339 【宣戦布告】
朝、目を覚ました瞬間に頭に浮かんだのは、今日仕掛ける“罠”のことだった。
──今日、あいつを炙り出す。
その思いが胸の中で静かに燃えていた。
もし今日の計画がうまくいけば、奴がどこで潜伏しているのかを特定できる。
その場で逮捕に至る可能性もある──そう考えると、期待が自然と膨らんでいくのを感じた。
けれど同時に、気が引き締まる。
純一が立てたこの計画を絶対に無駄にしてはいけない。
今日、会社で純一に会ったら、細かい段取りをきちんと確認しておこう。
何一つ抜けがないように、自分の役割をもう一度しっかり把握しなければならない──
そんな責任感が、俺の寝ぼけた頭をじわじわと目覚めさせていった。
その時ふと、俺は思い出した。
……そうだ。
まだ、奴からのメールに返事をしていなかった。
しばらくの間忘れていたその事実が、急に胸に引っかかり始めた。
今日の罠に関わる重要な一手──その返事も、計画の一部になるのかもしれない。
俺は少し早いが布団からゆっくりと身体を起こし、いつも通りの朝のルーティンを始めた。
顔を洗い、歯を磨き、湯を沸かしてコーヒーを淹れる。
まだ静かな朝の空気の中で、そのひとつひとつが、気持ちを整えていく。
すべてがひと段落して、ソファーに腰を下ろす。
テーブルの上に置いていたスマホを手に取って画面を開くと──
まいからメッセージが届いていた。
いつ届いたものだろうと思いながら開くと、こんな文面が並んでいた。
⸻
「謙、忙しいのにありがとう。
謙の優しさがすごく伝わってきて、思わず泣いちゃった。
でもね、それは悲しい涙じゃないよ。嬉し涙。
私は今、本当に幸せなんだって、改めて感じてるの。
でもね、食事のことは別! ちゃんとしないと、怒りますからね(笑)
それから約束、絶対守るよ。
つけ麺風焼きそば、謙のために、ちゃんと作ってあげる。
楽しみに待っててね。
じゃあ、私も寝ます。
今夜は、久しぶりにゆっくり眠れそうな気がするよ。
謙、おやすみなさい」
⸻
画面を見つめながら、俺は思った。
──まい、夜中にこんなメッセージをくれていたんだな。
眠る前の静かな時間に、俺の言葉に応えてくれたんだと思うと、胸の奥がじんわりとなってくる。
「嬉し涙」なんて、そんな言葉に感じてもらえるなんて──
俺の何気ない言葉が、彼女の心をあたためられたのだとしたら、それだけで十分だった。
自然と口元がほころび、気がつくと、心まで軽くなっていた。
まいの存在が、こんなにも自分を支えてくれている。
そう、改めて実感していた。
まいから届いたメールを読み終えたとき、胸の奥で何かが静かに燃え始めた。
いや、静かなんかじゃない。どこかで抑えていた感情が一気に噴き出すように、俺の中で怒りが渦を巻いた。
早く終わらせなければ。
奴との決着を、どうしてもつけなければならない。
あの日からずっと、そう思っていたはずなのに——まいの文字を目で追った瞬間、それが確かなものえと実感した。
すべては奴のせい…
まいの姉さんまで巻き込まれてしまった、あの出来事も——すべて。
その事実を改めて考えると、心の中で静かに燃えていた火が、怒りという名の炎になって、激しく燃え上がってきた。
そして、心の中でひとつの決意を固めた。
早く終わらせる……
奴を挑発するしかない……
待っているだけじゃ終わらない。
奴が動くのをただ見ているだけなんて、もうたくさんだ。
今度はこちらから仕掛けてやる。そうでなければ、きっとこの泥沼は終わらない。
俺はスマホを手に取り、奴から届いていたメールを開いた。
俺は奴に静かにメールを打ち出した。
「昨夜は楽しかったよ…だから返信返すの今になってしまった。すまんすまん。
今夜もちょっと予定があるんだ。
ゆっくり相手出来なくてごめんな
でも普段何やってるんだ?
もしかして俺のことずうっと観察してるの?
もしそうなら大変だな。
俺はこれから出勤するから、それで多分17時には会社を出るから。
だからこの間はゆっくりしてください。では」
自分の書いたその文章を、もう一度読み返す。
表面上は穏やかに見えるその文面に、俺はあえて棘を隠した。皮肉と挑発、そして気づかれない程度の怒り——すべてを込めた。
そして、指先がそっと触れた。
迷いは、もうどこにもなかった。
送信……
全てが、静かに始まった。
携帯は、まるで何事もなかったかのように、無垢な音をひとつ鳴らしてメッセージを送り出す。
そこに込められた思惑も、怒りも、宣戦の意図さえも知らず、ただの電気信号として、宛先へと送られていった。
人の心を知らぬ機械は、あまりにも静かで、あまりにも優しい。
その無垢さが、今はやけに残酷に感じられた。
これは単なる返信なんかじゃない。
これは、俺から奴への「宣戦布告」だ。
じっと待っているだけの立場は、もう終わりにする。
着信音が、無遠慮に静寂を裂いた。
男はゆっくりと携帯を手に取り、画面をのぞき込む。
その目が、徐々に細くなる。
そして、読み進めるうちに、彼の肩がわずかに震え始めた。
いや、それは寒さでも恐怖でもない。
もっと深く、黒く淀んだ感情。
憎しみ——それが音もなく、男の内側から沸き上がっていた。
「高木……!」
かすれた声が、喉の奥から漏れる。
握りしめた手がわずかに音を立てた。関節が軋む。
「許せねぇ……」
目の奥には、冷たい光が灯っていた。
怒りとは違う。
それは、怒りを通り越してしまった者だけが持つ、確かな”執念”だった。
「バカにしやがって……俺を……」
歯ぎしりが聞こえるほどに、奥歯が噛み締められる。
その手には、まだメールの画面が映ったままの携帯が握られていた。
まるでそれすらも、壊してしまいたいという衝動を押さえつけながら。
男の中で、何かが音を立てて崩れ始めていた




