俺たちは、そのあとをゆっくりと並んでついていく。
昼下がりの街並みは穏やかで、春の光が柔らかく差し込んでいた。
けれど、病院の前を通りかかった時、ふと胸の奥にざらつく感覚がよみがえる。
……もしかしたら、今もどこかであいつが俺たちを見ているかもしれない。
そんな思いが一瞬頭をよぎった。
だが、俺たちは今、自然に笑っている。
談笑しながら、他愛もない話をしながら歩くこの姿を、仮にあいつが見ていたとしても――
「恐れているようには、見えないはずだ」
むしろこの状況なら、無理に明るく振る舞っているとは思われにくい。
逆に不自然さを感じさせるのは、ビクついたり、焦ったりしている姿の方だろう。
あいつが少しでも人を見る目を持っているなら、そこには気づくはずだ。
そして奴が全てを気づいた時は、もう終わりな事に
表面は笑顔、けれど胸の奥では確実に、次の一手を読み合う駆け引きが始まっていた。
病院を出て、歩いてすぐのところにある小さな日本蕎麦屋に入った。
昔ながらの木の引き戸をくぐると、出汁の香りとともに、静かで落ち着いた空間が広がっていた。
「ここの蕎麦、なかなかいけるんだよ」
佐藤さんがそう言いながら席に腰を下ろす。
その言葉を聞いて、俺は自然と「じゃあ、俺は蕎麦にします」と返した。
すると武井も間髪入れず、「じゃあ、僕も蕎麦でいきます」と笑顔で続く。
「なんか悪いな。じゃあ天ぷらの盛り合わせも付けようか」
佐藤さんが軽く笑いながらそう言ってくれたので、俺たちは遠慮せずに「お願いします」と頭を下げた。
注文は、ざる蕎麦三枚に、天ぷらの盛り合わせが三つ。
店員が下がると、湯呑みに注がれた熱いお茶を手に取りながら、佐藤さんがふと穏やかに口を開いた。
「どうだ?最近、仕事で不満とか困ってること、ないか?」
武井は少し驚いたような顔をしたが、俺はその顔を見て、口元に微笑みを浮かべながら言った。
「武井、こういう時こそ、本音で話すチャンスなんだよ。佐藤さんはただの上司じゃない。ちゃんと部下の声を聴いてくれる人だ。普段思ってること、話してみたら?」
俺の言葉に、佐藤さんは笑いながら
「おいおい、高木くん、相変わらず鋭いなぁ。あんまり俺をいじめないでくれよ」
その軽口に武井は少し照れながら、けれど真剣な表情で答えた。
「……課長、俺、本当に不満ないんです。正直、今の職場めちゃくちゃ楽しいです。先輩たちにもよくしてもらってて……感謝しかないです。だから、みんなで飲み会したいです。ほんとに」
その素直な言葉に、佐藤さんは一瞬驚いたような顔をした。
けれどすぐに、心からの笑みを浮かべて「そっか」とうなずいた。
温かい空気が、湯気とともに、ふわりとテーブルの上に広がっていた。
そんな他愛もない会話をしていると、店員が笑顔で蕎麦を運んできた。
「お待たせしました〜。天ぷらは、あとからお持ちしますね」
木のテーブルに、ざる蕎麦が静かに置かれていく。
鼻にふんわり香る出汁の匂いに、武井の顔が一瞬ほころんだ。
そのすぐ後を追うように、天ぷらの盛り合わせが運ばれてくると、佐藤さんが満足げに箸を手に取った。
「よし、さぁ、食べようか」
俺たちもそれにならって、「いただきます」と声を揃える。
最初の一口を啜った瞬間、冷たく締められた蕎麦ののどごしと、つゆの風味が心地よく広がった。
「……美味いっすね、これ」
俺が思わず口にすると、佐藤さんがどこか嬉しそうな顔をして笑った。
「だろ?天ぷらもな、なかなかイケるから。揚げたてだぞ」
その声に、箸がますます進んでいく。
特別な料理じゃない。けれど、この時間がなんだか、妙にありがたく感じた。
食事を終え、佐藤さんが勘定を済ませて暖簾をくぐると、昼下がりの光がやわらかく射し込んできた。
外の空気が、食後の満足感と相まって心地よい。
「さぁ、午後も頼むな」
佐藤さんがそう言いながら振り返る。
そして俺に目を向けて、少し声を落とした。
「高木くんは、また15時から外科だったよな?」
俺は一瞬申し訳なさそうに眉をひそめながら、「はい、すみません。ご迷惑かけて……」と返した。
けれど佐藤さんはすぐに笑って首を振った。
「今はまだ、リハビリ中なんだから、気にするなって。無理する方が、よっぽど迷惑だよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんと温かくなった。
この人のこういうところ——
立場や仕事の重さじゃなく、人の内側をちゃんと見てくれている。
佐藤という男の、懐の深さを、俺はあらためて実感していた。




