341 【絶対に上手くいく】
まいは洗い終えた食器を拭き終え、テーブルを軽く整えると、ふぅっとひと息ついてソファに腰を下ろした。
少し疲れたけれど、心はどこか落ち着いていた。部屋は静かで、外はまだ薄曇りの朝。
ちょっとだけ、目を閉じようかと思ったそのとき──。
ふとスマホの画面がふわりと点滅しているのに気がついた。
すぐに手に取って画面を確認すると、そこには「謙」の名前。メールの着信だった。
一瞬で胸の奥が高鳴る。
指が少し震えるほどだった。
彼からの言葉を、どれほど待ち望んでいたのか、自分でも驚くほどだった。
ゆっくりとメールを開いて、まいはその文章を読み始めた。
電車を待つ駅のホームからのメッセージ。
自分の言葉が謙の心に届き、ほんの少しでも彼の力になっているということ。
「まいのメールで元気が出た」と綴られたその一文に、涙が浮かびそうになるのをこらえながら、全てを読み終えた。
読み終えた瞬間、自然と口元に笑みが浮かんでいた。
自分でも、こんなに優しい気持ちになれるんだと少し驚くくらい、穏やかな笑顔だった。
謙は今、自分のために頑張っている。
何も思い出せないまま、混乱や不安と向き合いながらも、自分の居場所を守ろうとしている。
そんな謙の姿を思うと、胸がきゅっとなる。
──こんな私でも、謙の力になれてるんだ。
そう思えることが、なにより嬉しかった。
「謙……今日も、絶対うまくいくよ」
声には出さず、でも心の中でしっかりと願いながら、まいは画面をそっと胸元に抱えた。
「ちゃんと、願ってるからね。ずっと……応援してる。頑張って、謙……」
彼に届くかはわからない。
でも今、この想いを、空に放ちたくなるほど、まいの心の素直な気持ちだった。
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人事部のフロアに差しかかる頃、俺は武井と並んで歩きながら、ふと胸ポケットの携帯がわずかに震えるのを感じた。
振動は短く、控えめだったが、その感触は確かだった。誰かからの着信か──そんなことを思いながらも、俺はすぐにポケットに手を伸ばすことはせず、武井との会話を優先し、そのまま自然な流れで自分のデスクへと腰を下ろした。
すると、隣に立った武井が、ふと真面目な表情で俺のほうに顔を向けてきた。
「高木さん、なんかあったら、すぐに声かけてくださいね。いくらでもサポートしますから」
その言葉には、意外にも真剣な響きがあった。
けれど、次の瞬間にはすぐ、彼らしい調子で口調が緩む。
「……その代わり、鈴木さんの件、絶対よろしくお願いしますよ。ホントに、楽しみにしてるんですから!」
言い終えると、武井はニッと笑って、自分のデスクへと足早に向かっていった。
俺は思わず小さく笑ってしまった。
本当に、武井は面白い奴だなと思う。
時に真面目で、時に子どもみたいなテンションで話しかけてくる。
その軽さに助けられていることも、実は少なくない。
俺が今、こうして穏やかにデスクに座っていられるのも、彼の存在があるからかもしれない
武井の明るい声とやり取りの余韻を胸に残したまま、俺はひとつ、深呼吸をした。
思えばここ数分、ずっと笑っていた気がする。
朝の空気、仲間との何気ない会話──
少しだけ、ほんの少しだけ、日常の中にいる自分を取り戻していた。
──そんなことを思いながら、
だが、その束の間の安堵は、すぐに終わりを告げる。
さっきから胸ポケットで震えていた携帯が、やけに存在感を放っている気がした。
俺はその感触に導かれるように、ゆっくりとポケットに手を入れ、携帯を取り出した。
画面に表示された通知。
それはLINEのポップな着信ではなかった。
無機質な文字で表示されたメールの通知。
その瞬間、胸の奥が、どこか冷たく締めつけられるような感覚に包まれた。
……これは、奴だ。
内容を見るまでもなく、直感がそう告げていた。
たった一通の通知が、さっきまでの笑い声を静かに、しかし確実に遠ざけていく。
楽しかった時間が、もう一つの現実の世界へと切り替わる。
ああ、そうだ──これからが本番なんだ
楽しさの余韻を静かに振り払い、俺は深く息を吸い込んだ。
頭の中を冷たく研ぎ澄ませ、再び現実に向き合う準備を整えた。
俺は画面をタップした。
通知の送り主は……やはり、杉田だった。
メールを開いた瞬間、冷たい悪意が画面越しに染み出すように感じた。
⸻
「おはよう。
昨日は、楽しかったか?
それにしても……今朝の2人の顔、引きつってたなぁ。
あれ、まさかビビってたんじゃないのか?
クク……愉快だよ、愉快。お前ら。ほんと、笑える。
あの横にいた奴にも話したんだろ?
そいつも顔がこわばってたもんなぁ。
あの焦った表情……まさに見ものだったよ。
ま、仕事がんばれよ。
少しだけ猶予をやる。
それまでせいぜい楽しんでおけ。
ただし、なめたマネはするなよ。
予定なんて、いくらでも……俺の気分ひとつで変えられるからな?
――覚えとけ、クソ野郎。」
⸻
読み終えた瞬間、全身を駆け巡る怒りに、身体全体が熱くなった。
握ったスマホに力が入る。
「奴は餌にかかった……」
だが、俺は必死にその感情を押さえつけた。
今、浮かれたり怒りに飲まれても意味がない。
奴の思うつぼだ……冷静に、冷静に。
だが、心の奥底で誓った。
ーー奴は絶対に、許さない。ーー




