335 【楽しさから一変、いつまで続く……】
俺は鈴木さんを駅で見送ったあと、そのまま家へ向かって歩いていた。
すっかり暗くなった帰り道、街灯の光が静かに足元を照らす中、ふと、まいのことが頭をよぎった。
さっきまで隣を歩いていた鈴木さんの後ろ姿が、どこかまいに重なって見えた気がして、胸の奥が少しざわついた。
あいつ、今何してるんだろう……。
そんなことをぼんやり考えながら、俺は気の抜けた足取りで歩き続けていた。
そのとき、突然ポケットの中で携帯が震えた。
咄嗟に、「まいか?」と心が反応する。
まるで呼ばれたような気がして、すぐさま携帯を取り出し、液晶を確認した。
――だが、違った。
通知の文字を見た瞬間、心臓がひとつ、嫌な音を立てた。
ショートメール。
その短い表示に、胸騒ぎが走った。
まさか、と思いながらも、どこかで確信していた。
予感は、外れなかった。
俺は、無意識に眉をひそめながら、そのメールを開いた。
――送り主は、あいつだった。
この夜が、ただの帰り道では終わらないと悟った瞬間だった。
メールに目を通すと
「三人、楽しそうだったなぁ。
これから飲みにでも行くのかと思ったよ。お前ら三人のすぐ近くにいたが、よっぽど楽しかったんだろうな。気がつきもしないで、笑ってやがって。
隣にいた女も、もう一人の男も――しっかり顔は覚えたからな。
くれぐれも用心しろ。
お前が楽しそうにしている姿を見るだけで、胸くそ悪くなる。
あぁ……本当に気分が悪い。
また、連絡するよ。
今夜はせいぜい“飲み会”を楽しんでくれ。」
画面を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
思わず携帯を握りしめた手に力がこもる。指先がじっとりと汗ばんでいた。
近くにいた……
この言葉が頭の中で何度もこだました。
まるで冷たい手で首筋を撫でられたような、
そんな嫌な感覚が身体中に広がって
俺たちを見ていた……?
武井と鈴木さんと、ただ駅まで一緒に歩いていただけ、それを“飲み会”と勘違いして、勝手な妄想を膨らませている。だが、問題はそこじゃない。
本当に、近くにいたのか?
気づかなかった。全く。すぐそばに“あいつ”がいて、俺たちを観察していたのかもしれない。
吐き気がこみ上げてきた。一瞬前まで感じていた日常の延長線が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
一気に現実に引き戻された。この一通のメールで、さっきまでの気楽な空気はすっかり消えていた。
冷たい夜風が、急に痛いほどに感じる。
奴は、確実に俺たちのすぐそばにいた。
その事実だけが、頭から離れなかった。
だが――
いずれは決着をつけなければならないことだ。
逃げてばかりはいられない。そんなことは、とっくにわかっていた。
……そうだ、俺はもう、気持ちを切り替えたんだ。怖がる事は何もない…。
あの過去に縛られたままでいるわけにはいかない。
焦ることもない。
タイミングは、ちゃんと自分で見極める。
そう自分に言い聞かせるように、俺は深く息を吐いた。
少し冷えた夜の空気を吸い込みながら、駅から家までの帰り道を歩いていた。
ふと視線を上げると、家のすぐ近くのコンビニの明かりが目に入ってくる。
なんでもない光景だけど、こうして見える日常の風景が、今はやけにありがたく感じた。
「……ビールでも、買っていくか。」
ぼそりと呟きながら、俺は自動ドアの前に立ち、ゆっくりと店の中へと足を踏み入れた。
温かい空気とほのかなレジ横の惣菜の匂いが鼻をくすぐる。
現実に戻った証のような、その感覚が妙に心地よかった。
買い物を済ませて部屋に戻ると、急に身体が重たく感じた。
気が張っていたせいか、ドアを閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せてくる。
俺は無言のままソファに腰を下ろし、ゆっくりと深く息を吐いた。
着ていた上着を脱ぎ、無造作に隣に置くと、ポケットから警棒、純一から借りた携帯電話、そして……まいのキーホルダーを取り出して、テーブルの上に並べた。
ふと、星の形をしたそのキーホルダーに目が留まる。
そっと手に取ると、小さくて軽いその存在が、なぜか胸の奥にじんわりと染みてくる。
「……まい、俺たち……いつになったら会えるのかなぁ。」
思わず、口からこぼれた言葉は、自分でも気づかないほどの寂しさと不安を滲ませていた。
誰に聞かせるでもなく、ただ静かに、ぽつりと呟いたその声だけが、部屋の中に響いていた。
その頃
夕食を香と済ませたあと、まいは早々に自室へと戻った。
香は「ゆっくりしてきなね」と優しく声をかけてくれたが、まいにはそれ以上の言葉はいらなかった。
部屋のドアを静かに閉めると、まいはベッドの端に腰を下ろし、膝に抱えたスマートフォンを見つめた。
理由はひとつ――謙からの連絡を待っていたからだ。
だけど、携帯はずっと静かなまま。
何度も画面をつけては消し、時間だけがじりじりと過ぎていく。
(……謙、今頃どうしてるのかな。やっぱり思った以上に忙しいのかな……)
ふとそんな考えが頭をよぎる。
もし、ゴールデンウィークの約束が難しいのだとしたら――それは仕方のないこと。
仕事が大切だってわかっている。けれど……
(その時、私……ちゃんと平気でいられるかな……)
まいは目を伏せたまま、そっと胸に手を当てた。
笑って「大丈夫だよ」と言える自信がない。
でも、だからと言って勝手に思い込むのも違うと、自分に言い聞かせた。
(……やっぱり、ちゃんと話さなきゃ。謙と話をしてからじゃなきゃ。そうじゃないと、また変な事考えてしまう……)
まいは、小さく深呼吸をした。
心の奥に芽生えた不安と希望、その両方を胸に、静かに携帯の着信を待ち続けていた。
俺はふと気になって、テーブルに置かれた携帯を手に取ってスマートフォンの画面をじっと見つめた。
あのメール……奴からのあの文章。何か、どこかが引っかかる……
“おかしい”と、そうはっきりと言い切れるわけじゃない。
だが、どうしても拭いきれない妙な感覚が胸の奥に残っていた。
何度もスクロールして読み返してみる。
文面は脅しとも嫌味ともとれる内容だが、それ自体は今までも似たようなものだった。
けれど、今回のメールには何かが違う……その「何か」が、どうしても掴めない。
(違和感……なのか? それとも俺が過敏になっているだけか……)
思考が堂々巡りを始め、答えのないトンネルを彷徨っているような気分になった。
一人ではどうにもならない。だが、このモヤモヤを放っておくわけにもいかない。
そのとき、ふと頭に浮かんだのは――純一の顔だった。
(……あいつなら、何か気づくかもしれない)
俺はすぐにスマートフォンを操作し、奴から届いたメールのスクリーンショットを撮ると、純一とのLINEを開いた。
指が自然と動く。文章を打ち込みながら、どこかで少しだけ気持ちが落ち着いていくのを感じた。
⸻
純一、お疲れさま。
休む間もなくてごめん。
今夜、また奴からメールが届いた。
正直、いつも通りと言えばそれまでなんだけど……何か今回は違和感がある。
何度も読み返してみたけど、どこがどうとは説明できない。
でも、引っかかってるんだ。どうしても。
お前なら、何か感じ取れるかもしれないと思って。
メールのスクショ、添付するから確認してもらえないか?
何か分かったら、教えてくれ。頼む。
⸻
俺はそのまま送信ボタンを押し、画面を見つめたまま深く息を吐いた。




