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340 【罠】


俺は玄関を出て、駅へと向かいながら、無意識のうちに杉田のことを考えていた。


あいつは、もうメールを読んだだろうか。

あの文章を、どう受け取っただろうか。


正直、杉田のことは何ひとつ覚えていない。

性格も、口調も、過去にどんなやり取りをしていたのかも、まるで記憶にない。

けれど——だからこそ、たった一通のメールでも、神経を研ぎ澄ませて読むことになる。


あの文面から伝わってきたのは、どこか馴れ馴れしく、そして自信に満ちた空気だった。

人を試すような言い回しや、軽い挑発にも似た表現。

まるで俺の反応を見て楽しんでいるような気配があった。


そんな男が、こちらからあんな皮肉まじりの返信を受け取ったとしたら——

きっと、何かしらの感情は動くはずだ。


俺が昨夜、返事をしなかったこと。

そして今朝送った、やや棘のある言葉。

もし逆の立場なら、少なからずイラっとするだろう。


そう考えると、今の杉田は——少しは動揺しているかもしれない。

あるいは、苛立っているか、こちらの真意を探ろうとしている最中か。


俺には杉田の過去も、性格も、何もわからない。

けれど、少なくとも今——

このやり取りの中でだけは、主導権を渡すつもりはない。



そんなことを考えているうちに、気づけば駅のホームに立っていた。

意識はしていなくても足は自然と目的地に向かっている

人の流れの中で、携帯を取り出す。

まいからのメールを思い出し

急に何か伝えたくなってきた。


嫌なことばかりではなく、楽しいことを考えようと……


画面を開き、指先が言葉を紡ぎ始める。



「おはよう、まい。


今、出勤途中だよ。池袋の駅のホームで、電車を待ってるところ。

さっき、まいのメールを読み返してて、なんだか嬉しくなった。


俺の言葉で“嬉し涙が出た”なんて……本当に驚いたけど、すごく、心に沁みたよ。

まいってやっぱり優しいね。

きっと辛いことも、寂しいこともたくさんあるのに、それでも誰かに優しくできるって、すごいことだと思う。


俺はそんなまいの言葉に、何度も救われてる。

今日も、まいのメールのおかげで『頑張ろう』って思えたよ。


きっと今日も、いろんなことがあると思う。

でも、大丈夫。うまくいくよ。そう信じてる。

いつも元気をくれてありがとう。

また、あとでメールするね。

それじゃ、行ってきます。」



送信を押した直後、タイミングを計ったように電車がホームに滑り込んできた。

車体が静かに揺れながら、俺を乗せてゆっくりと走り出す。


窓の外を流れていく街並みをぼんやりと眺めながら、俺はふと、自分の中にまるで正反対の感情が並んで存在していることに気づいた。

ひとつは、まいとの温かいやりとりがもたらす穏やかな安らぎ。

もうひとつは、杉田との張り詰めたやり取りの裏に潜む、決して気を緩められない緊張感。


まるで、同じ朝の中でまったく別の世界が動いているようだった。

俺はその両方を、胸の奥で静かに噛みしめていた。


駅に着き、職場へ向かって歩き出したところで、背後から声が飛んできた。


「高木さーん!」


振り返ると、少し息を切らせながら武井が駆け寄ってくるのが見えた。

相変わらず朝から元気そうだ。


「おはようございます!」

元気な挨拶に、俺も「おはよう」と短く返す。


すると武井は、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、ぐっと距離を詰めてきた。


「高木さん、鈴木さん……本当に合コン、セッティングしてくれますかねぇ?」


なんとも言えない期待に満ちた目を向けられ、俺は少し苦笑いしながら、


「……多分な」とだけ答える。

若干冷めたような返事だったかもしれないが、武井にはあまり気にならないようだった。


「ちゃんと協力してくださいよね!」

「今日、鈴木さんと会うんですよね? そのときに確認、お願いしますよ!」


「……あぁ、わかったよ」

面倒だとは思いつつも、そこまで言われたら断る理由もない。


そんな俺の反応にも構わず、武井はさらに声を弾ませて言った。


「だって、楽しみじゃないですかぁ!

春が……もうすぐ来るかもしれないんですよぉ!」


その言い方が妙にツボに入り、俺は思わず吹き出してしまった。


——ほんと、こいつは朝から全力だ。

けれど、そのまっすぐな明るさに、少しだけ気持ちが軽くなったのも事実だった。


ふと、そんな考えが頭をよぎった。


職場に着くまでは笑って会話を続ける。

けれど、門をくぐった瞬間からは表情を引き締め、エントランスまで笑顔を封印する。


——もし、奴が本当に俺を監視しているとしたら。

俺の表情ひとつで、内心の動きを読み取ろうとしてくるかもしれない。


ならば、こちらから仕掛けてやるのも悪くない。


そう思いながら、隣を歩く武井に、再び合コンの話題を振ってみた。

「で? 武井、どんな子がタイプなんだ?」


すると武井は待ってましたとばかりに、テンション高く過去の合コンエピソードを話し始める。

まるでスイッチが入ったかのように、楽しげに身振り手振りを交えて語るその姿は、まさに無邪気そのものだった。


俺はその様子に軽く相槌を打ちながらも、どこか冷静な目で周囲の空気を感じ取っていた。


——笑っている俺と、無表情の俺。

どちらに奴は反応するのか。

この小さな実験が、何かのヒントになるかもしれない。


俺たちは病院の前の道まで、軽口を叩きながら笑って歩いてきた。

武井の合コン話は尽きる気配がなく、そのテンションの高さに、つい俺も笑いがこぼれていた。


だが、病院の門が見えてきたところで、俺はふと立ち止まり、真剣な声で武井に言った。


「ごめん。ここからエントランスまでは、話しかけないでくれ。」


突然のことに、武井は不思議そうに首をかしげる。


「え、なんでですか?」


俺は少し声を潜めて答える。


「ちょっとした実験なんだ。俺が不機嫌そうな顔をしていても気にしないでくれ。理由は後で話す。……武井も、真剣な顔でいてくれないか?」


武井は一瞬きょとんとしたが、すぐに真面目な顔に切り替え、「わかりました」と頷いた。


ふたり並んで歩き出す。さっきまでの和やかさは消え、代わりに張り詰めた沈黙がふたりを包む。

職員や患者たちが行き交う中、笑わず、ただ無言でエントランスを目指して歩く俺たちは、周囲から見ればどこか異質な空気をまとっていたかもしれない。


足音だけがコツコツと響く。

武井の横顔も、驚くほど真面目だった。


そして、エントランスの自動ドアが開いた瞬間、緊張の糸がふっと解けるように、武井が小さく吹き出した。


「……ダメだ、笑うなって言われると、逆に笑いたくなりますよ」


そう言って、こらえきれずにくすくすと微笑んだ。


俺も思わず小さく笑ってしまう。


——だが、俺の心の奥では、別の感情が静かに蠢いていた。

これは、ただの冗談ではない。あくまで“試し”だ。

見えない相手の気配を探るための、ささやかな一手に過ぎない。





「高木さん、今の……なんだったんですかぁ?」


エントランスを抜け、いつもの日常に戻った途端、武井が首をかしげながら尋ねてきた。

真剣な顔から一転、子どものような好奇心丸出しの表情だった。


俺は少しだけ立ち止まり、軽く息をついてから問い返す。


「武井……さっき、俺たちが門をくぐった後、周りの人の様子、気にして見てたか?」


「え? いえ……全然。そんなとこ見てなかったですよぉ〜」

武井は肩をすくめて苦笑いを浮かべる。


「……そっか」


俺は頷くと、ふっと口元に笑みを浮かべた。


「人間ウォッチングってやつだよ。ちょっとした観察な」


「観察、ですか?」


「ああ。門の前まではさ、俺たちゲラゲラ笑いながら歩いてきただろ? それが突然、無言になって真顔で歩き出したら……周りの人間はどんな反応をすると思う?」


「……えっ、まさか、それって」


「そう。ちょっと気になって、急に思いついたんだよ。だから試してみた。別に深い意味はない。ただ、変わった行動を取ると人の視線がどう動くか……どこに違和感を感じるか……それを見てみたかっただけだ」


俺はそう言って、笑った。

その笑顔には、どこか軽さを装ったような色があったかもしれない。


「別に大したことじゃないけどな。ただの思いつきだよ」


「なんですかそれ〜!気になるじゃないですかぁ!」


武井は苦笑いしながらも、訳がわかないといった顔をしていた。


——けれど俺の中では、単なる遊びのように語ったその“実験”に、ほんの少しばかりの確信があった。

あの中に、俺たちを見ていた奴はいたのか。

笑ってごまかしたその裏で、俺の目だけは、今も静かに周囲を探っていた。



謙には確信があった


もし、奴がこの餌にかかればきっとメールで知らせてくる。

きっと、上から見下した様に……



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